三
ドアが鈍い音を立てながらゆっくりと開いて、蒼白く憔悴した少女の顔と血の跡のついた灰色の上着が同時に、鋭く何も飾らず私の目に映った。まるで別人になったような風夕の姿を見た私は自分の目を疑ってすぐ逃げようとした時、体が固まったように動けないことに気付いた。私は魔が差したようにもう一度少女の顔を見た。すると細くて柔らかく見えた眉毛の下にある、光も映らないくらい恐ろしい漆黒の瞳が見えた。
突然、私は不意に少女の瞳の奥に住む虚無の影を見た。その影が自分の存在を誰かに知られたことに業腹になってしまってすぐ私を吸い込んだ。急に視力が奪われた私は驚愕して体が震え上がって、どんどんうるさくなって来た心臓の鼓動と、甲高い金切り声のような音が鼓膜から脳内を貫通し続けた。私は自分の声帯と唇が激しく震えていて何か伝いたい事があるということが解っていたけれども、しかし何も聞き取れなかった。それでも私は有りっ丈の力でドアに縋り付いて、霞んだ視野の中で微かに見える白い影に言った。
「私はずっと風夕に会いたくて。話したいこと、いっぱいあったのに」
少女の瞳に隠した虚無で混沌になった脳内環境から意識を取り戻した私は、いつの間にか食卓に座っていて、勝手の方で食事を作る風夕の後姿もはっきり見えて来た。そうして十分くらい経って風夕が作ってくれた朝食を食べているうち、まだ高校一年生のある日、風邪で学校を休んだ風夕にノートを届けるため初めて彼女の家を訪れた時、この広い屋敷にいるのは彼女だけであった事を急に私は思い出した。
「風夕のご両親はいつも忙しいの」
「お父さんはいつも残業や出張するけど」
「じゃあお母さんは」
「もう亡くなってしまった」
今まで上の空で話を聞いていた私は、少女のその言葉に驚いて頭を上げた。けれども柔らかい髪がちょうど彼女の顔を遮ってその表情が見えなくなった。
「しらなかっ…いや、ごめんなさい」
「大丈夫だよ全然、あきが謝ることじゃないの。それに、もう私はとっくに、お母さんの顔を忘れたよ」
「ちょっと話が変わるけど、風夕はおもってたより料理が上手だな」
「ありがと。お父さんが留守にするときいつもコンビニで弁当を買うの無理じゃない、だからちょっと嫌だったけど自分も料理をつくってみた」
「すごいなあ。風夕の手作り料理をもっと食べるために明日も…いや、毎日ここに来るよ」
「しょうがないなあ。てかあきは、今日一日学校をサボるつもりでしょ」
「そうするつもりよ。だって、風夕がいないと学校なんて全然行きたくないもん。あっそうだ。風夕が学校を休んだ日、私はクラスの誰よりも早起きしてるよ、毎日」
「ほんとに。あきちゃんえらいえらい」
風夕が箸を置いて私に優しい笑顔をくれた。それは目に眩しくは映るまい夕焼けのように優しく、昔と変わっていない笑顔であった。久しぶりにその大好きな笑顔が見えた私はやっと、血管の果てに凝固した血の塊どんどん溶けて行くことを感じたようで安心した。突然玄関からキィーキィーと鳴いた耳障りな音が聞こえて、私は急に驚いて反射的にその方に向いていた。すると、見知らぬ男の影が見えた。
「おれは今日うちに帰ってご飯を作ってあげるって言っただろ」と男が風夕に言った。
「ごめんなさい、お父さん」
「まあ、別におまえを責めるつもりないけど。こちらは…」
「は、林明季と言います。風夕さんの、あのう、友達です」
「ふゆが学校を休んでからずっと家にこもってて、きっとつまらなかっただろう。うちに遊びにきてくれてありがとう、林さん。良かったらまたきてね」男はやっと吊り上げた眼角の筋肉を緩めて私の方へ軽く笑った。
私は座敷にいる二人に何かを言った後すぐドアを開けて慌てていて逃げ出した。
……。ち、ちがう、どういうことなんだろ。風夕。あなたのその顔、あいつを、あのじじいをみたときの、あなたの怖がってそうな顔、わたしは、全然見たことないんだ。知りたく、ない。そんな顔してたあなたのことを……風夕?わたしは、知りたくない。やだ。わたし、は、みたくない。みたくない、あなたの、その顔を、その姿を。わたしは、だい、きらい。こっちにくるな!くたばれ。死にかけのあんたも。くろいふくを着た喪服じじいも。