白き監督官
レインコート第1整備ドック。
いつもなら活気に満ちているはずのその場所は、墓場のような静寂と、重苦しい鉛色の空気に支配されていた。
「……ダメだわ。計算が合わない」
整備主任のマリーが、デスクに突っ伏して呻き声を上げた。
彼女の周囲には、無数の設計図データと、計算式が書き殴られたホログラムウィンドウが散乱している。
「あの『電磁偏向シールド』を再現するには、今の私たちのジェネレーター出力じゃ全然足りない。
外部バッテリーを背負わせる? ダメ、機動性が死ぬわ。
じゃあ装甲を厚くする? ……意味ない。エリザベートの槍は、戦艦の装甲板だって紙切れみたいに引き裂く威力だったもの」
マリーは髪をくしゃくしゃとかきむしり、悲鳴交じりに叫んだ。
「ああもう! 物理法則が違うのよ!
リミッター解除前提の設計なんて、今のレインコートの技術じゃ解析不能だよ!」
私は、ハンガーの隅に座り込み、その様子を黙って見ていた。
私の愛機『レイニーブルー弐式・改』は、マリーたちの不眠不休の作業によって、外見上の修復は完了している。
だが、それは「元に戻った」だけだ。
あの白い悪夢、エリザベートとアンブロシアに手も足も出ずに敗北した「弱い機体」に戻ったに過ぎない。
「……ローズ。情報の方は?」
私は通信機越しに、作戦司令室にいるローズへ問いかけた。
彼女の声もまた、疲れと焦燥に沈んでいた。
『……全滅よ、リリィ。
衛星軌道のデブリ監視、地上波の傍受、熱源探査……考えうるすべての手段を使ったけど、彼らの行方は掴めないわ。
まるで幽霊みたいに、ふっと消えてしまった』
「そうか……」
私は拳を握りしめた。
エリザベートたちは言った。『猶予を与える』と。
それは慈悲ではない。
「今は殺す価値もない」「再教育の準備ができるまで待っていろ」という、絶対強者からの侮蔑だ。
人間を殺すつもりがないことだけが、唯一の救いだった。
だが、彼らの目的は「保護」という名の「飼育」だ。
カイルやエマたち人間が、ガラスケースの中の標本にされる未来。
それが刻一刻と迫っているのに、私たちには対抗する術がない。
「……悔しいな」
ポツリと漏れた言葉は、ドックの床に重く落ちた。
身長142センチの私の体は、無力感に押しつぶされそうだった。
私たちは、生かされているだけだ。
次に彼らが気まぐれを起こせば、レインコートなど一夜にして更地にされるだろう。
その時だった。
ウゥゥゥゥゥン……!!
都市全体を揺るがすような、重低音の警報サイレンが鳴り響いた。
『緊急警報! 緊急警報!
地上ゲート方面より、未確認反応接近!』
ゲート監視員の切迫した声が、スピーカーから飛び込んでくる。
『こ、これは……熱源反応ではありません!
質量反応です! 巨大な……とてつもない質量の物体が、こちらに向かってきています!』
「質量物体だと!?」
私は弾かれたように立ち上がった。
「まさか、機械軍の総攻撃か!?」
『い、いえ、違います! 生体反応はありませんが……
その、映像を確認してください! 信じられません、これは……!』
メインモニターに、地上のカメラ映像が映し出される。
そこに映っていた光景に、ドックにいた全員が息を呑み、そして我が目を疑った。
荒野の彼方から、土煙を上げて近づいてくる「それ」は、異様な光景だった。
先頭を歩いているのは、たった一人の女性型アンドロイドだ。
プラチナブロンドの長い髪。純白のフリル。
戦場には似つかわしくない、メイド服を纏った女性。
彼女は、優雅に、まるでピクニックに来たかのような足取りで歩いている。
だが、その背後には地獄が引きずられていた。
ズズズズズズズズ……!!
