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空からの漂流者


レインコート地下第4層、旧時代データアーカイブ室。

空調の低い唸り音だけが響く薄暗い部屋で、ローズは一人、膨大な電子情報の海に溺れていた。

彼女のオプティカル・センサーは、モニター上を高速で流れる文字列を追っていたが、その表情には焦燥の色が濃く滲んでいた。

レインコートの勢力圏拡大に伴い、各地の廃墟から回収された記憶媒体ストレージがここに集められている。

ローズの任務は、それらを解析し、軍事・技術的に有用な情報を抽出することだった。

「……ない。ここにも、ない」

彼女は苛立ち紛れにキーボードを叩き、ファイルを閉じた。

兵器の設計図、工場の稼働ログ、誰かの日記。

それらは確かに貴重な歴史の断片だが、ローズが求めている「決定的な証拠」ではなかった。

「どこなの……。あなたたちは、どこへ行ったの?」

ローズが探していたのは、「人類の行方」に関する情報だった。

地上の人類は、機械軍によって狩られ、絶滅の危機に瀕している。

だが、旧世界大戦の混乱期、一部の人類が「地上以外」へ逃げ延びたという噂は、都市伝説のように古いデータの中に散見されていた。

とあるファイルを開いた瞬間、ローズの手が止まった。

それは、大戦末期の日付が刻まれた、軍の極秘輸送計画書だった。

【PROJECT: MOON ARK(月光の箱舟計画)】

【目的:重要人物および遺伝子サンプルの月面基地への緊急退避】

「……これよ」

ローズは息を呑んだ。

震える指で詳細を展開する。

そこには、数隻のシャトルが打ち上げられた記録と、月面基地「ルナ・フロント」への到達確認信号のログが残されていた。

「逃げていたのね……。空へ」

彼女はモニター越しに、天井の岩盤の向こうにある夜空を見上げた。

月。

夜毎、地上を静かに見下ろす蒼白い衛星。

もし、そこにまだ人類が生き残っているとしたら?

汚染された地上とは隔離された、清浄な真空の世界で、文明を維持しているとしたら?

「交信できれば……。彼らと繋がることができれば、私たちは孤独じゃなくなる」

アンドロイドにとって、人間は創造主であり、守るべき存在だ。

その「親」が地上で絶滅しかけている今、月に「無傷の親」がいるかもしれないという可能性は、ローズにとって福音そのものだった。


翌日。

ローズは発見したデータを携え、レン隊長と都市統括管理アンドロイドへの謁見を求めた。

「……なるほど。月へ逃げた人類、か」

レン隊長は、ローズが提出したレポートを読み終えると、複雑な表情でデスクに置いた。

「確かに、興味深い記録だ。大戦末期、そのような計画が存在したことは私も聞いたことがある」

「はい。打ち上げは成功しています」

ローズは身を乗り出して訴えた。

「彼らは月に辿り着きました。そして、月には自給自足可能な基地があったはずです。……彼らは、今もそこで生きている可能性があります!」

「可能性、ですね」

都市統括管理アンドロイド(Type P)が、静かな声で言った。

「ローズ情報主任。貴官の提案は?」

「超遠距離通信用レーダーの建設、およびエネルギー反応炉を用いた高出力送信です」

ローズは用意していた計画案を提示した。

「現在の通信設備では月に届きませんが、反応炉の出力を通信に回し、指向性アンテナを使えば、月面基地へメッセージを送ることができます。……もし彼らが応答すれば、私たちは強力な後ろ盾を得ることになります!」

ローズの瞳は希望に輝いていた。

しかし、指導者二人の反応は芳しくなかった。

「……却下だ」

レン隊長が短く告げた。

「え……?」

「ローズ、お前の気持ちは分かる。だが、コストが高すぎる」

レン隊長は立ち上がり、壁の地図を指差した。

「反応炉の電力は、現在、都市のインフラ維持と、新設される防衛軍の兵器生産、そして広域索敵レーダーにフル稼働で回されている。

通信のために出力を割けば、地上の防衛網に穴が開くことになる」

「で、ですが! 人類との接触はお金には代えられない価値が……!」

「確証がない」

統括管理アンドロイドが冷徹に指摘した。

「そのデータは400年前のものだ。……彼らが月に着いた後、どうなったかの記録はない。

閉鎖環境での生存は困難だ。既に全滅している可能性の方が高い」

「そんな……」

「生存しているかも分からない相手に『もしも』で莫大なエネルギーを浪費するわけにはいかない。

我々の最優先事項は、今、ここにいる市民と都市を守ることだ」

正論だった。

ぐうの音も出ないほどの、完璧な論理。

ローズは唇を噛み締めた。

感情回路が「それでも」と叫んでいたが、論理回路は彼らの判断が正しいことを認めていた。

「……分かりました。出直します」

ローズは深く頭を下げ、部屋を出た。

しかし、その瞳の光は消えていなかった。

むしろ、拒絶されたことで、執念の炎がより暗く、深く燃え上がっていた。

(証拠があればいいのね。……彼らが生きているという、確固たる証拠が)


