九
海から家に帰った日から、異常と言えるほどふゆの睡眠時間は長かった。トイレに行く事と食事をする事以外の時間、彼女はほぼ部屋の中で昏睡していた。目が覚めても茫然自失になっているように見えて、体の動きもいつもより鈍かった。まさか病状が悪化して行くのかしらと時々心配していたけれども、大病を癒やしたばかりの身体にとってそれが随分大変な運動量であったという事実にやっと気付くと、私はその泥濘にはまった如く深き睡眠を妨げるような事をしたかった自分を制した。
その日、昼食を済せた後のふゆは、すぐ部屋に向かって睡眠を続ける事をしなかった。やっと私の事をちゃんと見てくれるようになったその瞳も前より少し澄んでいるらしく見えた。私は彼女の指定された店へ行って三人分くらいのお菓子を買い、鼻歌を歌いながら帰り道についた。
家を出る前に、「そんなに急いで帰らなくてもいいよ。まだ昼ご飯を食べたばっかりだし、あのお店のお菓子も暫く食べてないから、あきがそれを買ってもらってこの前みたいに急いで走って帰って来たら、きっと我慢できなくてすぐ食べちゃうよ」とそう言ってくれたふゆの微笑みを私は頭に思い浮かべて、小躍りしてドアのベルを押した。そうして、ドアのベルを何回も押して見たけれどもドアが開けてくれなかった。私はまた少女の名前を呼び、何の返事も貰えないこの静けさで変に不安を感じた私は急いで鍵を出してドアを開いた。すると、人影のない伽藍堂の座敷が見えた。これが全く生活感のない屋敷であったという事を、私は初めて意識した。起きているのかと私はそう言いながら細目に障子を開けて見たけれども、部屋の中にはまた否応なしで人気がないように静かであった。急に勘付いた私はがたぴしと障子を開いた。
窓掛は開け放たれて、真夏の光がこの木の香りに満たされた部屋中に傾瀉する。木造の床の上にこぼれていた液体は、この強い陽射しの下に血色のような重厚の質感を持っていた。少し不気味に感じた私は身を伏せて見ると、血潮の中で静かに横たわっている少女の姿を目に映してしまった。そうして、鼻腔に溜まっていた空気も急に血の匂いで充満されて、強迫的に私の肺に侵入して来て少女の血に吸い付かれた。病症がどんなに声帯を震わせていて死力を尽くそうになるほど硬直化された舌を操って見ても発声できなく、突発性の緘黙症に私はまた罹ってしまった。無意識のうちに口も大きく開いて、胃の中で激しく起きている痙攣で涙もぽつりぽつりと畳の上に落ちているが、消化液に包まれた物を吐かせることができなかった。いや、違うんだ、吐くなよ。吐かせるものか。ふゆの血を穢して、その体に汚濁を染まれて、その美しい胴体を気持ち悪く思うなんて、そんなことはさせるかよ!
私は血潮の中で身を死せたふゆを軽く抱き上げて、その冷たくて少し血の跡の付いた唇を口付けた。そうしてふゆのその握り締めた拳を優しく開いてあげて、虎口から滑り落ちたナイフで彼女と同じように見えた傷の形を自分の手首と頸の上に描き始めた。