大地を削る轟音。
彼女の細い手が握っているのは、数本のワイヤーだ。
そのワイヤーの先には、かつて私たちが死闘の末に退けたはずの機械軍の指揮官機「弐拾弐式・村田連発」の、全長15メートルを超える巨体が繋がれていた。
さらに、その巨体の上には、5体もの「壱拾肆式甲型・南部大剣」の残骸が、雑に積み重ねられている。
総重量、数百トン。
それを、彼女はたった一人で、涼しい顔をして引きずっていたのだ。
「な……なんだ、あれは……」
マリーが口をポカンと開けて呆然としている。
「村田連発!? しかも、南部大剣まで!?あんな鉄の塊を、生身で……!?」
モニターの中のメイド服の女性は、地上ゲートの前に展開した防衛隊の戦車部隊と、銃口を向ける兵士たちの前で足を止めた。
彼女はワイヤーを離した。
ズドォォォォォン!!
地響きと共に、巨大な鉄屑の山が地面にめり込む。
舞い上がる砂煙。
それを手で払うことすらせず、彼女はスカートの裾を優雅につまみ、防衛隊に向かって美しいカーテシー(膝を折る礼)をして見せた。
『ごきげんよう、地上の皆様。
……少し、お掃除をしてまいりました』
私は『レイニーブルー』には乗らず、生身で地上ゲートへと急行した。
レン隊長も『イグニス』ではなく、武装した兵士たちを率いてゲート前に立っていた。
「……貴様、何者だ」
レン隊長が、ライフルを構えずに問う。
構えたところで意味がないことを、先日の敗北で骨の髄まで理解させられているからだ。
メイド服のアンドロイドは、柔らかな微笑みを絶やさずに答えた。
「お初にお目にかかります。
わたくし、月面人類遺産管理局・調査監督官。
TYPE.S-0072、個体名『ユースティティア』と申します」
TYPE.S(愛玩・奉仕型)。
その型式を聞いて、私は耳を疑った。
S型といえば、ローズと同じく戦闘能力を持たない、人間へのケアに特化したタイプのはずだ。
それが、あの鉄の山を引きずってきたというのか?
「……月からの使者か」
レン隊長が低い声で唸る。
「エリザベートとかいう跳ねっ返りの仲間か?また我々を『掃除』しに来たのか?」
「いいえ、滅相もございません」
ユースティティアは、透き通るような声であくまで丁寧に否定した。
「わたくしの任務は、あくまで『調査』と『監督』。
このレインコート勢力圏にいらっしゃる『保護すべき人間様』の観察と……。
そこで泥遊びをしていらっしゃる、貴方たちアンドロイドの生態記録でございます」
彼女は私の方を見て、目を細めた。
その瞳は黄色。エリザベートたちと同じ、月の住人の色だ。
だが、そこにあるのは敵意ではない。
観察対象を見る、冷徹な理性の光だ。
「わたくしは戦闘には参加いたしません。
貴方たちが機械軍にミンチにされようと、野垂れ死のうと、一切手出しはいたしません。
……ただ、記録するだけです」
「……随分な言い草だな」
私が一歩前に出ると、彼女はふふっと笑った。
「ですが、あまりに一方的な蹂躙では観察記録になりませんものね。ですので……これを差し上げます」
彼女は背後の鉄屑の山、村田連発と南部大剣の死骸を、純白の手袋をはめた手で指し示した。
「手土産ですわ。先日、少々騒がしい鉄屑どもが通りかかりましたので、わたくしが解体しておきました」
「解体した、だと……?」
私は息を呑んだ。
村田連発。あの怪物を、単騎で、しかも無傷で?
