とある者達のやり取り
一寸先は闇、という言葉がある。
ほんの少し先のことでさえ何も予想できないという、幸国に伝わる例えだ。ならば闇より濃度を増したこの世界は深淵と呼ぶに相応しいだろうと、眼下を見つめる青年は唇の端を吊り上げる。
「オウマ、中の奴等は制圧した。あとはアナタの力だけ」
「分かった、ありがとう」
音もなく現れた少女にオウマと呼ばれた青年は応えた。
チャラチャラ服に着いた装飾品を揺らしながら近付く少女に視線は向けられない。黒髪を風になびかせ、丸眼鏡の奥から覗く藍の瞳はただただ闇を見つめていた。促すように少女が声をかければ、オウマは返事の代わりに立っていた場所から飛び降りる。
ぽっかり開いた闇の口へ飛び込むような感覚。永遠とも思える刹那の時間は、すぐさまオウマの足に衝撃を与えることで終わりを告げた。思った以上に高さはなかったらしい。上を見上げれば同じように飛び降りた少女がスカートを押さえているのが見える。
「スケベ」
「ふふ」
そんな他愛のないやり取りも闇の前では即座に消えていく。
道も標もない闇の中を進んでいくと、唐突に『裂け目』が現れた。
空間に真一文字に切れ込みが入った、裂け目としか言い様のない状態だ。それはオウマ達が近付くと目蓋を開けるように広がり、無言で彼等を迎え入れる。裂け目の向こうにはぼんやりと薄明かりが見えており、それを確認したオウマは躊躇いなく身を割り込ませた。
薄い水膜を抜けたような感覚に陥るのも束の間、世界は唐突に光によって照らされる。
「あそこ」
オウマを見るなり長身の男が声を上げた。
アガットの瞳を細める男の他にも複数の男女がその場におり、それぞれの表情でもってオウマを見つめている。そんな彼等の顔を一人ずつ見つめ返したあと、オウマは最後に光の中心へ視線を向けた。
目の前に佇むのは大きなガラスの筒だ。金属製の蓋で上下をしっかり閉じられている筒の中には鏡が浮遊している。不思議なことに、世界を照らす光はその鏡から放たれていた。
ところどころ欠けたりヒビが入っていたりと、見た目はお世辞にも宝と呼べない代物だ。静かに浮遊している鏡を見るなり、少女は形の良い眉を訝しげにひそめる。
「これが……?」
「神骸。かつてこの世界を作りし創造神が落とした欠片であり、この世に酸いも甘いももたらす魅惑の遺物さ」
「知っているわ。ただ、見たことがなかっただけ」
少女はムッとしたように言い返した。そして、それを証明するかの如く流暢に言葉を紡ぎ始める。
神骸――それはかつて創造神がこの世界を作った際に落とした遺物だ。
各地に散らばるそれ等には世界を構築するほどの強い生命エネルギーが内包されており、一度手にすれば一国をも築き上げるほどの力を得られるという。現にここシキ大陸に点在する各国の存続は、この神骸によって成り立っているといっても過言ではなかった。
しかしながら有り余る力は時に破壊を生み出すのもまた定石。そのため各国は神骸を厳しく管理し、水面下で奪い合いを繰り広げているのである。
目の前に浮遊している古びた鏡もまた、その渦中にあったいわく付きだ。
てっきり豪奢な物かと思った。そう呟く少女に対し、オウマは肩を竦める。
「文字通り『遺物』だからねぇ、神話時代から残っている物がそれこそキンキラキンだったら偽物だろう?」
「本当に持っていくの? 役に立つとは到底思えない」
イエローの瞳が神骸からオウマへ向けられた。
瞳は納得できる理由を求めているが、映る横顔は優しい微笑みを浮かべているだけ。ともすれば己が子を見守る保護者のように神骸を見つめるオウマから目を逸らし、少女は小ぶりな唇から溜息を溢す。
「骨董品として飾っておくこそすれ、使うなんて現実的ではない。私の理論からは外れている」
「物の本質は使ってこそ発揮されるものさ。使い方を誤ればこの世は地獄よりも恐ろしいものと成り果てるが、正しく使えば高天原の如く清らかで美しい世界へと生まれ変わる……だが残念ながら彼等は器ではなかったようだ。とく早く回収するとしよう」
「そう思うならさっさとやって。私には『じごく』とやらも『たかまがはら』とやらも分からないんだから」
「あぁ、そうだったね。どちらも和国の言葉だから」
オウマが近付くと鏡は光を強めた。少女は身構える。が、それも一瞬だ。何故なら鏡はまるで確かめるようにゆっくりと光を瞬かせたから。対してオウマも軽く両手を広げており、懐かしい旧友に再会した仕草のようだった。
その場にいた誰もがやり取りを見守るなか、オウマは手を伸ばしガラスの筒へ触れる。刹那、派手ながら楽器のような美しい音を立ててガラスの筒は粉々に砕け散った。
支えを失ったかのように光を失い、鏡はゆっくりと落下する。しかしながら地面に落ちるその前に伸びた掌が、今にも壊れそうなほど古びて脆くなったそれを丁寧に受け止めた。
待ち侘びていたその時がようやく来たと言わんばかりに収まった鏡の神骸を、オウマは胸の前で抱き締める。
「おかえり、迎えに来たよ」
その言葉を理解する者はこの場にいない。きっと何処を探してもいないだろう。
ただ一つ。この日、物語は確かに幕を上げられたのだ。
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