第1話:「安全すぎて使えない」と追放されて
薄暗いダンジョンの奥底に、ささやかなミントの香りが漂っていた。
それは私が調合した『微風のミント』。 効果は「乱れた脈拍を整え、精神を安定させる」こと。 それだけだ。
「おいティア! なんだこの弱すぎる支援は!」
怒声と共に、私の足元に空き瓶が投げつけられた。 ガシャーン! と派手な音が響き、私は「ひぃっ!?」と肩を跳ねさせた。
目の前で仁王立ちしているのは、Sランクパーティ『金色の獅子』のリーダー、勇者アレクだ。
「も、申し訳ありません……! で、でも、これ以上濃度を上げると、副作用で脳神経にダメージが残るかもしれなくて……!」
私は必死に頭を下げた。 私の職業は調香師。 香りによって味方の能力を底上げしたり、敵を状態異常にするのが仕事だ。
でも、怖い。
香りの力は諸刃の剣だ。もし私の調合が間違っていて、味方の脳を廃人にしてしまったら? 一時の勝利のために、彼らの寿命を削ることになったら?
そう考えると手が震えて、どうしても「絶対に安全な(効果も薄い)ポーション」しか作れなくなってしまう。
アレクはため息交じりに私を見下ろした。
「あのな、お前のその『安全第一』にはウンザリなんだよ。安全な素材は原価が高い。そのくせ効果は誤差レベル。ハッキリ言って『コスパ』が最悪なんだよ」
「コ、コスパ……?」
「俺たちは命懸けで戦ってんだ。多少の副作用があっても、安くてガツンと効くドーピングが欲しいんだよ。使い潰しても勝てなきゃ意味がねぇだろ?」
「そんな……! それじゃあ体が壊れてしまいます!」
「代わりなんていくらでもいる。お前以外にな!ハッキリ言って――お前は邪魔だ」
「じゃ……」
邪魔。 その言葉が、胸に深く突き刺さる。
「今回のボスドロップ、見るか?」
アレクが指差したのは、巨大な魔獣の死骸のそばに落ちていた、一本の枯れ木のようなものだった。 地味な見た目だが、調香師の私には分かる。 あれは伝説級の素材、『聖樹の香木』だ。
「あ、あれがあれば……すごい香油が……」
「ああ、そうだな。だが、お前には渡さない」
アレクは冷徹に言い放った。
「ティア。お前をこのパーティから追放する」
「……え?」
「この香木は、金になる。お前みたいな臆病者に浪費させるより、売って新しい攻撃魔法のスクロールを買う資金にする。その方がよっぽど合理的だ」
私は、反論できなかった。 彼の言うことはもっともだ。 私はいつも怯えてばかりで、みんなの足を引っ張っていた。
「……はい……。ごめんなさい……今まで、ご迷惑をおかけしました……」
私はこれ以上怒られないように、何度も何度も頭を下げて、その場を後にした。 荷物をまとめ、たった一人、ダンジョンの暗闇へと歩き出す。
背後から、「やっとお荷物が消えたな」「せいぜい野垂れ死なないようにね」という嘲笑が聞こえた気がした。
◇◆◇
それから、どれくらい歩いただろうか。 周囲に人の気配はもうない。 静寂と、湿った土の匂いだけが漂っている。
私は重たいリュックを下ろし、その場にぺたんと座り込んだ。
「…………はぁ」
深く、長く、息を吐き出す。 そして。
(あー……怖かったぁ……)
心の中に広がったのは、悲しみでも絶望でもなく――圧倒的な「安堵」だった。
(これで、もう怒鳴られなくて済む。 『失敗したらどうしよう』って、胃をキリキリさせなくていいんだ……)
私は、懐からこっそりと「あるもの」を取り出した。 それは、さっきアレクたちが「私には勿体ない」と言っていた、『聖樹の香木』の破片だ。
実は追放される直前、彼らが興味なさそうに蹴飛ばしていた「小さな欠片」を、こっそり拾っておいたのだ。 本体は彼らが持っていったけれど、私にはこの小指ほどの欠片で十分すぎる。
(へへ……これ、私のものだよね? 誰かのために使うんじゃなくて、自分のためだけに使っていいんだよね?)
そう思ったら、なんだか少しだけワクワクしてきた。 私は根っからの調香師なのだ。 素材さえあれば、どんな状況でも胸がときめいてしまう。
(まずは安全な場所を探して、簡易ラボを作って……)
そう考えて、立ち上がろうとした、その時だった。
――ズズ……ン。
背後で、重く、腹の底に響くような音がした。 空気が変わる。 先ほどまでの湿った匂いが消え、鼻をつくような「焦げ臭さ」と「鉄錆」の匂いが充満する。
(え……?)
恐る恐る、振り返る。 そこには、闇の中で赤く光る二つの巨大な眼球があった。
「グルゥゥゥ…………」
喉を鳴らす音だけで、大気がビリビリと震える。 巨大な翼。鋼鉄のような鱗。 口から漏れ出す炎の呼気。
Sランク魔獣。 『深紅の古竜』。
「ひっ!?」
心臓が早鐘を打つ。 なんで? どうしてこんな浅い階層に? いや、そんなことより――。
(む、無理無理無理無理! 私なんかが勝てるわけない!)
腰が抜けて、足に力が入らない。 逃げなきゃいけないのに、体は金縛りにあったように動かない。
ドラゴンが大きく口を開けた。 その奥で、灼熱の炎が渦を巻いているのが見える。
(死ぬ。殺される。食べられる!)
「いやぁぁぁぁぁ!!」
絶望的な悲鳴が、ダンジョンに虚しく響き渡った。




