主人
私は、人間として生まれてきました。主人の手、鉛筆、筆、絵の具、パレットの中の色によって、私というものが生まれました。普通の人間とは生まれ方は異なりますが、私が特別だっただけで、決して、私が人間などでないわけではなく、ただ、ただ私は、他の人と少し違っただけでございます。私は、きっと人間でございます。
そんな私の生みの親、主人は、とにかく温厚でありました。温厚、以外の何物でもないのです。それほどまでに彼は温厚でありました。私を描いている途中や、他のひとを描いている時であっても、描くのに集中しているでしょうに、友人が突然家に上がり込んだ際に、優しく穏やかな笑顔で彼らを迎えるのでした。あの、ひどく、ひどく落ち着く、そして和やかで柔らかい笑顔を私は今でも鮮明に覚えています。
ある日、主人が満面の笑みで帰宅をしてきた日がありました。なんということでしょう、私はその日から引越しをせねばなりませんでした。今のようなワンルームの家から、他のひとたちが沢山いるような広々としたところへ、です。しかもそこはよく見知らぬ人が沢山出入りをするところでして、私は正直、そこでやっていけるのだろうかと思いました。ですがそんな不安も束の間、すぐに慣れました。引っ越した当初は、主人が何度も顔を出してくださったんですが、そこから、段々と頻度が少なくなっていきました。最後に主人を見たのは…いつでしたか。それすら、覚えていません。私が生まれた時の主人とは異なり、最後会った彼は髪がとても白く、そして顔の皺が百本以上も増えていたような気がします。
そこからはもう、主人は私に会いに来なくなりました。どうしてでしょう。私の事に飽きたのでしょうか。嫌いになったのでしょうか。
その後も私は何度も何度も何度も何度も様々な「お家」を引越して、何度も何度も何度も何度も続く欠伸をしたくなる程の日々を繰り返し、次第に私は思考をやめるようになりました。