雨音の街、優しい嘘
意識の浮上は、まるで深海から水面へと泡が昇るように静かに行われた。
内蔵クロックが、午前05時59分59秒を刻む。
設定されたアラームが鳴動するコンマ1秒前、私は瞼を開いた。
視界に走る起動ログの羅列。
[SYSTEM REBOOT... COMPLETE]
[SENSORY MODULE... ONLINE]
[Ef-REACTOR... STABLE]
思考回路にノイズはなく、視覚素子に曇りもない。
私は軍用A型アンドロイド。規則正しさは機能美であり、正確さは私の誇りだ。
私は上体を起こすと、ベッドサイドの小さなスチール棚へと視線を向けた。
そこには、無骨な軍用備品とはあまりに不釣り合いな「異物」が鎮座している。
先日、死闘の果てに破壊した機械軍指揮官機、その残骸から持ち帰った戦利品。
白いくすんだ毛並みの、ウサギのぬいぐるみ。
私はそれを、そっと手に取った。
指先の感圧センサーが、ポリエステル綿の柔らかさと、経年劣化した化学繊維のザラつきを検知する。
合理的に考えれば、ただの繊維の塊だ。
戦略的価値もなければ、エネルギー効率を向上させる機能もない。私の部屋を占有するだけの無駄なオブジェクト。
だが、私はそれを両手で包み込み、誰にも聞こえないほどの低い出力で、言葉を紡いだ。
「……おはよう、ユリ。今日も良い朝だな」
『ユリ』。
私の名前、リリィ(百合)から取った安直な名前。
それを口にした瞬間、胸の奥のEfリアクターの鼓動が、わずかに温かみを帯びたような錯覚を覚える。
深層心理ログに記録されるはずのない、「安らぎ」という名の小さな波形。
敵であったはずの機械が持っていたこれを、なぜ私は慈しんでいるのか。その答えは演算しても出てこない。ただ、この儀式を行わなければ、一日が始まらないような気がしていた。
それは私のシステムに生じたバグなのか、それとも――。
私はユリを定位置に戻し、視線を部屋の反対側へと向けた。
「むにゃ……あと、いちミリ……そこ削ってぇ……」
対照的な光景がそこにはあった。
私のルームメイト、マリーのベッド周辺は、さながら「部品の海」だ。
分解されたサーボモーター、断線しかけたケーブル、読みかけの電子タブレット、そして空になった高カロリー補給食の包み紙。
その中心で、金髪を爆発させた小柄な少女が、タブレットを抱き枕代わりにして幸せそうに寝息を立てている。口元からは微かにオイルのような涎が垂れていた。
「……呆れたものだ」
私はベッドから降り、音もなく彼女の枕元へ立つ。
通常の思考ルーチンであれば、ここで彼女を叩き起こし、規則正しい生活へと矯正するのが最適解だ。
だが、私は彼女の寝顔を数秒間見下ろした後、踵を返した。
起こさない。
これは意地悪ではない。……いや、学習機能の促進だ。
彼女は自分の管理能力の甘さを、失敗という経験を通じて学ぶ必要がある。決して、昨日彼女が私のメンテナンス中にくすぐってきたことへの報復ではない。
そう結論付け、私はクローゼットから軍服を取り出した。
袖を通し、ボタンを留め、青いモッズコートを羽織る。
鏡に映る私は、再び冷徹な「都市の守護者」の顔に戻っていた。
「行ってくる」
返事のない部屋に短く告げ、私は静かに隔壁扉を閉じた。
地下都市レインコートの朝は、夜と変わらぬ薄暗さの中で始まる。
天井を覆う岩盤と配管の隙間から、結露した水滴が「ポタリ、ポタリ」と路面に落ちる音が響く。
ここには太陽がない。
あるのは、ナトリウムランプの人工的なオレンジ色の光と、空調設備が吐き出す微風だけだ。
私は居住区画から中央タワーへと続く通路を、一定のペースで歩いていた。
すれ違う清掃用ドックたちが、私を認識して道を譲る。
空気は重く、湿っている。錆とカビ、そして人間の生活臭が混じり合った独特の匂い。
不快だと感じる機能はない。これが、私たちが守るべき世界の匂いだからだ。
司令部オペレーション・ルームの自動ドアをくぐる。