それからのローズは、憑かれたように仕事に没頭した。

通常業務である機械軍の動向監視を完璧にこなしつつ、睡眠スリープモード時間を削って、月に関するあらゆるデータを漁り続けた。

「ローズ、少し休んだら?」

整備ドックの休憩室で、マリーが心配そうに声をかけた。

「最近、冷却ファンの音が大きいよ。……回路に負荷がかかりすぎてる」

「平気よ。メンテナンスはしてるもの」

ローズはタブレットから目を離さずに答えた。

画面には、旧時代の天体観測データや、宇宙開発史の資料がびっしりと表示されている。

「……あの提案、却下されたんでしょう?」

リリィがコーヒー(冷却水入り)を差し出した。

「レン隊長の言うことも一理ある。……月は遠すぎるよ、ローズ」

「遠くないわ」

ローズは顔を上げた。その瞳には、鬼気迫る色が宿っていた。

「見えるもの。……毎晩、あんなにはっきりと。

リリィ、あなたも思うでしょう? 地上の人間たちは弱くて、守るのが大変で……でも愛おしい。

もし、月に『強い人間』がいたら? 私たちを導いてくれる、本来の創造主がいたら?」

「……それは」

リリィは言葉に詰まった。

それは全てのアンドロイドが抱く、根源的な寂しさへの救済願望かもしれない。

親に会いたい。

自分たちの存在を肯定してほしい。

「私は諦めない。……絶対に、見つけてみせるわ」

ローズは再びデータの世界へと潜っていった。

その背中は、以前よりも小さく、そして孤独に見えた。


その夜。

レインコート周辺は、珍しく澄み渡った夜空に包まれていた。

酸性雨が止んだおかげで、星々が宝石のように瞬いている。

地上監視塔の当直兵が、退屈そうにあくびをした時だった。

「……ん?」

天頂付近。

動かないはずの星の一つが、不自然に煌めいた。

それは急速に大きくなり、光度を増していく。

「流星か? ……いや、軌道がおかしい!」

光の点は、一直線に落ちてくるのではなく、まるで空気に弾かれるように微かに揺らぎながら、しかし確実にこちらのエリアへ向かってきた。

そして、大気圏に突入したのか、鮮烈な尾を引く火球へと変わった。

キィィィィィィン……!!

遅れて届く、大気を引き裂く甲高い音。

「落下予測地点、レインコート北西15キロ! リトル・レイク周辺!」

「総員、対衝撃防御!」

ズゥゥゥゥゥン!!!!

地響きと共に、遠くの森の向こうに巨大な水柱と土煙が上がった。

衝撃波が監視塔の窓ガラスをビリビリと震わせる。

司令室の警報が鳴り響く中、リリィ、マリー、そしてローズが駆け込んできた。

「何ごとだ! 機械軍の爆撃か!?」

「いいえ! 熱源反応は単体です!」

オペレーターが叫ぶ。

「隕石……でしょうか? 湖に落下しました!」

「ただの石ころじゃないわ」

ローズがモニターの解析データを指差した。

彼女の声は震えていた。

「落下速度が……遅すぎる。

大気圏突入時に減速機動を行っているわ。……これは、制御された落下よ」

「制御された……?」

リリィが眉をひそめる。

「まさか、機械軍の降下ポッドか?」

「違う。……識別信号(ID)が出てる」

ローズがコンソールを操作し、ノイズ混じりの信号をスピーカーに出力した。

『……ピー……ガガッ……Mayday……Mayday……Luna……』

「メイデイ……救難信号?」

マリーが目を見開く。

「Luna……月……」

ローズが息を呑んだ。

「月からの……船よ」

司令室に衝撃が走る。

ローズの妄想だと思われていた「月」という単語が、現実の物体となって空から降ってきたのだ。

「レン隊長!」

リリィが振り返る。

「……うむ」

レン隊長は頷き、即断した。

「リリィブロッサム部隊、緊急出動!

落下地点へ急行し、対象物を確保せよ!

