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夢を描く道にあるもの  作者: 浅井基希
1/1

夢を描く道にあるもの(1)

数年前に書いたものですので、今の自分が読み直すと(今現在もまだまだ至らない身ですが)至らない部分も多いです。

しかし、その時にしか書けなかったパッションがあるなあと思います。


手直しは最小限にしました。

いつかしっかりとブラッシュアップしたいです。


少しでも楽しんでいただけたら幸いです。


続編もあるので、ご要望があればまた更新します。

(1)

 ――春。


 新入学や新入社の季節――それなりに多くの人が転機を迎えて新生活を始める街――東京の一角で、本山紗貴(もとやまさき)は新生活に心を躍らせていた。

 地元の大学を無事に卒業、学生時代に誘われて入った演劇サークルで、役を演じることの楽しさを知った紗貴は、本格的にその世界に入りたいと上京してきた。

 親には上京を反対されたので仕送りは勿論ない。

 生活は苦しくなるだろうが、夢を追えることのほうが紗貴には楽しいし嬉しい。

 小規模だけど、それなりにドラマや映画に出ている役者が複数所属している劇団にも入れたので、スタートは遅いかもしれないが、まだ望みはあると思っている。

 生活のためのアルバイトも決まり、初出勤の朝、玄関のドアを開けて廊下に出ると、丁度隣人も出てきたところだった。

「あ、おはようございます」

 近所付き合いは大事だ。紗貴は自分から率先して挨拶をした。

「おはようございます」

 隣人――五嶋悠佳(ごしまはるか)――は、ふわりと笑って答えてくれた。

 引越しの時に一応挨拶はしていたが、こうしてドア越しではない挨拶を交わしたのは初めてだ。

「これからお仕事ですか?」

 スーツ姿の悠佳を見てそう言った。リクルートスーツではないし、多分紗貴より年上だろう。

 スラッとしてて、スーツも似合っていて、格好いい大人という感じの人だ。

「ええ。本山さんは大学ですか? っていうか大学生?」

 ジーンズにカットソーというカジュアルな姿を見て、悠佳がそう訊く。

「大学は卒業したばかりです。今日はバイトが決まったので初出勤なんです」

「それは、おめでとうございます。この辺り学校が多いから学生さんだと思ってた」

 悠佳が笑った。好感の持てる人懐っこい感じの笑顔だと思った。


「駅前のスーパールーナってところで――」

 悠佳が駅まで行くというので、紗貴も一緒に世間話をしながら歩いていた。

「ああ、良いところ見付けたね」

 ニコニコと笑いながら悠佳が言った。

「良いところなんですか?」

「私も一時期バイトしてたことあるんだけど、優しい人が多いよ。あとオマケがある」

「オマケ?」

「それは部外秘だから自分の目で確かめて」

 悠佳はまた可愛く笑う。

「こっち入ると駅までの近道。大通りまで出なくても、結構便利で安全。途中にコンビニもある」

「参考になります」

 地元の人ならではの情報までもらえた。今度、時間がある時に探検してみようと思った。


「それじゃあ、初出勤頑張ってね」

 駅前に着いて、悠佳が軽く右手を挙げて手を振る。仕草が可愛い人だなと紗貴は思っていた。

「はい! いってらっしゃい」

 同じく手を振り返しながら紗貴は悠佳を見送る。

「わー」

 悠佳がその場に立ち止まって感激といった感じで、呟いた。

「? どうしたんですか?」

「『いってらっしゃい』ってしばらく言われてないなーって。なんか新鮮な響き」

「そうなんですか? 私で良ければ何度でも言いますよ?」

 その言葉を聞いた悠佳は嬉しそうに笑っている。

「ありがとう。行ってきます」

 悠佳は改札口に向かって歩いて行った。



(2)

 紗貴のアルバイト初日はいきなりレジ作業を任された。

 トレーニング用のレジで一時間ほど商品を通す練習をしてから、ベテランパートのサポート付きで実戦配備というスピーディーさだ。

 コンビニでのアルバイト経験が活きたのかもしれないと思っているが、なんでも役に立つことがあるのだと、紗貴は改めて実感していた。

 自動釣り銭の分こちらのほうが楽かもしれない。だけど、バーコードを通す品数はスーパーのほうが断然多い。あと、五キロ、十キロの米や二リットルのペットボトルなどの重い商品が多い。住宅街が近くだとまとめ買いの人も多いので尚更だ。