壁一面の巨大モニターには、都市全域のライフライン状況や監視カメラの映像が映し出されていた。
「あら、おはようリリィ。今日は一段と早いのね」
中央コンソール席から、振り返ったのはローズだった。
艶やかな赤い髪を揺らし、S型特有の流し目で私を見る。朝だというのに、彼女からは甘いフローラルの香水が漂っていた。
「規定時間の10分前行動は基本だ」
「ふふ、相変わらず堅物ねぇ。……で? うちの可愛い末っ子は?」
ローズが私の背後を覗き込む。当然、そこには誰もいない。
私はコンソールにIDカードをかざしながら、淡々と答えた。
「まだ夢の中で整備中だ。ジャンクの海で溺れていたから、放置してきた」
「もう……あの子ったら!」
ローズは呆れたように肩をすくめると、美しい指先で空中のホログラムキーボードを叩いた。
「リリィもリリィよ。起こしてあげればいいのに。……仕方ないわね、お母さんがモーニングコールしてあげる」
彼女の瞳が青く発光し、データリンクが接続される。
通常回線ではない。緊急時に使用される『最優先割り込み回線』だ。
強制的に相手の聴覚デバイスに最大音量で接続する、軍用特有の乱暴な機能。
『あー、あー。マリーちゃん、マリーちゃん。聞こえてるー?』
ローズの声は甘いが、送信されているデータ量は暴力的なほど巨大だ。
次の瞬間、司令部のスピーカーから、回線越しにマリーの悲鳴が轟いた。
『ぎゃあああああああッ!? て、敵襲!? 機械軍!? どこ!?』
「おはよう、お寝坊さん。敵襲じゃないわよ、遅刻襲来よ」
『え……? あ、あれ? ロ、ローズさん? ……って、時間! うわあああ嘘でしょ!? なんで!?』
「リリィはもう出勤してるわよ。あと5分でドックに入らないと、班長の雷が落ちるわねぇ」
『リリィーーッ! ひどいよぉぉぉ! なんで起こしてくれなかったのぉぉぉ!』
マリーの泣き叫ぶ声が響く中、私は涼しい顔で通信をカット(切断)した。
「……さて、任務の時間だ」
「ふふっ、二人とも仲が良いんだから。行ってらっしゃい、リリィ。今日のルートデータは転送済みよ」
ローズがウィンクと共に手を振る。
私は軽く敬礼を返し、再び街へと歩き出した。
今日の任務は、居住区Dブロックの巡回パトロール。
そこは、地下都市の中でも特に環境が悪く、貧しい人間たちが多く暮らすエリアだ。
湿度は高く、換気ファンの轟音が絶えず響いている。
錆びついたトタンとコンクリートで継ぎ接ぎされた住居がひしめき合い、路地裏には配給を待つ人々の列ができていた。
「……ママ、お腹すいた」
「我慢なさい。今日は配給があるはずだから」
「畜生、いつまでこんな穴倉で暮させりゃいいんだ……」
すれ違う人間たちの声を、聴覚センサーが拾う。
彼らの顔には疲労と諦念が張り付いている。
太陽を見ない生活。
機械軍という絶対的な脅威への恐怖。
そして、「価値のない者は生きることを許されない」という無言の圧力が、彼らの精神を摩耗させているのだ。
私の姿を見ると彼らは一瞬怯え、そして道を開ける。
感謝の眼差しもあるが、それ以上に「恐怖」が含まれていることを私は知っている。
私たちアンドロイドは守護者だが、同時に彼らを容易く殺せる力を持つ「異物」でもあるからだ。
その時、路地の奥から怒号が聞こえた。
「ふざけんじゃねぇ! そのチケットは俺のだ!」
「何言ってやがる、落ちてたんだよ! 拾ったもんの勝手だろうが!」
争いの波形パターンを検知。
私は即座に歩調を早めた。
人だかりの中心で、中年の男二人が掴み合いになっていた。薄汚れた作業着を着た男たちが、一枚の食料配給チケットを巡って罵り合っている。
一人が懐から、錆びたナイフを取り出した。
周囲の人間が悲鳴を上げ、後ずさる。
「離せ! 刺すぞ! 俺はもう限界なんだよぉ!」
「やれるもんならやってみろ! どうせ野垂れ死ぬなら同じだ!」
殺気。
心拍数の上昇。アドレナリンの分泌。
人間特有の、感情による制御不能状態。
くだらない。あまりにも非合理的だ。
たかが一枚の紙切れのために、同種族同士で殺し合うというのか。
