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荒唐無稽な夢を具現化したかった私は既に目が覚ましていた。凄まじき暴行に充ちていたその日から、昔の影を一つさえ見せず、まるで別人に変わったような風夕に対しての恨みも完全に消え去ってしまった。体の奥底から絶え間なく湧いて来て、また快感を呼び起こした怒りの炎に焼かれた私は急に風夕の瞳に注意を払った。そうして、薄い血の霧に霞まれたようになった私の視野に映ったのは、人間が死なない限りあるべく七情六欲をちょうする光点の逝去せいきょであった。いま少女の瞳の中に残されたのは虚無に満たされた静寂だけであった。


少女の吐き出した血はいま私の手にまみれた。すると、首を締められてから少女がずっと激しく咳をしていた事にやっと私は気付いた。


私は息が止まりそうで瀕死な少女の顔を見つめて、急に不安を感じた。まるでこの唐突に襲われた不安の来源を探してみたように、私はまた自分の両手を見た。窓の外から差し込んだ薄暗い月明かりの下で、手の甲についた血痕は眩しき銀色に輝いていた。そうして、目の前に赤裸々としていた少女の命の本質を、この血まみれた手でそのまま冒涜したという事実をやっと意識した時、涙は既に下顎まで流れて顔を濡らした。私は啜り泣き始めた。泣くなと自分に命令すればするほど涙が零れて来る故、大変極まりが悪くなった私はやっと禁じ得ず両手で顔を遮った。それでも少女が私の体を優しくて抱き締めて、その熱い吐息がいま髪を軽く揺らした。すると、「あなたが欲しい」という素直で少し露骨とも見えた願望を私に伝えて来てくれた。


狂おしき情慾に充ちたその日から、私は無遠慮で晴れやかな心持ちで毎日あの屋敷を訪れた。今日も風夕から送られた鍵を手に持って、ドアのベルを押した。ドアが開いたらきっといつもの通り、仕方がないような顔をしながら私に微笑んだ風夕の姿を見れるのだろうと私は信じていた。しかしドアの響きに伴って、視野の中に現れた男の影が私の期待を裏切った。男は私の顔に浮かんでいた異様にまったく気付いていなかったように、局促きょくそくした私に微笑した。


「おはよう、林さん。今日もうちに来てくれたね。ふゆは一人で散歩したいって言って十分前くらいに出かけた。今は一応、おれだけいるけど。まあ、とにかく入りな」


男は私を食卓に座らせてからすぐ勝手の方へ行って料理を始めた。そうして、二十分くらい経って、男は鍋を持ち煮物の良い匂いに包まれて私の向こう側に座った。


「ずいぶん長いね、ふゆは。まあ病気になってからずっと家に籠もってたから別にいいけどさ」


すると、男は急に何かを思い出したようで言葉を中断した。


「いや、おれが留守したとき出かけたことがあるかもしれんな」


「下原さんは、いつもお仕事に忙しいのですか。なんだか、あまりお家に帰る暇もないようで」私は言葉を選んで男に聞いてみた。


「結構大変な仕事量だが、そこまで忙しくない。だっておれは、自発的に残業することが多いんだから」


男は少し黙った後、やがて袋の中に入っていた煙草入れを出し、煙草を一本出して燃やした。そうして、私に「どうして」と聞き返す余裕さえ与えてくれないように、男は頭を下げたままで言い続けた。それもまた、私にどうのような反応をされても断じて構わず、強引にも見えた言い方であった。


「実はおれ、あの日からずっと怖かった。妻が亡くなった日からずっと、ふゆと向き合うのが怖かった。あの日、はやく病院に来いっていう主治医からの電話が急にきて、母娘の朝食を買いに行った途中のおれを急かした。おれはすぐ病院へ急いで向かったが、いつも平気に出入りしてたはずの病室のドアが、あのときどうしても跨げなくて、おれの足は急に立ち止まってしまった。あかり……。おれの妻。あんなに愛してた、いつもやさしくおれを支えてくれて、あの強くて美しかったあかりが病床の上に横たわって、骨の形がはっきり見える痩せ枯れた指で自分の残り少なかった命を数えるしかない憔悴の姿になって……。夫として妻の最期を看取るのが当然なことで、むしろそれは一種の責任でもあったが、そんなこと自分にとってできるわけないだろう。泣き虫、弱気な男、優柔不断なやつとか、ガキの頃でも大人になってもよく周りの人たちはそうゆってくる。クラスメイト、部活の先輩、上司、友だちからの洒落……が、平穏に生きれるなら一生弱虫でいても悪くないって思ってたおれは、病気になった妻の前で、頼もしく思われるためにいつものように弱気を絶対見せちゃだめだっていう負けん気が、変に起きた。あかりにも、ふゆにもいっぱい話したかったのに、おれの前で強がりばっかりしてる母娘の笑顔を見ると全ての泣き言が急に腹から湧き上がって喉笛を塞いで声を殺そうとしてきた。妻の姿を心の中に深く刻みたかったのに、病床に横たわった彼女をもっと見ると涙がすぐあふれてきてしまう。そんな弱いおれは妻の死様なんて絶対見たくもない、見る勇気さえ出せなかった。今でも、おれはあのドアを跨ぐ勇気が出せないだろう。おれのせいで、娘を独りでお母さんの死に直面させてしまった。怖かっただろう。それだけでなく、あのときからきっとおれを、ずっと憎らしく思ってるだろう」


男は喉の奥まで締め付けられたように、震えていて掠れた声でその破裂した言葉をやっと言い切った。すると、全身の力を尽し疲れたように見えた男はそれから、黙って煙草を吹かし始めたのであった。焼かれている煙草から生まれた煙を、一縷さえ残らず肺の中に吸い尽くそうと、男は欲張ったまま煙草を吹かしていた。それは私の知る限り、滅多に見られない煙草の吹し方であった。


「一本吸うか」


男は煙草入れを指で軽く捻って、その中にある最後の一本を私に差し出した。しかし、震えている手で煙草を渡そうとした時、そのどんよりした瞳の中に偶然に私の姿を映して、男の動きは急に固まった。すると数秒後、凍結したような身体の硬直が少し緩み、それでもまだ思うままに動かせなさそうに見えた手で急いでそれを灰皿に投げながら私に笑った。しかしその笑い方はあまりに不自然に見えて、慙愧ざんきの意味も含めていたようであった。


「ほ、ほら、何してんだよおれ、ごめんごめん。なんか煙草吸いすぎちゃって頭も鈍くなったようだな。本当にごめん、林さん。そ、そうだ、ふゆはもうすぐ帰ってくるかもしれないから、はやく片付けないと」

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