沙漠で見る夕日について思う
上野の家具店に歩き、ソファーに座ってみた。
家具のない空きマンションに住んでいて久しぶりにソファーに座る。体が楽だと感じる。マンションの床にじかに眠って痛んでいる体はそれ切り立ち上がることができない。
僕は学生の頃、学校の集団行動やら集団生活にまるで馴染めなかった。
高校を卒業した時、僕は体も精神も疲れ果てていて一年の休暇を必要とした。そのために必要のなかったはずの大学浪人生活をした。その間、予備校になど通わなかった。一年で学校のお勉強は頭からすっかり消え失せて忘れられてしまい、僕が一年後の入試を通過できたのは三流の私立大学だけだった。それが集団生活のできない僕の精神を勘案した場合の、トータルでの学力だった。高校時代、僕より成績が下の人間たちは上智大学やら立命館大学に入学した。僕は集団生活ができない精神を持つという総合力のなさで大学のランクが三流大学まで下がった。そして大学生になるために上京した。十九歳の時だ。それが僕の東京生活の始まりだった。
学生が三百人くらいいた社会人類学の講義を覚えている。僕は試験の問題を五分で解き終えた。三十分経って、終わった者は試験を終えてかまわない、と試験官に言われて僕は立ち上がった。三百人の学生たちの中で試験を終えたのは僕だけだった。僕は唖然とした。
大学ではそんな出来事が度々あった。三流の私立大では僕と周囲の間にはそのくらい学力差があった。だが僕はとことん集団生活ができなかったから総合力では三流私立大の学生たちにも劣った。
家具店の男の店員が来て話しかけた。「ソファーをお探しですか?」
「そうです」僕はとっさに嘘をついた。
「何人用のソファーをお探しですか?」
「二人です」僕はまた嘘をついた。「家にいる宇宙人は体が細いのでソファーの隅にぎゅっと押し込んで座らせます」
僕は冗談を言ったが男の店員はくすりとも笑わなかった。面白くない冗談なのだ。
「お客さま、鳥が」店員は言った。
「鳥?」
「鳥が家具に糞をするのでは、と心配で声を掛けさせていただいたんです」
どうして僕はこういう細かなところに配慮が至らないのだろう。僕は家具店を出た。
「おまえのせいで、ありつけたソファーから追い出されたんだぞ」僕は鳥に文句を言った。
「蟹の漁師について考えな」鳥は僕に答えた気がした。
「蟹の漁師?」
「蟹の漁師はロシアとのぎりぎりの海域で漁をしてストレスを溜めた上に狭い船の中で足も伸ばせずに寝る。荒波で船が揺れて船酔いと戦いながらな」
「なるほど。僕は恵まれているな」
「だろ?」鳥は翼を広げて鳴いた。
何もすることがなく上野公園に戻り、公園内の神社にお参りした。それからフリーマーケットを眺めた。中古の骨董品が並ぶフリーマーケットだ。
僕は古い置き時計を手にした。手にした途端に時計は止まった。
「おまえらしいぜ」鳥が嘲笑した気がした。「おまえは時間を停止した中で生きているということだよ。おまえはこの東京での暫定的な魂に過ぎないんだ。おまえが東京のどこに所属していると言うんだ? おまえはどこにも所属していない。空きマンションの空室を思い出せ。今も山手線の網棚に乗せられて移動しているK氏のアルバムを思い出せ。K氏がS氏に放った辛辣なエゴを思い出せ。『Fカップ』ってな。おまえは『どこにも所属することのできない魂』なんだよ」
所属とは――。所属は沙漠で見る夕日を僕に思わせた。僕は想像する。沙漠を彷徨う男が夕日を見つめる。灼熱の真昼が終えられ、これから極寒の夜がやって来る。男はごくり、と渇いた喉を鳴らす。自分は生き延びられるのか。そうだ、いつしか自分は沙漠を彷徨うことになった、と思い出す。自分が世の中に所属するのをやめた日からだ。ああ、なぜ自分は『所属すること』をやめたのだろう。沙漠で見る夕日を思う――。