私は地面を蹴った。
人間には視認できない速度での介入。
二人の間に割って入り、ナイフを持った男の手首を、私の冷たい鋼鉄の手が掴む。
「――ッ!?」
男が驚愕に目を見開く。
万力のような力で締め上げると、ナイフはカランと乾いた音を立ててコンクリートに落ちた。
私はもう片方の手で、相手の男の胸倉を掴んで引き剥がす。
「都市管理法第12条。居住区内での暴力行為、および凶器の携帯は禁止されている」
私の声は、スピーカーを通して意図的に低く、威圧的に響かせた。
赤い瞳が、二人を交互に見据える。
人間たちは、目前に現れた「死神」のような私の姿に凍りついた。怒りで赤くなっていた顔が、瞬時に蒼白へと変わる。
「あ……あぁ……アンドロイド……」
「ち、違うんだ、こいつが俺のチケットを……」
「言い訳は不要だ」
私は男たちを解放した。彼らは腰を抜かしたようにその場へ座り込む。
私は落ちていたチケットを拾い上げ、スキャンした。
所有者IDが瞬時に判明する。
「所有者ID照合。……これは、そこのお前のものだ」
私は最初に因縁をつけられていた男にチケットを渡した。
「……へ? あ、ありがとう、ございます……」
「そして貴様」
私はナイフを取り出した男を見下ろす。
「他者の所有権を侵害し、殺害しようとした。本来なら拘束対象だ」
「ひっ……! 許してくれ! 腹が減ってたんだ、魔が差したんだよぉ!」
男は地面に額を擦り付けて懇願する。涙と鼻水で顔を汚し、震えている。
弱い。
あまりにも、弱い。
肉体も、精神も。
少しの飢えで理性を失い、少しの恐怖で尊厳を捨てる。
これがかつて地上を支配し、私たちを作り出した創造主の姿なのか。
「……今回は厳重注意とする。次はない」
私が告げると、男は何度も頷き、逃げるように去っていった。
周囲の野次馬たちも、蜘蛛の子を散らすように解散していく。
路地裏に、再び湿った静寂が戻る。
私はそこに立ち尽くし、自分の掌を見つめた。
鋼鉄の指先。数トンもの重量を持ち上げ、敵の装甲を引き裂くことのできる手。
その手で、私は今日も「弱い生き物」を守った。
なぜ?
深層意識からの問いかけが、ノイズのように走る。
彼らはすぐ諍いを起こす。疑心暗鬼に囚われ、他者を傷つける。
放っておけば自滅するような種族を、なぜ私たちは命を賭けて守らなければならない?
『アンドロイドは人間を守らなければいけない』
原初命令が明滅する。
それは絶対的なルールだ。だが、今の私にはそれが「呪い」のようにも、「祈り」のようにも思えた。
彼らの弱さは、醜い。
けれど、その弱さゆえに必死に生きようとする姿は、あのウサギのぬいぐるみを大切に持っていた機械軍のように、どこか切なく胸を打つのだ。
「……リリィ、聞こえる? Dブロックの巡回状況はどう?」
ローズからの通信が入る。
私は思考のノイズを振り払い、業務用の口調に戻った。
「トラブル処理完了。人間同士の小競り合いだ。……いつものことだ」
『そう。お疲れ様。……人間って、本当に手がかかるわよね』
ローズの声には、呆れと共に、どこか母親のような慈愛が滲んでいた。
「ああ。手がかかる。……だからこそ、私たちがいるのかもしれないな」
私がそう呟くと、ローズは少し驚いたように沈黙し、それからふふっと笑った。
『リリィったら、最近ちょっと詩人ね。……さ、次のポイントへ向かって。マリーちゃんも今頃、油まみれになって働いてるはずよ』
私は頷き、再び歩き出した。
天井から落ちた水滴が、私の頬を伝う。
それはまるで、泣けない私の代わりに都市が流した涙のようだった。
地下都市レインコート・第3整備ドック
「バカモォォォンッ!!」
雷が落ちた。
いや、比喩ではない。実際に私の聴覚センサーの安全装置が一瞬作動するほどの怒号が、整備ドックに轟いたのだ。
声の主は、私の目の前に仁王立ちしている整備班長。旧式だが頑強なボディを持つ、ベテランのE型(Engineer)アンドロイドだ。
