八
優しくて私の姿を包んだ暖かい朝日が真昼に変わって、その灼熱の暑さが皮膚を灼いても、私は当てもなく街中を歩いていた。飢えと疲労が共に神経に至る警笛を鳴らせた事をはっきり感じていたけれども、自然か故意か、私はただそれらを無視していた。或いはその感覚が既に私という生物体と解離していて、一つ一つの個体としても憎むべき元宿主に虚勢を張っていたのか、私にも解らなかった。そんなことはどうでも良いという無関心で歩き続けた。私はただこの世界を歩き続けていたかった。この足が触れていた大地から伝わって来た悉くの触感も、この耳に届いてくれた全ての音色も、この目に反射した一切の光景も私の後姿へ無情に投げ捨てられた。私は万象さえ溶かして、なお視力を飲み込む白い光の中を歩き続けた。
突然、私は「海に行きたい」という実体化されたような固い願望に偶然とぶつかりあった。そうして、その願望に手を伸ばして触れて見ると、それが他人の願い事なぞではなく正に自分の意識から産まれたものであったという事に私は驚いた。一体どういうことなのだろうと白き光に侵食された頭を捻って見た結果は、人を絶望さえ感ずるはずだった空白であったけれども、私も急いであの鮮やかな緑に包まれた屋敷へ帰って、父に海への行を申し出た。すると、私が危篤時期に使っていた車椅子を父はやっと見つけ出し、それを明季に押されて私を連れ出した。
「ふゆ、無理はするなよ。ふゆのことを頼むぞ、林さん」
暖かくて、どこか寂しく感じられた夕日は今りんりんたる海面の映りに、その寂しさに一層重厚な悲しさを綴んだ。それもまた、私が久々に見れなかった絶景であった。私は力を込めて車椅子の手懸けを掴んで立とうとした時、薄い衣服に隔てられた腰から急に微熱な触感を感じた。そうして、その微熱に導かれた右手はやがて少女の肩に落ちるに従い、私はゆっくりと支えられて車椅子の上から立ち上がった。少し戸惑って頭を上げると、優しくて私の事を静かに見つめた明季と視線が交わった。それは私がまだ達者のうちにいても、持病に苦しめられたうちにいても見た事のなかった目付きであった。
夕日を映した少女の目を見つめていると、私の渇きの甚だしかった、あの「救済」という名の夢は既に彼女の手で破壊された事にやっと気付いた。暖かい海水がいま足下に安らかに打ち寄せていて、耳朶まで熱くなった夕焼けを身に浴びていたが、堅氷で創られた数千の針に心を貫かれたような極寒を感じていた。
「ねえあき、戻って」
私は無意識のうちに涙が零れそうで、視野の中に霞んだ少女の影がいま暖かい体温を帯びた手で私の眼角を優しく拭いている。
やだ、もういい、いいんだよあき。もうこれ以上、そんなにやさしく、私を触らないで。もうやだ、あき。おねがい。