第11話:絶望の「お遊び」
「ふふふ~ん♪」
私は専用の工房で、鼻歌交じりに新作のアロマを調合していた。 ビーカーの中で揺れるのは、淡いピンク色の液体。
『春告げの桜』。 これを焚くと、部屋の中にいながらにして満開の桜並木の下でお花見をしているような、浮き立つ気分になれるリラックス香だ。
(ラインハルト様、最近お忙しそうだったから、これで少しでも癒やされてくれるといいな)
そんな平和なことを考えていた、その時だった。
カンカンカンカンカンッ!!
けたたましい鐘の音が、静寂を切り裂いた。 教会の鐘ではない。これは――街の危機を知らせる警鐘だ。
「えっ……? 何?」
ビーカーを取り落としそうになる。 直後、工房の扉が荒々しく開かれた。
「ティア様! ここにおられましたか!」
飛び込んできたのは、いつも冷静なメイド長のエマさんだった。 その顔色は真っ青で、唇が震えている。
「エ、エマさん? 何があったんですか?」
「魔獣です……! 領地の外れに、とんでもない化け物が現れました!」
「魔獣……?」
「今、偵察に出た騎士団の方々が運び込まれてきて……ひどい、あまりにもひどい有様です……ッ!」
エマさんの悲痛な叫びに、私の背筋が凍る。 私はエマさんに手を引かれ、屋敷の玄関ホールへと走った。
そこには、地獄絵図が広がっていた。
「うぅ……あぁ……っ」 「腕が……俺の腕が……」
担架で運ばれてきた騎士たちが、血まみれで呻いている。 死者はいない。 けれど、全員が手足をあらぬ方向に曲げられ、あるいは肉を削ぎ落とされていた。
「ひっ!?」
私は思わず口元を押さえた。 これは戦闘による傷じゃない。 まるで、幼子が虫の足をもぐように――弄ばれた痕跡だ。
「……許さん」
広間の中心で、ラインハルト様が低く呻いた。 その体から、冷気のような殺気が噴き出している。
「治療班は全力で当たれ! 私は出る!」
「閣下! 私もお供します!」
ガルド騎士団長が剣を掴むが、ラインハルト様はそれを制した。
「ならん。お前たちはティアを守れ。……あれは、普通の魔獣ではない」
ラインハルト様は黒いマントを翻し、疾風のように屋敷を飛び出していった。
「ラ、ラインハルト様……!」
私も思わずその後を追った。 怖い。足が震える。 でも、あんな傷を負わせる何かの前に、ラインハルト様を一人で行かせるわけにはいかない。
◇◆◇
街の大通りに出ると、そこには異様な光景が広がっていた。
「グルルルゥ……」
家屋の屋根の上に、巨大な狼が鎮座していた。 漆黒の毛並み。六つの赤い複眼。 口からはジュウジュウと音を立てる溶解液を垂れ流し、それだけで石畳が溶けていく。
『深淵の魔狼』。 お伽噺に出てくるような、災厄級の魔獣だ。
「消えろ、害獣」
ラインハルト様が剣を抜き、跳躍した。 その速さは目にも止まらぬ神速。 一閃。 魔狼の首を、確実に捉えた――はずだった。
スカッ。
「なっ……!?」
ラインハルト様の剣が、魔狼の体をすり抜けた。 まるで煙か陽炎を斬ったかのように、手応えが全くない。
「グルァッ!」
「ぐぅッ!?」
魔狼が前足を振るう。 今度は実体があった。 巨大な爪がラインハルト様の盾を弾き飛ばし、その体を彼方へと吹き飛ばす。
「ラ、ラインハルト様ぁーッ!?」
私は悲鳴を上げて駆け寄った。 ラインハルト様は空中で体勢を立て直し、地面を削りながら着地する。
「……物理攻撃が、通じない……?」
「その通りだ、人間」
不意に、頭の中に直接、粘着質な声が響いてきた。
「ひぃっ!?」
私は頭を抱えてうずくまる。 耳じゃない。脳味噌に直接指を突っ込まれたような、おぞましい感覚。
「我は影。実体なき絶望。貴様らの剣など、爪楊枝にもならぬ」
屋根の上の魔狼が、ニタリと笑った気がした。 その六つの目が、ギョロリと動き――私を捉える。
「……見つけたぞ」
ゾワリと、全身の毛が逆立った。
「この匂いだ。我の鼻を刺激した、鼻持ちならない『善』の香りは」
魔狼が屋根から音もなく飛び降り、影のように地面を滑ってくる。 速い。 一瞬で、私の目の前まで迫ってきた。
「ひっ、あ、あんな大きな狼、無理だってば! 来ないでぇぇ!!」
私はへたり込み、涙目で後ずさる。 魔狼――ヴォルグは、私を見下ろして鼻をひくつかせた。
「おやおや、震えているねぇ。いい顔だ。その怯えこそが、肉を美味くする最高のスパイスなのだよ」
(なにこれ、気持ち悪い! 頭の中に声が響いて……吐きそう!)