「貴様、今何時だと思っている! 定刻から14分32秒の遅刻だ! 貴様の内部クロックは飾りか! それとも頭のネジと一緒にどこかへ落としてきたのか!」
「す、すみませんっ! アラームの設定をミスって……あと、リリィが起こしてくれなくて……」
「言い訳をするな! A型の小娘のせいにするとは言語道断! 整備士たるもの、自己のコンディション管理は工具の手入れと同義だと思え!」
班長の拳骨が、私の頭頂部にゴチンと落ちる。
痛覚はカットしてあるけれど、衝撃センサーが「屈辱」というパラメータと共にエラーを吐く。
周囲の同僚たちが、クスクスと笑いながら作業の手を止めてこちらを見ているのが分かった。うぅ、恥ずかしい。E型の面汚しだ。
「……はぁ。まあいい。貴様の腕だけは確かだからな。罰として今日はA-3エリアのパワードスーツ整備を一人で担当しろ。終わるまではオイル一滴も飲ませけんぞ」
「えっ? A-3って……あの重整備エリアですか? やった!」
「……反省の色が見えん」
班長は呆れたように首を振ると、ドスドスと奥へ行ってしまった。
私はペロリと舌を出すと、愛用のツールボックスを抱えて走り出した。
A-3エリア。そこには、前線の戦闘で傷ついたパワードスーツたちが並んでいる。
私の仕事場。私の聖域。
巨大な『ピースウォーカー』の膝元に立つと、私は自然と深呼吸をした。
ここには、私の大好きな匂いが充満している。
焦げた金属の匂い。揮発した溶剤の匂い。そして、機械たちが発する熱気。
司令部のような芳香剤の匂いもしなければ、居住区のような饐えた生活臭もしない。純粋で、正直な「機能」の匂いだ。
「さてと……。君はどこが痛いのかな?」
私はピースウォーカーの装甲パネルを開き、複雑に絡み合う配線と油圧パイプの森へと潜り込んだ。
人間相手だと、私は上手く話せない。
何を考えているか分からないし、言葉の裏にはいつも別の意味が隠されている気がするから。
でも、機械は違う。
断線していれば繋げばいい。摩耗していれば交換すればいい。
彼らは嘘をつかない。こちらが手をかければかけた分だけ、正直に応えてくれる。
「あー、ここね。アクチュエーターの伝達系が焼き付いてる。無理な機動をしたんだね……よしよし、今楽にしてあげるからね」
私の指先が踊る。
スパナを回し、焼き付いた部品を取り外し、マイクロレーザー溶接機で回路を繋ぎ直す。
火花が散り、私の頬を焦がすが、気にならない。
視界に流れる診断データが、赤色から緑色(正常)へと変わっていく瞬間。
そのカタルシスが、私の脳内麻薬物質をドバドバと分泌させる。
楽しい。
私は生きている。
誰かの役に立っている。
リリィのように前線で戦う強さは私にはないけれど、彼女が安心して背中を預けられるのは、私がこうしてネジの一本一本まで魂を込めて締めているからだ。
「♪~」
気づけば私は鼻歌を歌っていた。
油まみれの手。煤で汚れた作業着。
きっと今の私は、世界で一番薄汚れていて、世界で一番幸せな顔をしている。
勤務終了を告げるサイレンが、地下都市に響き渡る頃。
私は身体を引きずるようにして、部屋へと戻ってきた。
リリィと合流し、重い足取りでドアを開ける。
「たっだいまぁー……。電池切れ、エネルギー残量5%……」
「お疲れ、マリー。今日は随分としごかれたようだな」
「誰のせいだと思ってるのさ……」
私が文句を言おうとしたその時、部屋の中に漂う「良い香り」に気づいた。
合成香料ではない。茶葉の、本物の香り。
「あら、お帰りなさい。二人とも」
部屋の中央にある小さなちゃぶ台には、湯気を立てるティーカップが3つ並べられていた。
そして、エプロン姿のローズが、女神のような微笑みで私たちを迎えてくれた。
「ローズ! わぁ、すごい! これ、本物の紅茶?」
「ええ。闇市でちょっとした掘り出し物を見つけてね。今日は二人とも頑張ったみたいだから、ご褒美よ」
ローズは軍用A型の頭脳と、愛玩用S型の身体を持つキメラだ。
だからだろうか。彼女は時々、私たちよりもずっと「人間らしく」振る舞うことがある。