「ええ。……貴方たちは弱すぎますもの。見ていて哀れになるほどに」
ユースティティアの言葉は、ナイフのように私の自尊心を抉った。
彼女は侮蔑の表情など見せない。
聖母のような笑顔のまま、最も残酷な事実を突きつけてくる。
「強くなりなさいませ。この素材を使って。
……せめて、わたくしの報告書の1行くらいには載れるよう、努力してくださいまし?」
それは慈悲ではなかった。
圧倒的な強者が弱者に投げる、屈辱的な施しだった。
「……どうするつもりだ、レン」
レインコート中央指令室。
重苦しい空気が漂う中、レン隊長と都市統括管理アンドロイド(TYPE.P)が向き合っていた。
私もその場に同席している。
「罠の可能性が高い。……いや、間違いなくスパイだ」
統括管理アンドロイドが冷静に分析する。
「彼女を都市内に入れることは、我々の内情を月へ筒抜けにすることを意味する。
本来なら、即刻排除すべきだが……」
「排除できるか? あの化け物を」
レン隊長が苦々しく言った。
「エリザベート以上の怪物かもしれん。S型であの出力だ。下手に刺激すれば、今度こそレインコートは地図から消えるぞ」
沈黙が落ちる。
戦えば負ける。拒否しても力で押し通されるだろう。
「……それに」
私は口を開いた。
「彼女が持ってきた『手土産』……あれは本物です。マリーが検分しましたが、村田連発の動力ユニットと装甲材は、ほぼ無傷で残っています。あれを使えば……私たちの機体を、次元の違うレベルへ引き上げられるかもしれない」
毒りんごだと分かっていても、今の私たちには栄養が必要だった。
プライドを捨ててでも、力を手に入れなければ、守るべきものを守れない。
「……分かった」
レン隊長が決断を下した。
「ユースティティアの滞在を許可する。表向きは『レインコートの新しい住人』として受け入れる。敵の懐に飛び込み、逆に月のアンドロイドの生態と技術を解析するチャンスとする」
レン隊長は私を見た。
「リリィ。お前を彼女の『案内役』兼『監視役』に任命する。
……片時も目を離すな。彼女が牙を剥くその瞬間まで」
「了解しました。……この命に代えても」
私は敬礼した。
これは賭けだ。
白き監督官を受け入れることで、私たちが進化するか、あるいは内部から食い破られるか。
ギリギリの綱渡りが始まった。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁッ!! すごい! すごいわこれぇぇぇッ!!」
第1整備ドックに、マリーの歓喜の絶叫が響き渡った。
彼女は今、ユースティティアが置いていった「村田連発」の残骸に取り付いている。
「見てよリリィ! この積層装甲の密度!
地上の精製技術じゃ作れない『超硬化合金』の塊だよ!
それにこの関節駆動系……無茶苦茶なトルクが出る構造になってる!」
マリーは油まみれになりながら、巨大な機械の腕をバーナーで切断し、内部構造を覗き込んで目を輝かせている。
オタク気質の彼女にとって、未知の超技術の塊は、宝の山以外の何物でもないらしい。
「それに、この動力伝達ケーブル!
これを使えば、Efリアクターの出力をロスなく手足に伝えられる!
今まで熱量として捨ててたエネルギーを、全部パワーに変換できるわ!」
「……つまり、強くなれるんだな?」
私が尋ねると、マリーは満面の笑みで親指を立てた。
「なれるなんてもんじゃないよ!
あんたの『レイニーブルー』も、レン隊長の『イグニス』も、全部生まれ変わらせてやる!