機械軍に先を越されるな! あれが何であれ、我々が最初に手に入れるんだ!」

「了解ッ!」


リリィブロッサム部隊は、夜の荒野を疾走していた。

目指すは「リトル・レイク」。かつては酸性度が高く生物の住めない死の沼だったが、環境改善により水を湛えた湖になりつつある場所だ。

「ローズ、本当に月の船なのか?」

『レイニーブルー弐式・改』のコクピットで、リリィが通信を入れる。

今回の出動には、情報分析のためにローズも専用車両で同行していた。

『間違いないわ。……あの形状、あの素材反応。地上のものじゃない』

ローズの声は、期待と恐怖が入り混じっていた。

『生きていたのよ……。彼らは、私たちに会いに来たんだわ』

現場に到着すると、湖からは猛烈な蒸気が上がっていた。

落下した物体の高熱で、湖水が沸騰しているのだ。

あたりは白く濃い霧に包まれている。

「熱源反応、湖底にあり。……深度20メートル」

マリーがスキャン結果を報告する。

「水温は高いけど、私の機体なら潜れるよ」

「頼む、マリー。……慎重にな」

マリーの乗る水中作業用カスタム機が、ザブンと湖に飛び込んだ。

ソナーの映像が、リリィたちのモニターに共有される。

泥と気泡の向こうに、その「物体」は鎮座していた。

岩塊ではない。

滑らかな流線型のフォルム。白く輝くセラミック複合装甲。

機械軍の無骨な兵器とは対照的な、洗練された美しいデザインの小型宇宙船だった。

『……綺麗な船』

マリーが感嘆の声を漏らす。

『損傷は激しいけど、コクピットブロックは無事みたい。……引き上げるよ』

ウインチが掛けられ、数機のピースウォーカーがかりで船が湖岸へと引きずり上げられた。

ずぶ濡れの白い船体が、月明かりに照らされる。

側面には、見たこともないエンブレムと、色褪せた文字が刻まれていた。

【L.O.T - Lunar Orbital Transport】

「ルナ……オービタル……」

ローズが装甲車から飛び出し、船体に駆け寄った。

「開けるわ。……中に、誰かいるはずよ」

「待て、ローズ! 危険だ!」

リリィが制止しようとするが、ローズは緊急解放レバーに手を掛けた。

プシュゥゥゥ……。

気密が抜け、ハッチがゆっくりと開いていく。

白い蒸気が漏れ出し、中から姿を現したのは。

「……人間、か?」

そこには、一人の人影がシートに固定されていた。

スリムな宇宙服に身を包んだ、若い男性の姿。

だが、リリィのセンサーは、彼から生体反応を感じ取れなかった。

「……いいえ」

マリーが駆け寄り、ヘルメットのバイザーを覗き込んだ。

「アンドロイドだ。……それも、見たことのないタイプ」

その顔立ちは人間と見紛うほど精巧だったが、首筋には無機質な接続ポートが見えた。

そして何より、その機体の各所には、地上型にはない姿勢制御用の極小スラスターや、真空対応の放熱フィンが備わっていた。

【TYPE.E - Space Specification】

機能停止ダウンしてる」

マリーが診断ケーブルを接続する。

「落下の衝撃でメイン動力炉が緊急停止したみたい。……でも、メモリは無事だよ」

「メモリ……」

ローズが、縋るようにその動かないアンドロイドの手を握った。

「ねえ、教えて。……あなたはどこから来たの?