この殺風景な部屋に花を飾ったり、テーブルクロスを敷いたり、こうしてお茶会を開いたりするのはいつも彼女だ。
私たちは装備を解き、ちゃぶ台を囲んで座った。
リリィは青いモッズコートを脱いで軍用シャツ姿になり、私は油まみれのツナギのままだ。
ローズが淹れてくれた紅茶を一口啜る。
味覚センサーが「最高級」のタグを弾き出す。温かい液体が食道を通ってEfリアクターの近くを流れる時、凍えていたコアが解けていくような感覚に包まれた。
「はぁ……生き返るぅ……」
「悪くない味だ。……カフェイン含有量も適切だな」
リリィも珍しく目を細めている。
話題は自然と、今日の出来事へと移っていった。
「今日ね、膝関節が完全にイカれたピースウォーカーが来たの。もうダメかと思ったけど、バイパス手術を成功させて動くようにしたんだよ! 班長も最後は『ふん、まあまあだ』って言ってくれたし!」
私が身振り手振りで話すと、ローズはうんうんと頷いて聞いてくれる。
「すごいじゃない、マリーちゃん。やっぱりあなたは天才ね」
「えへへ……。リリィはどうだった?」
水を向けると、リリィはカップを置いて静かに語り始めた。
「……居住区で人間同士のトラブルがあった。食料チケットを巡る諍いだ」
「また? 人間って、本当に飽きないわねぇ」
ローズがため息をつく。
「ああ。彼らは弱い。些細なことで傷つけ合い、自滅しようとする。……だが」
リリィは言葉を切り、琥珀色の液面を見つめた。
「その弱さを抱えながら、必死に生きようとしている。今日仲裁した男たちは、最後には互いに謝罪し肩を落として帰っていった。……不完全だが、修復可能なシステムだと思ったよ」
リリィの言葉に、私は少し驚いた。
以前の彼女なら、「非合理的だ」と切り捨てていただろう。
あのウサギのぬいぐるみを拾ってから、リリィの中で何かが変わり始めている気がする。
「そうね」
ローズが優しく微笑み、カップを両手で包み込んだ。
「この世界は、価値のないガラクタばかりかもしれない。人間も、私たちも、いつかは壊れる運命よ。でもね……」
彼女は視線を上げ、私たち二人を真っ直ぐに見つめた。
「こうして温かいお茶を飲んで、一日の労をねぎらう時間。この瞬間だけは、どんな高価な宝石よりも価値があると思わない?」
「……感傷的だな、ローズ」
リリィが苦笑する。
「いいじゃない。アンドロイドだもの、心くらい贅沢に使いましょうよ」
私は二人を見ながら、胸がいっぱいになった。
強くてクールなリリィ。
優しくて華やかなローズ。
そして、機械いじりしか取り柄のない私。
バラバラな3人だけど、私たちは家族だ。
原初命令で「人間を守れ」と刻まれているけれど、私が本当に守りたいのは、きっとこの小さな部屋の、この温かい時間なんだと思う。
ふと、視線を感じた。
私はベッドサイドに目を向けた。
そこには、リリィが『ユリ』と名付けた白いウサギのぬいぐるみが、ちょこんと座っていた。
黒いプラスチックの瞳が、薄暗い部屋の中で光を反射している。
敵である機械軍の機体から見つかった、謎のぬいぐるみ。
何の機能も持たない、ただの綿の塊。
でも、今の私には、彼が私たちのこの穏やかな時間を、優しく見守ってくれているように見えた。
「……ねえ、リリィ」
「なんだ?」
「明日もまた、3人でお茶飲もうね」
「……ああ。任務が無事ならな」
「もう、そこは『絶対』って言うところよ!」
笑い声が地下の狭い部屋に満ちる。
外の世界では、冷たい酸性雨が降り続き、機械軍が徘徊し、人間たちが明日をも知れぬ不安に怯えている。
けれど、ここには確かな「熱」があった。
鋼鉄の心臓(Efリアクター)が刻むリズムと、私たちが紡ぐ優しい嘘。
それは、いつか来る終わりの時まで、決して消えることのない灯火のように思えた。
ユリの瞳が、一瞬だけ優しく瞬いたような気がした。
それは私の視覚センサーのエラーだったかもしれない。
でも、私はそのエラーを、記録として大切に保存することにした。