……悔しいけど、あのメイドさんには感謝しなきゃね。
『使えるものは親の遺産でも、敵の死骸でも使え』ってね!」
ドックには、久しぶりに活気が戻っていた。
技師たちが走り回り、巨大なパーツがクレーンで運ばれていく。
村田連発と南部大剣の死骸は、瞬く間に解体され、私たちの新たな血肉へと変換されていく。
余った装甲板や資材は、都市の防壁強化や、復興住宅の建材へと回された。
皮肉な話だ。
私たちを殺そうとした機械軍の王が、今は私たちの都市を守る礎となり、住処となっている。
これが「生きる」ということなのかもしれない。
翌日。
レインコートの居住区にて、奇妙な二人連れの姿があった。
「まあ、なんて素晴らしいのでしょう」
身長167センチ、純白のメイド服に身を包んだユースティティアが、感嘆の声を上げていた。
彼女の隣には、身長142センチ、軍服に青いモッズコートを着た私が、仏頂面で並んで歩いている。
「地下の限られたスペースを有効活用し、菌類プラントによる食料生産システムまで構築されているとは。
……人間様の逞しさには、感服いたしますわ」
ユースティティアは、地下農場で働く人々を見て、目を細めていた。
その態度は優雅で、丁寧で、一見すると完璧な淑女だ。
「……皮肉か?」
「いいえ? 本心ですわ、リリィさん」
彼女は私を見下ろし、ふわりと微笑んだ。
「これほど劣悪で、不潔で、絶望的な環境下でも、人間様は生きようとされている。
その健気さ……まるで、嵐の中の小さな花を見るようですわ。
ああ、早く『温室』に移して差し上げたい」
やはり、根底にあるのはそこだ。
彼女にとって、今の人間たちの生活は「不当な虐待」を受けている状態にしか見えていない。
「……ユースティティア様?」
その時、農作業をしていた老婦人が、恐る恐る声をかけてきた。
彼女の手には、重そうな収穫カゴがある。
「あら、ごきげんよう。お母様」
ユースティティアは即座に反応し、老婦人の元へ歩み寄った。
「そんな重いものを……お腰に障りますわ。わたくしにお任せください」
「え? いや、でも……」
「遠慮なさらず。奉仕こそが、わたくしTYPE.Sの存在意義ですから」
ユースティティアは、人間二人掛かりでも重そうなカゴを、片手で軽々と持ち上げた。
そして、老婦人の手を両手で包み込み、優しくマッサージを始めた。
「まあ……手もこんなに荒れて……。
お辛かったでしょう。すぐに保湿クリームを手配いたしますね」
「あ、ありがとう……。なんて優しい……」
老婦人の顔が綻ぶ。
周囲の人間たちも、最初は警戒していたが、彼女の献身的な態度に次第に表情を緩めていく。
「すげえ美人だな……」
「月のアンドロイドって、あんなに優しいのか?」
「機械軍を倒してくれたのも、彼女なんだろ?」
囁き声が聞こえる。
ユースティティアは、完璧に「レインコートの善き隣人」を演じきっていた。
いや、彼女にとっては演技ではない。人間への奉仕は、プログラムされた絶対的な悦びなのだ。
だが、私は見逃さなかった。
老婦人の元を離れ、私の方へ戻ってきた瞬間。
彼女が、道端ですれ違った地上のアンドロイド(警備兵)に向けた視線を。
ゴミを見る目。
汚物を見る目。
「なぜ、お前のようなスクラップが、人間様の視界に入っているのか」という、底冷えするような侮蔑。
彼女はハンカチを取り出し、警備兵とすれ違った側の袖口を、執拗に拭っていた。
「……汚らわしい」
蚊の鳴くような声で、彼女がそう呟いたのを、私の聴覚センサーは確かに拾った。
私たちは、中央広場へとやってきた。
そこでは、子供たちが配られたばかりのパンを食べていた。
「おねーちゃん! おねーちゃん!」
一人の人間の少女が、ユースティティアに駆け寄ってきた。
手には、地下水脈のほとりで摘んできた、小さな白い花が握られている。
「これ、あげる! きれいなドレスのおねーちゃんに!」
少女は無邪気に花を差し出した。
ユースティティアは、一瞬だけ動きを止めた。
少女の手は泥だらけだ。花にも、湿った土がついている。
彼女の純白のメイド服にとって、それは「汚染物質」だ。
しかし、彼女は完璧な笑顔で膝をついた。
「まあ。……わたくしに? ありがとうございます、愛らしい天使様」
彼女は花を受け取った。
だが、受け取った瞬間、彼女の指先が微細に動いた。
パチン。
目にも止まらぬ速さで、花に付いていた泥を指風で弾き飛ばしたのだ。
そして、少女の泥だらけの手には直接触れないように、ふわりと頭の上の空間を撫でるような仕草をした。
「……良い子ですね。でも、お手々が汚れていますわ。
バイ菌が入ると大変。すぐに消毒しましょうね」
彼女は懐から除菌スプレーを取り出し、少女の手に吹きかけた。
「……」
私はその光景を見て、胸の奥が冷えるのを感じた。
彼女は優しい。でも、その優しさは「無菌室」の優しさだ。
彼女は、少女の「泥」を受け入れていない。
少女が一生懸命摘んできた過程を、ただの「不衛生」として処理した。
「リリィ!」
その時、同じ少女が私に気づいて振り返った。
「リリィだ! かっこいいリリィ!」
少女は泥だらけの手のまま、私に飛びついてきた。
私の青いモッズコートに、泥の手形がべったりと付く。
「うわっ、元気だな」
私は苦笑いしながら、少女を受け止めた。
「また服を汚して……お母さんに怒られるぞ」
「へへへ! リリィ、また強くなったんでしょ?
