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王道のホラーじゃないですが、最後まで読んでもらえたら嬉しいです。
『新紙幣発行に伴って旧紙幣は即刻廃棄となる』
そんな日本政府の横暴極まりない噂話を耳にしたのは寝たきりの母からだった。
女手一つで自分を育ててくれて、大学まで卒業させてくれた強い母
__けれど、時の流れは残酷であれほど活発に動き回っていた母から歩く事を奪った。
それだけでは飽き足らず、ベットから自力では起きだせない暮らしになると母はすっかり老け込んでしまい、判断力・思考力までもがガクンと落ちてしまった。
元気な時の母であればそんな噂話は一笑に付しただろう。
「タカシ、あんたちゃんと換金したの?」
先週ぶりに面倒を見にやってくると母は唐突にそう言った。
「何のこと?」と聞き返した自分に、母は例の噂話を話して聞かせたのだ。
「だからね、旧紙幣を新紙幣に換金しなくちゃ一文なしになっちゃうんだよ」
ボケてしまったとは言え、母は母だ。
自分の一人息子の心配をすることは忘れない。もう50代のおっさんであることは忘れているのか、それとも母親にとって子供の年齢は関係ないのか。
嬉しいような寂しいような妙な心地を飲み込んで笑みを浮かべてみせた。
「母さん、それデマだよ。これまでのお金もちゃんと使えるから大丈夫だよ」
「ええ?そうなの?野口さんも諭吉さんも大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫」
「樋口さんも?」
「樋口さんも大丈夫」
そこまで言うと母はほうと安堵の溜息を吐いて、大きな枕に背中を預けて力を抜いた。
「よかった、よかった。そりゃよかった」と口の中で繰り返しながらその内眠ってしまった。
サイドテーブルのラジオのボリュームのつまみをそっと回す。印がMINを差すと囁き声のような判別不能の音が漂う。
ラジオは母の趣味の一つで、寝たきりとなった今も続けられる唯一の物だった。
携帯を持たず、テレビも見ない母にとっては唯一外部の情報を得れる機械だ。
ラジオは入浴時を除いて一日中流しっぱなしで、寝ている時でさえ消すと途端に起き出して「まだ聞いていたのに」と文句を言う。そんな子供じみたことを言うのも昔からだったから、それを聞いた時には母が病気で倒れて以来初めて心から笑えて、それから少しだけ泣けた。
体を冷やさないようにブランケットを掛け直してやってから、家事の続きに取り掛かった。
とは言え、仕事はそれ程あるわけではない。
平日の間は交際相手である女性が母の面倒を見てくれているのだ。
金町マチコさん__これほど素晴らしい、そして心の優しい女性に出会えたのは不幸中の幸いだった。
母が退院して暫くは休みを取っていたが、どうにも仕事との両立が難しくなった時に彼女は現れ、自分に手を差し伸べてくれた。
『私、幼い頃に母を亡くしているんです』
目の下に隈を作った私は彼女からそう告白された。
疲弊している私から母の病気の事、介護の事を聞き出してからだった。
『自分の母親にできなかった事をしてあげたい』
そんな申し出に涙が出そうだった。
介護福祉施設で働いていた事もある彼女は自分とは比べ物にならない手際の良さで母の世話から家の事、自分では到底手が回らなかった些事まで全てをこなした。
自分にとって世界一大切と言って過言でない母。そんな母を自分と同じように大切に想ってくれる女性__愛情を感じないはずがなかった。
歳の差はあった。自分は50代、彼女はどう多く見積もっても30代前半。だが、告白をしてきたのは彼女の方からだった。
『お義母さんの事をタカシさんと一緒に守っていきたい』
そう言われて、心の内の障壁はぐっと足元の方まで下がり、簡単に超えられる高さになった。そうして私は予感の通りにそれを跨ぎ越したのだ。
年内にはプロポーズをするつもりだ。
自分に相手がいないことをずっと気に掛けていた母親を驚かせてやろう。
布団を干しながら、自然と鼻歌を口ずさんでいた事に気づき自分の浮かれ具合に頭を掻いた。
会議中に携帯が震えた。
昨晩決着がついたばかりの都知事選を引き合いに如何にSNSが若者世代に影響を及ぼすかを若手ホープが力強くプレゼンをしている最中だったので、慌ててバイブレーションを止める。
幸いこのちょっとしたアクシデントに勢いを削がれる事なく、27歳の青年は革命派の攘夷志士のように熱弁を振い続けた。
彼のここ一番の見せ場を邪魔せずに済んだことには一安心だが、私自身は全く内容に集中できなくなってしまった。
寝たきりの母は電話のある廊下まで行くことはできないので、母の家の固定電話に掛けられた電話は直接自分の携帯に転送するように設定してある。
電話線をベッドの傍まで引く事も考えたが、知力が低下してしまっている母が詐欺の餌食になってしまうのは避けたかった。詐欺だけならまだいいが、それが強盗を企んでる輩だったら母の命に関わる。家に寝たきりの老人一人であることを聞き出した連中がバールや縄を持ち込んで押し入り強盗をするなんて、考えるだけでこっちの心臓が止まってしまう。
