【あんひふえふ】
突如、扉を開こうとしていたアズールの部下たちを吹き飛ばす形で現れた魚類の竜化生物──〝彩鯉竜〟。
言うまでもなく水棲かつ鰓呼吸であり、それこそ迷宮内の殆どが水で──正確には淡水で埋め尽くされていなければ生きていく事さえ不可能な種であるが。
どうやら、この迷宮に関しては問題ないらしい。
何故なら彩鯉竜が飛び出してきた扉の向こう側には、まるで現世と幽世を分かつかのように淡水の壁が生成されており、その事から迷宮内の殆ど、もしくは全てが淡水で支配されているという事が解るからだ。
『CAAAAAAAAAAAAARPッ!!』
そして今、迷宮を彷徨う者に分類されるこの彩鯉竜は淡水の壁を突き破りつつ眼前の人間に対して斜めに噛みつこうとし。
「ユニ殿、回避を──」
大臣たちはともかく、女王に関しては己より強いのだから正直あまり意味はないと解っていても護衛の身である事に変わりはない為、そう叫んでやる事しかできないアズールからの警告に。
「……迷宮を彷徨う者程度ではね」
『FIッ!? CAA……ッ!?』
「馬鹿な、指だけで彩鯉竜の突進を……!?」
誰に聞かせる訳でもない無関心な呟きとともに両腕を前方に出したユニが、あろう事か両手の人差し指と中指を合わせた計4本の細長い指で、ギラギラと凶暴極まりなく上顎と下顎に生え揃った牙を1本ずつ挟んで止めてしまった。
体格はもちろんの事、体重差も比較する事さえ馬鹿らしくなるほどである筈なのに、1人と1匹の鍔迫り合いで苦悶の声を上げているのは1匹の方。
この個体のLvは85、迷宮を彷徨う者としては上の中と言っても過言ではない充分すぎるほどの強敵である事は疑いようもないが、どうしようもなく相手が悪かったとしか言えない。
これが、単なる迷宮を彷徨う者とSランク狩人の差。
……しかし、彼にも──どうやら雄らしい──竜化生物としての意地があり、そして誇りがあったようで。
『〜〜ッ!! FIIIIAAAA……ッ!!』
「!! おいヤベェぞ、息吹が──」
嘗められたままでいてたまるか、そう主張せんばかりの低い唸り声とともに喉の奥にある息吹袋へMPの充填し出した事に気づいたサベージが、いち早く前に出ようとしたその時。
「──【通商術:倉庫】」
「あれは──……【扇】? まさかアレを?」
「そのまさかやろね」
そう呟いたユニの頭上に小さな亜空間が出現し、そこから音もなく落ちてきた派手な装飾も何もない、ただただ頑丈そうな鉄製の【扇】の要、つまり持ち手の部分を口で咥えたのを見たファシネとウェルスはユニの狙いを理解する。
『CAAAAAAAAAAAAARPッ!!』
「皆様、私の後ろに──」
そして、ついに解き放たれた息吹は迷宮を彷徨う者とはいえLv85相応に凄まじく、アズールが女王はもちろん前に出ようとしたサベージも含めた大臣たちも護ろうとする中、ユニは【扇】を咥えたまま首だけを軽く動かし。
「──【あんひふえふ】」
『ッ!?』
「息吹が、跳ね返──」
咥えたままなせいで舌足らずな感じになってしまってこそいたものの、その赤子みたいな発音とは裏腹に洗練されたMPの込められた技能が発動した瞬間、真っ直ぐユニへ向かっていた筈の息吹が勢いをそのままに反転、息吹を放った張本人である彩鯉竜の方へ飛来していき。
『FI、FIIッ!? CAAAAARP……ッ!?』
ぽっかりと口を開けたまま、そして牙を掴まれている為に回避する事さえ不可能な状況で己の息吹を直に受ける事となった彩鯉竜は、大した抵抗もできず息吹の衝撃でバラバラの肉片となりながら淡水の壁の向こうへと吹き飛んでいき。
『CAA! AARPッ!!』
『FIIIIISH!!』
「「……ッ」」
その肉片に他の迷宮を彷徨う者たちが我先にと群がり、かつて同族だったものの骨肉を容赦なく喰らう凄惨な光景に戦々恐々とするアズールの部下たちに対し。
「閉扉せよ」
「「……」」
「……余に2度も言わせるつもりか」
「「ッ! は……はッ!」」
表情にも声音にも全く以て揺らぎがないヴァリアンテの命令を、あろう事か恐怖と驚愕から聞き逃してしまった部下たちのせいで僅かな苛立ちを覚えた女王の威圧を感じ取り、ようやく重い腰を上げた彼らは即座に扉を閉め、厳重に鍵を掛けた。
「……今のは、【扇】の技能ですか?」
施錠中、相も変わらず女王と並ぶ無表情を貫いていたプレシアからの、あまり狩人の事情には興味がなさそうな無関心極まりない質問に対して。
「……【扇操術:逆風】。 竜化生物の息吹を反射する事にのみ特化した突風を起こす、【扇】の防御系技能だ」
「【通商術:倉庫】から取り出したんも肝やなぁ。 あん技能を使うたいう事は──……ユニはん今、商人なんやろ?」
「ん? あぁ、そうだよ。 最初は錬金術師だったけどね」
「非力な商人で、あの巨躯を受け止め続けて……?」
サベージが答えた技能の名と効果に補足する形で、およそATKやDEFに関しては最弱クラスと言っても差し支えない商人に転職した状態で、あの彩鯉竜を指4本で〝それ以上は進ませないように〟、そして〝この場から逃がさないように〟捕まえていたのだと知って、プレシアは再び認識を改めていた。
やはり、Sランク狩人とは皆──〝怪物〟なのだと。
「【最強の最弱職】、現状把握は済ませたな? これより貴様には、この迷宮の踏破に単独で当たってもらう。 処罰ゆえというのもあるが、そもそも貴様への半端な助力は〝枷〟にしかならんだろう?」
「……そうだね。 それじゃ、さっそく──」
そして、この場での話を終わらせにかかるべく1歩前に出たヴァリアンテからの、〝枷〟というユニにとってはある種の〝呪い〟とも呼べる単語を加えた命令に、ユニは僅かに眉を顰めながらも扉の方へ視線を向けようとして。
ぴたり、と身体の動きを止める。
まるで今この瞬間、何かを思いついたかのように。
「あー……ねぇヴァリアンテ、ここ潜るの明日でもいい? 時間がないのは解ってるんだけど、ちょっと準備したくてさ。 駄目かな?」
「いや貴女それ、どの立場から物言って──」
それから実に約3秒、考えを纏めたらしいユニの口から出たのは火急の要件だと承知の上での『明日にしてもいい?』という理外の繰り下げ要求。
そんなの通る訳がない、いや通ってたまるかという不平不満を込めに込めたファシネが苦言を吐き捨て終えるよりも早く。
「……好きにしろ」
「ふふ、ありがとう」
「……ふん」
完全なる独断でユニの〝お願い〟を受け入れたヴァリアンテに対し、ユニが人当たりの良い爽やかな笑みで以て礼を述べ、そんな彼女を一瞥したヴァリアンテは無表情ながらもどこか満足げな様子で踵を返し。
「え、ちょ、えぇ……?」
てっきり断るかと思っていたファシネを筆頭に、4人の大臣たちは困惑したり苦笑したり呆れたり諦めたりしつつも、その後をついていく事しかできなかった。
……その為、誰1人として気づけなかったのだ。
「……ッ」
アズールが、思い詰めたような表情を浮かべている事に。