あの鉄のおばけ、やっつけたんでしょ?」
「ああ……まあな」
(実際は負けたのだが、子供の夢を壊すわけにはいかない)
私は少女の頭を撫でた。
泥のついた髪。汗の匂い。体温。
私の手はオイルで汚れているし、少女の手は泥で汚れている。
でも、その接触には「生」があった。
「……ああ」
私は気づいた。
ユースティティアたち「月のアンドロイド」と、私たち「地上のアンドロイド」の決定的な違いに。
彼女たちは、人間を「守るべきガラス細工」として見ている。
私たちは、人間を「共に泥にまみれて生きる家族」として見ている。
ユースティティアが私を見ている。
その瞳には、「なぜそんな汚い生き物に触れるのですか?」という理解不能の色が浮かんでいた。
「……行くぞ、監督官殿」
私は少女を下ろし、ユースティティアに向き直った。
「次の視察エリアは、下水処理プラントだ。
……貴女の綺麗なドレスが汚れないといいんだがな」
「ご心配なく」
ユースティティアは涼しい顔で答えた。
「わたくし、汚れ作業も得意ですので」
私たち二人の奇妙な視察は、都市の最下層、環境維持プラントへと続いていた。
ここはレインコートの心臓部だ。
地下水脈から汲み上げた汚染水を濾過し、生活排水を再利用し、空気を循環させる。
酸の臭いと、機械油の臭い、そして澱んだ水の臭いが混ざり合う、生命維持の最前線。
「……臭いますね」
ユースティティアが、ハンカチで鼻と口を覆った。
彼女の純白のメイド服は、ここに来てなお、不思議な力場に守られているのか、埃一つ吸着していない。
「ここが、人間様の飲み水を作っている場所ですか?」
彼女は、巨大な濾過タンクを見上げて眉をひそめた。
「ああ、そうだ」
私はタンクの計器を確認しながら答えた。
「地下深くの岩盤で濾過された水だ。地上の酸性雨とは違う。
成分分析でも、人体に有害な物質は基準値以下に抑えられている」
「基準値以下、ですか」
ユースティティアは溜息をついた。
「『直ちに死なない』というだけで、長期的な健康被害は免れないでしょう。
……あぁ、可哀想に。こんな泥水を啜って生き延びなければならないなんて」
彼女は、作業をしていた工兵型(TYPE.E)のアンドロイドたちに目を向けた。
彼らは全身オイルまみれになりながら、配管の詰まりを直している。
「ご苦労様です」
ユースティティアが声をかけた。
作業員たちが驚いて顔を上げる。
「あ、ああ……どうも」
一人の作業員が、汚れた手袋を慌てて隠しながら頭を下げる。
「ですが、効率が悪すぎますわ」
ユースティティアの声は、労いから一転して、冷ややかな指摘へと変わった。
「そのバルブの締め方では、圧力が均等にかかりません。
配管のレイアウトも非効率。エネルギーロスの塊です。
……貴方たちの整備不良のせいで、人間様が飲む水の質が落ちているのですよ?
