第12話:調香師 vs 災厄の魔狼
「どうしよう……詰んだ……?」
目の前でラインハルト様が膝をついている。背中からは血が流れ、黒い影の爪がさらに追撃をかけようとしていた。
ヴォルグの赤い複眼が、嘲笑うように細められる。
「終わりだ。まずはその男の手足を――」
「やめろぉぉぉッ!!」
私の絶叫も虚しく、影の刃が振り上げられる。
思考しろ。考えろ、ティア。 泣いていても何も解決しない。ラインハルト様を助けられるのは、私しかいないんだから!
(物理は無効。魔力による爆発もすり抜ける。実体がない『影』そのもの……)
殴っても斬っても効かない相手。 そんなの、どうやって倒せばいいの?
私の手持ちにある攻撃系アロマは、『紅蓮の肉桂』や『金剛の柚子』といった、物理強化や属性付与のものばかり。 全部、「殴って解決」するための道具だ。
(殴れないなら……残された手段は『精神』への干渉しかない)
脳に直接作用する香りなら、肉体の有無は関係ないはず。 でも、私の手持ちにある精神系アロマは、『安らぎのラベンダー』のような微弱なリラックス効果を持つものだけ。
あんな災厄級の化け物に、ちょっといい匂いを嗅がせたところで、「いい香りだったな」で済まされて終わりだ。
(もっと強力な、強制力のある香りじゃないと……でも、そんな都合のいいものなんて……)
その時。 ふと、ヴォルグの行動が脳裏をよぎった。
『この匂いだ。我の鼻を刺激した、鼻持ちならない善の香りは』
あいつは、匂いを嗅ぎつけて、ここまでやってきた。 そして今も、鼻をひくつかせて匂いを探っている。
(……あいつ、鼻が良いんだ!)
野生動物以上の、異常なまでの嗅覚。 それは索敵においては脅威だけど――同時に、最大の弱点にもなり得る。
(感覚が鋭敏すぎるってことは、刺激に対する反応も過剰になるはず……!)
普通の人間なら「ちょっといい匂い」で済むものでも、あいつにとっては脳髄を揺さぶる激薬になるかもしれない。
いける。 理論上は、いけるはずだ。
(作るしかない。あいつの脳ミソを焼き切るくらいの、超高濃度の精神干渉アロマを!)
私は震える手で『調香師の戦帯』に触れた。
必要なのは、魔物を強制的に引き寄せる誘引剤『死神の果実』。 そして、生物の理性を破壊して陶酔させる禁断の植物エキス『禁断のまたたび』。
この二つを、限界ギリギリの濃度でブレンドする。 一歩間違えば、調合した私自身が発狂しかねない危険な賭けだ。
「うぅ……て、手が……」
指先がガタガタと震えて、瓶が掴めない。 怖い。 もし失敗したら? もし効かなかったら? ラインハルト様が殺されて、私も殺されて――。
(ダメだ、落ち着け私……! 今、ビビってる場合じゃないでしょ!)
でも、本能的な恐怖が体を縛り付ける。 目の前には災厄。背後には瀕死のラインハルト様。 プレッシャーで押しつぶされそうだ。
「……これを使わないと、手が震えて調合できない……!」
私は意を決して、ポーチの奥底にある「最後の切り札」を取り出した。 黒い禍々しい小瓶。 『反逆のスパイス』。
これを使えば、私は私じゃなくなる。 でも、今の「臆病な私」じゃ、誰も守れない。
「お願い……私に、勇気を……!」
私は祈るように瓶を握りしめ――。
パァァン!!
地面に思いっきり叩きつけた。
弾け飛ぶガラス片。 あふれ出す、脳を焼くような刺激臭。 それを深く、肺の奥底まで吸い込む。
ドクンッ!!
心臓が早鐘を打ち、視界が赤く染まる。 恐怖という名の雑音が、一瞬で消え失せた。 代わりに湧き上がってくるのは、煮えたぎるような高揚感と、研ぎ澄まされた集中力。
「…………あー、やっと目が覚めた」
私はゆっくりと顔を上げた。 唇が、三日月形に歪む。
「おいワンコ。調子に乗ってんじゃねーぞ?」
「……あ?」
ヴォルグが怪訝そうにこちらを向く。 その隙に、私は『戦帯』の上で指を走らせた。
シャラララッ!!
まるでDJがターンテーブルを操るかのような、超高速の指さばき。 迷いなど微塵もない。 今の私には、最適解のレシピが光って見える。
「ベースは『死神の果実』! こいつでオマエの嗅覚を強制ロックオン!」
ドボドボドボッ! 毒々しい紫色の原液を、空のフラスコに注ぎ込む。
「アクセントにはこれだ! 『禁断のまたたび』! 脳ミソとろけさせる極上の快楽物質だぜぇッ!!」
ジョボボボボッ!
ピンク色の粘着質な液体を、限界量まで投入する。 普通なら一滴で猛獣を発情させる劇薬を、瓶ごとぶち込む暴挙。
「混ぜて混ぜてぇ! シェイク・イット・ベイベェェェッ!!」
ガシャン! ガシャン!
フラスコを激しく振り、魔力を練り込む。 化学反応が起き、液体が妖しく発光し始める。 甘く、重く、そしてどこか危険な香りが、フラスコの口から漏れ出す。
「な、なんだその不快な動作は……?」
ヴォルグが警戒心を露わにし、影の刃を構える。
「貴様の企みなど知らんが、死ね!」
影が伸びる。 私の首を刈り取るために。
だが、遅い。 こちらの準備《仕込み》は、もう完了している。
「特製ブレンド、『脳蕩けの甘い誘惑』! おあがりッ!!」
私は完成したフラスコを、野球のピッチャーのように振りかぶった。 狙うは一点。 あの生意気な鼻先だ。
「受け取れぇぇぇッ!!」
剛速球が空を切り裂く。 ヴォルグは影になって回避しようとしたが――遅かった。 『死神の果実』の強力な誘引効果が、ヴォルグの鼻を釘付けにしていたのだ。
ガシャァァァン!!
フラスコがヴォルグの鼻先で直撃し、粉々に砕け散った。
「グッ……!?」
瞬間、視界を埋め尽くすほどの、ピンク色の甘い煙が爆発的に広がった。 魔狼の巨体が、その甘美な霧の中に飲み込まれていく。
「……ククッ、深呼吸の時間だぜ?」
私はニヤリと笑い、勝利を確信した。 この香りから逃げられる獣なんて、この世には存在しないのだから。