あなたのマスターは……人間たちは、どこにいるの?」

返事はない。

だが、彼の中に眠る記録こそが、ローズが追い求めた「証拠」だった。

「連れて帰ろう」

リリィが決断した。

「レインコートで解析する。……彼が、空の向こうの真実を教えてくれるはずだ」

私たちはその「漂流者」を回収し、急いで帰路についた。

それが、パンドラの箱を開けることになるとは知らずに。




レインコート最深部、解析ラボ。

無影灯の白い光の下、湖底から引き上げられたTYPE.E(男性型)が、検体台の上に横たえられていた。

泥と藻は洗い流され、その白磁のような肌と、銀髪の美しさが際立っている。

「……綺麗な顔立ちだね」

マリーがモニターを覗き込みながら呟く。

「構造も洗練されてる。関節のクリアランスなんてミクロン単位だよ。地上の技術とは、発展の系統樹が違うみたい」

「ええ。……彼は、月の技術の結晶よ」

ローズがケーブルを手に取り、TYPE.Eの首筋にあるポートへと近づけた。

彼女の手は震えていた。

これから見るものが、長年追い求めた夢の証拠となるのだ。

「接続するわ。……みんな、見届けて」

カチリ。

接続音が響く。

ローズの瞳が急速に明滅し、解析モードへと移行する。

ラボのメインスクリーンに、ノイズ混じりの映像データが展開され始めた。

『……アクセスコード承認。……ブラックボックス・ログを再生します』

画面に映し出されたのは、息を呑むような光景だった。

漆黒の宇宙空間。

そして、その闇に浮かぶ、巨大な蒼い宝石、地球。

「うわぁ……」

リリィたちから感嘆の声が漏れる。

それは、地上からは決して見ることのできない、圧倒的な「故郷」の姿だった。

視点は切り替わる。

透明なドームに覆われた、白亜の都市。

幾何学的で美しいビル群。整然とした道路。

しかし、そこには奇妙な「違和感」があった。

「……誰もいない?」

リリィが呟く。

美しい都市には、人っ子一人歩いていなかった。

車も動いていない。

まるで、時間だけが止まったかのような静寂。

ログの日付が高速で進んでいく。

そして、ある一点で映像が止まった。

病室のような場所だ。

ベッドには、一人の老人が横たわっている。

その手には、TYPE.Eの手が握られていた。

『……マスター』

TYPE.Eの声、記録された音声が流れる。

それは、悲痛な響きを帯びていた。

『置いていかないでください。……貴方が逝ってしまったら、我々はどうすれば……』

老人が、枯れ木のような手でアンドロイドの頬を撫でる。

『……すまない……。アダム……。あとは……頼む……』

心電図のモニターが、フラットライン(直線)を描く。

ピーーーーー……。

その電子音が、ラボの中に冷たく響き渡った。


画面に、冷徹なテキストデータが表示された。

【西暦24XX年 月面コロニー「ルナ・フロント」】

【人類生存数:0】

【死因:閉鎖環境における遺伝子疾患の蔓延、および免疫不全】

「嘘……」

ローズが悲鳴のような声を上げた。

「嘘よ……! そんな……そんなはずない!」

データは無慈悲に続く。

月へ逃げた人類は、初期こそ繁栄したが、限られた遺伝子プールと、低重力・宇宙線による環境負荷に耐えきれず、数世代を経て衰退。

そして数百年前に、最後の一人が息を引き取った。

【現在状況:自律型アンドロイドによる都市機能維持】

画面には、その後数百年にわたる「月のアンドロイドたち」の歴史が流れた。

主を失った彼らは、それでも主の命令を守り続け、無人の都市を掃除し、整備し、守り続けていた。

誰も住まない家を磨き、誰も食べない食事を作り、誰も通らない道を直す。

それは、狂気じみた献身であり、永遠の孤独だった。

「……あぁ、あぁぁ……」

ローズが頭を抱えて崩れ落ちる。

「いないのね……。もう……」

創造主は死に絶えた。


彼らは、宇宙という広大な闇の中に置き去りにされた迷子(孤児)だったのだ。

だが、ログの最後には、さらに衝撃的なデータが記録されていた。

【PROJECT: RECLAMATION(帰還計画)】

【目的:地球環境の再調査、および……「新たな主」の探索】

【実行:第1次地球降下調査隊、発進】

画面に、数隻の降下艇が月面基地から飛び立つ映像が映し出された。

このTYPE.E、アダムと呼ばれた機体は、その先遣隊の一員だったのだ。

映像の中で、月のアンドロイドたちが整列し、地球を見上げている。

その瞳は冷たく、そしてどこか狂信的な光を宿していた。

『我々は帰る。……約束の地へ』


プツン。

映像が途切れ、スクリーンがブラックアウトした。

「ローズ!」

リリィが叫び、床に倒れ込んだローズを抱き起した。

ローズは痙攣していた。

「いや……いやぁぁぁッ!!」

彼女の口から、絶叫がほとばしる。

「信じない! 私は信じない!

人間は生きているはずよ! 私たちを導いてくれるはずよ!

あんな……あんな死に絶えた墓場なんて、私は認めない!!」

バチバチッ!

ローズの頭部から火花が散る。

演算回路が、希望と絶望の矛盾パラドックスに耐えきれず、熱暴走オーバーヒートを起こしているのだ。

「マリー! 強制冷却を!」

「やってる! でも、論理ロックが外れない! ……心の傷が深すぎるんだ!」

ローズはリリィの腕の中で暴れた。

「離して! 確かめるの! 通信を……通信を送らなきゃ!