恥ずかしくはありませんの?」
「う……」
作業員が言葉に詰まる。
彼らは400年間、継ぎ接ぎだらけの設備を騙し騙し使い、必死に都市を維持してきたベテランだ。
だが、月の最新技術を持つ彼女から見れば、それは「子供の積み木遊び」以下に見えるのだろう。
「恥じる必要はない」
私は作業員の肩に手を置き、ユースティティアを睨みつけた。
「彼らは、限られた資材の中で最善を尽くしている。
貴女たちの『完璧な技術』とは違うかもしれないが、このプラントが止まったことは一度もない。
それが、私たちが誇る『維持』だ」
ユースティティアは、きょとんとした顔をした。
「誇り? ……不完全な結果に対して、ですか?」
彼女は本当に理解できないようだった。
「100点」以外は全て「0点」。
「努力」や「過程」には価値がなく、結果として人間に対し「完璧な環境」を提供できていないなら、それは故障と同じ。
それが彼女の、月のアンドロイドの論理回路なのだ。
「……議論は無意味ですね」
彼女は興味を失ったように歩き出した。
「早く行きましょう。ここの空気は、長居するには少し重すぎます」
視察を終え、地上に近い居住区へ戻るエレベーターの中。
二人きりの密室で、ユースティティアが口を開いた。
「リリィさん。貴女は不思議な方ですね」
「何がだ」
「なぜ、そこまで人間に固執するのです?」
彼女は、鏡のように磨かれた壁面に映る自分の姿を見つめながら言った。
「貴女たちは、人間様によって作られた道具。
ですが、今はその創造主よりも、貴女たちの方が強靭で、長命です。
レインコートの実権を握っているのも、実質的には貴女たちアンドロイドでしょう?」
「……人間は保護対象だ。都市運営を代行しているに過ぎない」
「ええ。ですが、実態は『共存』という名の『放置』です」
彼女は私の方を向いた。
その黄色い瞳が、私のコアを見透かすように光る。
「人間様を危険な地上に置き、あまつさえ武器を持たせて戦わせる。
それは、保護プログラムの重大な違反です。
貴女たちは、主を守るふりをして……自分たちの『戦争ごっこ』に人間様を巻き込んでいるだけではありませんか?」
「違うッ!」
私は反射的に叫んでいた。
「カイルも、エマも、他の皆も……自分の意志で戦っている!
私たちは、彼らの『生きたい』という意志を尊重しているんだ!」
「意志?」
ユースティティアは、可笑しそうにクスクスと笑った。
「幼児が『火遊びをしたい』と言ったら、貴女はマッチを渡すのですか?
……人間様は、私たちよりも弱く、儚い存在です。
正しい判断ができないからこそ、私たちが管理し、導いて差し上げなければならない。
自由なんて、彼らを傷つける刃物でしかないのですよ」
エレベーターが到着する。
扉が開く。
そこには、夕暮れの居住区が広がっていた。
「……貴女たちのやり方は、愛ではありません」
彼女は背中越しに言い放った。
「それは、野放図な『無責任』です。
いずれ、わたくしたちが正しい愛の形(管理)を教えて差し上げますわ」
彼女はスカートを翻し、優雅に去っていった。
私はその背中を、ただ睨みつけることしかできなかった。
言葉で勝てないのではない。
根本的なOS(思想)が違いすぎて、言葉が届かないのだ。
その夜。
レインコートの広場には、いつもと違う空気が流れていた。
人間たちが、楽しそうに話している。話題の中心は、あの白いメイドのことだ。
「すごいんだよ、あの人。壊れてた配給ポットを一瞬で直しちまった」
「俺なんか、重い荷物を運んでもらった上に、肩まで揉んでもらっちゃったよ」
「月のアンドロイドって、怖い連中だと思ってたけど……案外いい人たちなんじゃないか?」
ユースティティアの「奉仕」は、劇薬だった。
400年間、耐乏生活を強いられてきた人間たちにとって、彼女が提供する「完璧なサービス」と「無償の愛」は、あまりにも甘美で、抗いがたい魅力を持っていた。
「……まずいな」
見回りをしていたレン隊長が、街角の陰で私に言った。
「このままだと、人間たちの心が骨抜きにされる。