「さあ、いい悲鳴を聞かせてごらん?」
ヴォルグが右手を振り上げる。 その影が、鋭利な刃となって私に迫る。
「ティアッ!!」
ドガァァァン!!
衝撃音が響き、私の目の前で火花が散った。 ラインハルト様だ。 彼が私の前に割り込み、その身を盾にして影の刃を受け止めていた。
「ぐ、ぅぅッ……!!」
「ラインハルト様!?」
彼の鎧が、影の刃によって紙のように切り裂かれている。 隙間から鮮血が噴き出し、地面を赤く染めた。
「逃げろ……ティア……ッ! こいつは、お前が相手にできる敵ではない!」
苦痛に顔を歪めながらも、ラインハルト様は一歩も引かない。 私を守るために。
「ほう。脆い肉の分際で、よく耐える」
ヴォルグは愉しげに目を細めた。
「だが、いつまで持つかな? 手足を一本ずつ削ぎ落としてやろう」
ヴォルグの姿が掻き消える。 次の瞬間、ラインハルト様の背後の影から、巨大な爪が飛び出した。
「ガハッ……!?」
背中を切り裂かれ、ラインハルト様が膝をつく。
「嫌ぁぁぁぁぁッ!!」
私の叫び声が響く。 目の前で、一番大切な人が傷つけられている。 私を肯定してくれた、優しい人が。
(どうしよう、どうしよう! 私がやらなきゃ、ラインハルト様が死んじゃう!)
恐怖で心臓が破裂しそうだ。 でも、それ以上に――許せない。 私の居場所を、私の大切な人を傷つける、この化け物が許せない。
(戦わなきゃ……! 私が!)
私は震える手で腰のポーチを握りしめた。 いつものように、『戦乙女の紅』を使って、物理で殴り飛ばせばいい。 そうすれば、ドラゴンだって挽肉にできたんだから。
でも――。
(物理無効……!?)
今の光景が脳裏に焼き付いている。 ラインハルト様の剣撃が、ヴォルグの体をすり抜けたあの瞬間を。
(殴っても効かない相手に、どうすればいいの!? 私の攻撃アロマは、全部『物理強化』か『属性物理』なのに!)
ヴォルグが嘲笑うように、影の中から私を見つめている。
「どうした? 絶望したか? その顔だ。その顔が見たかったのだ」
思考が空回りする。 物理が通じない。剣も、拳も、魔法の爆発さえも、影のように受け流されてしまう。
(何か……何か手はないの!? 私の持っている知識で、こいつを倒す方法は……!)
追い詰められた私の脳裏に、一つの可能性が浮かび上がる。 物理がダメなら――残された手段は『精神』への干渉しかない。
でも、私の手持ちにある精神系アロマは、『安らぎのラベンダー』のような微弱なものばかり。 あんな災厄級の化け物に、リラックス効果なんて効くわけがない。
(どうしよう……詰んだ……?)
絶望的な状況の中、ヴォルグの爪が、再びラインハルト様へと振り下ろされようとしていた。




