六
暮春の暗い天色の映った窓の下、私は皿の上にある少し病的に見える灰白色の滲んだ豚のタンをおかずに夕食を取った。見た目が少しおかしいが、少し醤油をつけてこのまま食べるだけで美味しい。
夕食を食べ終わった時すぐ、この一週間ずっと沈黙していたドアのベルが唐突に音を立っててた。どうやら明季がまた来たようのであった。私はどんどん大きくなって来るドアの叩く音を聞きながら少し躊躇って、やがてドアの外に立つ少女に警戒心を解いて扉を開けた。そうして、恣意的に私の体を上下するように乱暴な視線を感じた。私は少し信じがたく思いながらその視線の来源である明季の目を見た。
燃え立つ炎のような少女の瞳は既に温度と光を失って虚無に帰っている。熱く灼かれるように激しく燃えた私への期待にしろ炎心でちらちらと輝いた異様な光にしろ、人間が健やかに生きている証としての生気でさえ、何もかも少女の瞳から消え去っている。
私は明季のその虚ろな目に驚いた。しかし私の頭の中に存在したこの驚きは、観測してからすぐに消え去って、私はまた目の形が歪んだほど必死に眼角を吊り上げている明季に注意を払った。そうして、今の明季の顔に浮かんでいる表情の名は怒りであることに私はやっと気付いた。拳を握ってその得体の知れない怒りを抑えているようだけれども。
それでも、私は「こんばんは」と言いながら明季を部屋に招き入れて机の前に座らせた。そうして、そのままベッドの上に座ろうとしたけれども、凝と見つめて来た明季の視線と交わってしまった。なぜか私はテレビで見たことのある、虎が狩りをする時の目つきを思い浮かべていた。
「ゆ…あんたは風夕、だよね」
「わたくしは下原風夕で間違いないですが」私は明季のこの質問にまた驚いた。
「今のあんたはいったいどういうことなんだよ。昔の風夕なら風邪すらあんま引いてなかったじゃない」
「お母さんから遺伝した肺の病気にかかっちゃってそうなったよ。学校を休んだのもこの病気のせいだけど、今はもう大丈夫になった。あきを騙しててごめん」
「謝らないで。それに、なんでそんなにあのじじいが怖いの」
「私の前でお父さんのことをじじいって呼ぶのやめてほしいけどな。お父さんを怖がって見えるの。私はただ、お父さんのことを気の毒だと思うよ」
退院の前日、欄干に凭って私の検査報告書を繰り返して読みながら、「よかった、本当によかった」と囁いていた父の姿を私は急に思い出してしまい、やがて明季の声もどんどん小さくなって、遠くのどこかへ飛んで行ってしまった。
お父さんよ。一体、なにがいいの?お願い。目を逸らさずちゃんと私のことを見て。この病床に横たわった少女と、貴方の記憶の中だけで生きている娘はもう別人なんだよ。まだ気付いていないの。それとも、ただ目の前に遭った現実を認めたくないの?
お父さん。もうこれ以上自分を騙さないで……。
「ごめんなさい」と私は無意識のうちについ囁いた。
「もう謝るなって言っただろう」
突然、少女の怒鳴りと気管が不意に受けられた冷たい圧迫感が同時に私に迫り来て、また無情に私の思考力を奪った。私は少し上目遣いをして明季を見た。そうして、体に跨って首を締めている少女の血色に染まった眼角から溢れて来た感情を、そのまま直視したーーそれが鉄さえ一瞬で溶解させる高炉から練り上げたように混じり気のない高純度な怒りと、その高温が連れた憎しみという名の副産物であった。
私は感電したように激しく痙攣すると、変に興奮して来た明季を凝と見つめていながら呆然とした。母であろうと父であろうと、または昔の明季でさえ、誰かに投げられた視線の中からそんなに熱くて純粋な怒りの影を見たことがなかった。
急に私は、少し汗で潤った明季の冷たい両手を恣にさせた。肺の奥から気管までの痛みも体と解離していて、解脱のような快感を感じた。故に私は防御性収縮した顔の筋肉を緩めて、何の表情もせず明季が私にくれた死という運命を隠喩するよう甘き「救済」を静かに待つことにした。
首に掛かる力も益々強くなって来て、どんどん上がって来た中耳の内圧が私のために創ってくれた幻聴から「歓喜に浸って死を迎えよ」と宣言するような神聖たる声が聞こえた。けれども、少しだけ残っていた一つの理性に汚れたことを許さぬ、聖なるDNAから産まれた意識の深くに刻まれた「生きろ」という本能がその運命を哀れに抗って、無様で必死に希薄になった空気を吸い込んだ。病気に蝕んで濁った処女の血に汚れた明季の手が、いま私の首を絞めている。しかしその異様な純白に光っている手が美しすぎる故、私はつい目を瞑った。
突然、顔が潤い感触に濡らせて、首にしっかりと絡み付いた力が私への原始的で野蛮な殺意を連れて共に消え去って行った。そうして、泣きながら「ごめんなさい」と繰り返した少女の声が聞こえた。
雷がないのに、ビンビンと響く耳鳴りがした。空想の威光を借りて見せかけの雷火も朧になった視野を劈いて、汚れた血に染まって泣いている少女の姿が唐突に私の視野に侵入した。私は急に殺意から脱却した明季の姿を数分見つめていて、やがて麻痺した体を必死に動かして明季の体をそっと抱き締めながら唇を少女の首に軽く付けた。すると、少女の耳元で囁いた。
「大丈夫だよ。私、あきに何をされても全然いいもの。気にしないで。あと、今日もお父さんは留守だから、うちに泊まって。……ほらあき。逃げないで」