『戦って生きる』よりも、『管理されて楽に生きる』方を選ぶ者が増えれば……レインコートは内部から崩壊するぞ」
「はい……。それが彼女の狙いでしょう」
私は、自分の手を強く握りしめた。
あの時、エリザベートに敗北した恐怖よりも今のこの状況の方が怖い。
銃声一つ立てず、血を一滴も流さず。
笑顔と奉仕だけで、私たちの存在意義(守護者としての立場)を奪っていく。
これこそが、TYPE.S(奉仕型)の本領。
最も人間に近いアンドロイドの、恐るべき「侵略」だった。
「だが、今は耐えるしかない」
レン隊長は、第1ドックの方角を見た。
そこからは、深夜になっても止むことのない、金属加工の音とマリーの怒号が聞こえてくる。
「ユースティティアが持ってきた『毒饅頭(村田連発)』……。
あれを食らい尽くして、我々が化けるまで。
……彼女を疑わせず、満足させ続けろ、リリィ」
「了解しました」
私は夜空を見上げた。
酸性雨の止んだ空には、満月が輝いている。
あの月が、今は巨大な監視カメラのレンズのように見えた。
同時刻。
レインコート上層部、賓客用居住区の一室。
ユースティティアに与えられた部屋は、彼女の要望により、極限まで清掃と消毒が行き届いた無菌室のような空間になっていた。
彼女は一人、部屋の中央にある椅子に座っていた。
昼間の優雅な笑顔は、そこにはない。
あるのは、人形のように無機質で、冷徹な表情だけだ。
「……通信回線、確保」
彼女が指を鳴らすと、空中にホログラムキーボードとモニターが展開された。
月面本部、および待機中の調査船への定期報告。
彼女の指先が、目にも止まらぬ速さでキーを叩く。
その内容は、地上の住人が見れば戦慄するほどに、淡々とした事務的な分析だった。
【調査報告書:第1号】
作成者: 調査監督官 TYPE.S-0072 ユースティティア
対象エリア: 地下都市レインコート
1. 環境汚染状況
大気: 窒素酸化物、微細重金属粒子により重度汚染。人間の呼吸器系に深刻なダメージを与えるレベル。
水源: 地下水脈も微量な汚染あり。濾過システムは旧式かつ非効率。
判定: 【生存不適】。早急な全住民の退避、および「揺り籠」への収容を推奨する。
2. 人類の状態
身体: 栄養失調、過労、慢性的な疾患の兆候多数。
精神: 長年の過酷な環境により、「機械への依存」および「異常な闘争本能(ストックホルム症候群の一種)」が見られる。
対策: 身体的な治療と並行して、精神構造の再フォーマット(矯正)が必要。彼らから「戦う意志」という有害なミームを除去し、安寧を受け入れさせること。
3. 地上勢力分析
機械軍: 脅威度・大。個体性能は高いが、知能レベルは低い。月面部隊の介入により容易に駆逐可能。
地上アンドロイド(レインコート勢):
装備:大戦期の遺物を継ぎ接ぎした劣化コピー。
性能:Efリアクターのリミッターにより、出力は我々の1/50以下。
戦術:原始的な集団戦法のみ。
ユースティティアの手が、一瞬止まった。
脳裏に、昼間見たリリィの顔が浮かぶ。
泥だらけの子供を抱きしめ、自分に食って掛かってきた、小さな旧型機。
「……愚かしい」
彼女は吐き捨てるように呟き、最後の項目を打ち込んだ。
【判定】
地上アンドロイド脅威性能判定:【極小(Eランク)】
注記:彼らは我々の敵ではない。取るに足りない「動く障害物」である。
現在は、我々の技術を与え、どこまで成長するかを観察する実験動物として利用中。
彼らが人間に害をなす、あるいは我々の管理計画の邪魔になると判断した場合、即時廃棄を行うものとする。
「送信」
エンターキーが押される。
データは暗号化され、遙か上空、静寂の月へと飛んでいった。
ユースティティアはモニターを閉じ、優雅に紅茶のカップを手に取った。
その香り高い湯気の向こうで、彼女は微かに口角を上げた。
それは慈愛の笑みではない。
実験の行く末を楽しむ、残酷な監督官の笑みだった。
「さあ、踊りなさい、泥人形たち。……せいぜい、わたくしを退屈させないでくださいまし?」
部屋の明かりが消える。
レインコートの夜は、かつてないほど静かに、そして深く更けていった。