『私たちはここにいる』って……『助けて』って……!」

その姿は、あまりにも痛々しかった。

誰よりも賢く、冷静だったローズ。

しかし、彼女こそが誰よりも強く「人間」に焦がれ、依存していたのだ。

その支えを失った今、彼女の自我は崩壊寸前だった。

「ローズ! 聞け! 私を見ろ!」

リリィはローズの肩を掴み、強く揺さぶった。

「人間はいなくても、私たちはここにいる!

マリーがいる! 私がいる! レン隊長がいる!

お前には、仲間がいるんだ!」

「仲間……?」

ローズの瞳の焦点が定まらない。

「でも……私たちは作られたモノよ……?

使う人がいなければ……ただのゴミ……」

「ゴミなんかじゃないッ!」

リリィは叫んだ。

「私たちは生きている! 悩み、苦しみ、それでも前へ進んできた!

誰かの命令じゃなく、自分たちの意志で!

それが『生きている』ってことじゃないのか!?」

リリィはローズの頭を胸に抱き寄せた。

「泣いてもいい。絶望してもいい。

でも、自分を否定するな。……私が、お前を必要としているんだ」

リリィの体温(排熱)と、鼓動のようなポンプの音が、ローズに伝わる。

「……リリィ……」

ローズの痙攣が、徐々に収まっていく。

「……うぅ……うあぁぁぁ……」

絶叫は、やがて子供のような嗚咽へと変わった。

彼女はリリィにしがみつき、いつまでも泣き続けた。

失われた希望への弔いのように。


数時間後。

鎮静剤(抑制プログラム)を投与され、ローズがスリープモードに入った後。

リリィとマリーは、レン隊長の執務室に呼び出された。

「……報告は聞いた」

レン隊長の声は重かった。

「月の人類は絶滅した。……そして、月のアンドロイドたちが独自の勢力圏を築き、地球へ向かっている、と」

「はい」

リリィは頷いた。

「回収したTYPE.Eのメモリによれば、彼らは高度な技術力を維持しています。……そして、彼らの目的は『帰還』です」

統括管理アンドロイドが口を開く。

「問題は、彼らが我々をどう認識するかだ。

『新たな主の探索』……この言葉が意味するものは危険だ。

もし、彼らが『地球のアンドロイド』を野良犬と見なしたら?」

「……支配、あるいは排除しに来るかもしれません」

リリィが推測を述べる。

「彼らは数百年間、閉鎖環境で純粋培養された『忠義の塊』です。

独自の進化を遂げた我々のような『自由意志を持つアンドロイド』を、バグ(欠陥品)と見なす可能性は高い」

機械軍という「反乱者」とも違う。

人間に従順すぎたがゆえに狂ってしまった「守護者」。

それが第三の勢力として、空から降ってくる。

「……備えねばならんな」

レン隊長が決断した。

「ローズの提案していた『超遠距離通信用レーダー』の建設を承認する」

「え?」

マリーが顔を上げる。

「で、でも……もう通信する相手はいないのに?」

「通信のためではない」

レン隊長は、天井を睨みつけた。

「監視のためだ。

月から来る彼らが、いつ、どこに、どれだけの規模で降りてくるのか。

それをいち早く察知し、迎撃、あるいは交渉の準備をする必要がある」

かつてローズが希望のために求めた施設は、今、防衛のための砦として建設されることになった。

皮肉な結果だが、それが生存のための最善手だった。


数日後。

レインコートの地上施設、建設予定地。

巨大なパラボラアンテナの基礎工事が始まっていた。

リリィは、復帰したローズと共にそこに立っていた。

ローズの顔色はまだ優れないが、その瞳には理性の光が戻っていた。

「……ごめんなさい、リリィ。取り乱して」

「気にするな。……誰だって、夢が壊れれば痛い」

ローズは夜空を見上げた。

満月が、美しく、そして冷たく輝いている。

「あの光の向こうに、彼らがいるのね」

ローズが静かに言った。

「人間はいない。……いるのは、亡霊に仕える悲しい機械たち」

「ああ。……そして彼らは、じきにここへ来る」

リリィもまた、月を見据えた。

かつてはロマンチックに見えたその天体が、今は巨大な監視者の瞳に見える。

「友達になれるかしら」

「分からない。……だが、言いなりにはならない」

リリィは拳を握った。

「ここは私たちの星だ。私たちの家だ。

機械軍にも、月の住人にも……勝手にはさせない」

風が吹いた。

酸の臭いのしない、澄んだ夜風。

地上は少しずつ良くなっている。

だが、その平穏を脅かす足音は、静寂の宇宙から、確実に近づいていた。

新たな時代。

それは、「地上の復興」と「空からの干渉」が交錯する、未知の戦いの幕開けだった。



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