見守りサービスを利用していて24時間訪問者をセンサーで感知し登録者以外の人物を捉えたら携帯に通知が来るようにしているがそれでも最善を尽くさない理由はない。
そういう訳で、母への用件は外部転送し帰宅してから自分が直接伝えるのが習慣となっていた。
無論、電話の相手はこっちが就業中など知らない訳で好き勝手な時間に携帯がぶるぶる震えだすのだが、そこは事情を知っている社内の面々のおかげもあって何とかやれている。
いつもであれば、適当な時間に折り返すところなのだが、先程の着信が転送ではなく家から直接掛けられたものだという事実に胸騒ぎがする。
__この時間帯、家にはマチコさんがいるはずだ。
彼女は私の仕事の邪魔をするのが嫌らしく、これまで休憩時の定時連絡以外に電話を掛けてきたことなど一度もなかった。そして定時連絡の時間まであと2時間は優にある。
__何か母の身にあったのではないか?
5分だけ席を外す事を謝って、会議を抜け出した。
電話にでるとすぐに切羽詰まった声が耳を貫く。
『タカシさん!?大変なの!お義母さんがいないの』
5分じゃ済まない事は確かだった。
×
玄関を手荒に引き開けた途端、女性が腕の中に飛び込んできた。
「タカシさん、私、どうすれば」
「マチコさん、落ち着いてください。
母さんがいなくなったっていうのは確かなんですか?」
不安で潤んだ目がキッと自分の顔を見上げる。
「だって、ベッドにいないんですよ!?自分じゃ歩けないのに、、」
頭の中で”誘拐”の二文字が浮かぶ。
一瞬、呼吸の仕方を忘れそうになったが、ぐっと顎に力を入れて気を引き締めた。失神している場合じゃない。
「警察に連絡しよう」
「ダメ!もし誘拐だったらどうするんですか?警察に連絡した時点で犯人たちの気を損ねちゃったら」
続きは尻つぼみになってしまって聞こえなかったが、何を指しているかを理解するのには充分だった。
「じゃあ、どうしろと言うんだ」
そうしたい訳じゃないのに、彼女を責める口調になってしまう。
彼女は悪くない。
広い日本家屋の一軒家だ。家事をこなすには母につきっきりでいるわけにはいかない。
母の世話をする時は当然だが、その他に訪問者があった場合にだけは必ず傍にいる事はルールとして決めていた。
以前母の友人が相手が病人である事を考慮せず、長々と居座った挙句、手土産として糖類の高い菓子を持ち込んだ事からだった。
いい歳した大人が相手の家族に一言も相談なしにザラメがたっぷりついたカステラを持ってくるだなんて考えが足らないとしか思えない。
__脇に逸れてしまったが、とにかく母は動けないのだ。
用事があれば枕元のブザーを鳴らすだろうし、合間合間で様子を見に行きはするが、彼女がずっとそばにいる道理はない。
賊はその瞬間を狙ったに違いなかった。
「__とりあえず中に入りましょうか」
微動だにしない私に見切りをつけたのか、彼女は私の腕にそっと手を置くとそう促した。
×
一歩一歩、足を進める度に胃袋に重石を追加されている気分だった。
母の部屋には永遠に辿りつかない__ふと浮かんだ思考は馬鹿げている。
アキレスでもなければそんなことはあり得ない。そうではないのだ。心のどこかで辿り着きたくないと思っている。母がいなくなった現実を目にしたくないと、認知しなければまだ間に合うと。そんな逃避に執着している自分がいる。
家の中は静かだった。
当然、ベットは空で傍に置いてあった室内用の車椅子もない。
母がいた形跡はある。掛け布団が跳ねのけられていて、その下に小さなたわみがある。何の理由もなくただの感慨でそこにそっと手を伸ばして触れた。
___まだ、ほんのりと温かい。
急に腹の底から力が込み上げてきた。
「マチコさん!母を最後に見たのは何時ごろですか?」
突然活力を取り戻し勢いよく振り返った自分に彼女の目は丸く見開かれた。
「え、ええと1時に昼食をとって、それからお休みになったので2時前ぐらいかと、、」
記憶を手繰り寄せる様に斜め上を見上げる彼女を尻目に時間を逆算する。
腕時計は15時半を指している。
ここまでくるのに30分ほど。電話を掛けた時が、彼女が母がいない事を発見した時刻だろうから14時から15時の間に母は連れ去られたのだ。
まだ多く見積もっても1時間半しか経っていないじゃないか。
そうして気づく。__そうだ、センサーカメラ!
携帯のアプリを開いて該当の時間帯に照準を絞った。
通知が来ないと言う事は、嫌な考えだが母を連れ去った相手は登録者の中にいるかもしれない。
14時から15時の間を2倍速で再生した。
そして愕然とする。
「マチコさん」
「はい?」
後ろからどこか間の抜けた声が漏れた。
彼女にこの事実を伝えて大丈夫だろうか?もう十分心労を患っているのに驚きの余り気をやってしまわないだろうか?
だが、伝えない訳にはいかなかった。
「外に出ていない」
「え」
「母さんはこの家のどこかにいる」