都市の中の郵便局を思う
空きマンションの集合ポストに僕の名前が残されていた。
『四〇二号室 大宮高夫』と。それが凡庸な僕の名だ。僕はポストから自分の名前が印刷された紙を抜き取って丸め、ポケットに入れた。僕は左肩に鳥を乗せて上野公園のベンチに向かった。
今日は天候が崩れるかもしれない。曇り空が町と公園の池と緑を覆っていた。僕は村上春樹氏の短編集を開き、それから閉じた。何度も同じ短編ばかりを読み返している。僕の背後を若いジョガーが走り抜けて行った。不忍池をスワンボートが行き交うのを見ながら僕はぼんやりとした気持ちになった。
「お笑い芸人か、マジシャンかい?」
唐突に話しかけられた。僕は声を発した男を見た。隣のベンチに小柄な初老男が座っていた。初老男は僕をじっと見ている。俺はあんたのことを知っているよと言わんばかりに。
「この鳥ですか?」僕は左肩の鳥を見た。「これは仕事道具ではありません。僕はお笑い芸人でもマジシャンでもありません。この鳥はただの『飛翔する可能性』です。鏑矢という矢を知っていますか? 矢を放つと音がピーッと鳴るんです。宮崎駿監督の映画で『鏑弾』というものが出て来て、音が鳴る弾丸や矢は日本で有名になりました。僕はずっとコールセンターで働いていました。苦情を寄こしたお客に鏑木という名字の人がいて、今そのことを思い出していたんです」
「あんた、浮世離れしてるね」小柄な初老男は言った。「喋り方も喋る内容も浮世離れしてる。簡単に言っちまえばあんたの頭も語り口もすっかり飛んじまってるよ。あんたという人間が宙を漂っちまってるのさ。だからあんたの喋り方は奇妙なんだ」
「あなたは上野公園のホームレスですか?」
「俺はギタリストだよ。それもただのギタリストじゃない。無類の酒好きのギタリストだ。俺の耳を見てみなよ。大きな耳をしてるだろう? この耳は音楽を聴くために神さんから特別に与えられたのさ。どうだい、俺はいい耳を持ってるんだ」
「観相学的には耳の大きな人は寿命が長いと言われています。確かそうだったはずです。あなたは長生きする相を持っているということです。耳の大きさとギターは関係がないように僕には思えますがね」
「その寿命もすっかりすり減らしちまったよ。酒をちっとばかりやり過ぎた。俺はアル中で卒倒したことが何度もあるし、肝臓も傷めちまったし、指が震えてギターの弦も満足に弾けやしねえ。女房と子供には愛想を尽かされて出ていかれた。まあ昔の話だがね」
僕は初老男を見た。するとやはりこの男はホームレスだ。家も家庭も失って上野公園のベンチで時間を潰している。僕も職を失ってはいるし、時間を潰してはいるがこの男ほど落ちてはいない。僕は岩手に移住するし、売却待ちの立派なマンションだって抱えている。僕はこの初老男とは違う。
「子供の頃にクラシックのギターから始めたんだ」男は言った。「それから流行りのフォークソングを始めた。その当時の歌と演奏がカセットテープに録音されてるよ。カセット? いつも胸ポケットに入れて暮らしてるよ。俺は本当にギターの才能がある子供だったんだ。そして順調にギターを学んでフォーク専門のギタリストになったのさ」
僕は興味がない、とばかりに正面の池を見た。ホームレスに関わっているような時間は僕には一秒もない、と態度で示す。
「上野の神さんはしけてるよ」男は構わずに続けた。「お守りもおみくじもありやしない。賽銭を散々もらって儲けているんだからお守りやら御朱印やら用意したって良さそうなもんだがね。ところで、あんたのその鳥は……」
僕は立ち上がった。これ以上、ホームレスには関わらない方が良さそうだった。
僕はふと都市の中の郵便局について思った。複雑な、片側三車線の道路に囲まれた郵便局だ。一軒家ではなくビル群に郵便物を配達する。車の排気ガスばかりを吸って一週間で肺が黒くなってしまう。関わるまい、と僕は思う。ホームレスにも都市の郵便局にも僕は関わるまい、と――。