 近隣で人気の食品スーパーなので、五時間のアルバイト初日は次々にやってくる客を捌くので精一杯だった。


「お疲れ様です……」

 紗貴は午後からのシフトの人と交代をしてからバックヤードに戻る。

 釣り銭などの引き継ぎはまた明日ということらしい。

「あら、疲れてるねーお疲れ様」

 今日一緒にレジに入ってくれたベテランパートが笑顔で労ってくれる。

 サポートしてくれている間も優しい物腰で、頼りになって、癒やされる感じの人だった。

「コンビニと違って人数が多いので慣れるまでが大変そうです」

「二週間もしたら慣れるよー」

 同じ時間帯の他の人も口々に労いの言葉をかけてくれる。

 悠佳の言っていたように優しい人が多いなと思った。

「あ、本山さん。お疲れ。これ、今日の新人さん歓迎ボーナス」

 バックヤードに戻ってきた店長がそう言って手渡してくれた物は、明日で消費期限切れになるいなり寿司のパックとパッケージが破損して剥がれかかったお茶のペットボトルだった。

「え? え?」

 いきなりいなり寿司を渡されてもどうしろと――

「ホンマは廃棄せなあかんけど、中身は大丈夫やのに勿体ないやん? おやつにでも食べ? でも、従業員だけの秘密な?」

 本社のある大阪から転勤してきたという五十代半ばの店長は、そう言うとニヤリと笑う。

 その言葉で、これが悠佳の言ってたオマケなのだと紗貴にはすぐにわかった。

 コンビニでは全て廃棄――それも徹底的に――していたものだ。

 紗貴はそれを常々勿体ないと思っていたのだが、ここでは比較的自由らしい。

 色々と節約しなければならない紗貴にとってはこれ以上ないボーナスだった。

「わかりました。ありがとうございます」

 紗貴が喜んで礼を言うと、店長は「大袈裟だ」と笑っていた。

「また明日もよろしくね。お疲れ様」

「はい。お疲れ様です!」

 今朝の悠佳も、アルバイト先の人たちも皆、優しくていい人ばかりだ。

 紗貴の新しい生活の幸先はとても良いものだった。



(3)

「はーい」

 紗貴が夕飯の準備をしようとしていたら、玄関のチャイムが鳴ったのでドアを開けて出た。

 そこには悠佳が居た。スーツ姿のままなので仕事帰りだろうか。

「あ、五嶋さん」

「もーすぐにドア開けるのは不用心だよ? まずは開けずに用件を聞くこと」

 悠佳が少し困ったような顔でそう言った。

「あ……ごめんなさい」

 言われてみれば不用心だった。一人暮らしになるとこういうところも気を付けないといけない。

「あ、その、怒ってるわけじゃなくて心配で……ごめんね?」

「そんなこちらこそ――注意してもらえて良かったです」

 悠佳が謝る話ではない。紗貴は慌ててフォローする。


「あ、そうだ、こんな話をしに来たんじゃなかった。ケーキ食べる?」

 少し気まずい空気の後で、本題を思い出したように悠佳が紗貴に訊いた。

「ケーキ……?」

「バイトが決まったお祝いにと思って。安いやつだけど一緒にどう?」

 悠佳はケーキの入った箱を持ち上げて見せる。

「いいんですか? ありがとうございます!」

 今日は良いことが多い――と紗貴は思った。

「よし、食べよう。どっちで食べる? こっちの部屋に来る? 紅茶ならあるよ」

「じゃあ、お邪魔します。うちまだ段ボールだらけなんです」

「はーい。ようこそ」


「――へえ、じゃあ本山さんは役者さんになるために上京したのかー。もう事務所とか入ってるの? ってそれだけ可愛いとスカウトとかされてるか」

 悠佳の部屋で、紗貴は淹れてもらった紅茶とケーキを味わいながら、自分が東京に来た理由を軽く説明していた。悠佳は興味津々で耳を傾けてくれている。

「一応小さいんですけど実績のある劇団には所属できました。あと、可愛くなんかないですよ」

 紗貴は慌てて小さく首を振る。褒められるのは、恥ずかしい。

「謙遜しなくていいよ。可愛いもん。スタイルもいいし、磨けば光るタイプ」

 悠佳は少し離れた位置から紗貴を眺めて、真面目な顔でそう言った。

 打ち解けてきたのか、朝とは悠佳の口調も違って親しみやすい感じになっていた。

「そんな……じゃあ、自分磨き頑張ります」

「うん。絶対可愛くなるよ」

 ケーキを食べながら悠佳が笑う。とても感じの良い笑顔の人だと思った。

「あ、そうだ、五嶋さんの言ってたオマケがわかりました」

 紗貴は褒められた恥ずかしさをなんとかしたいと、思い出したように話題を変える。

「お、早速恩恵に預かったんだ。上手く貰えたら食費も浮くんだよね」

 悠佳は悪戯っ子のように笑った。

「ラッキーですよね」

「いい所でしょ? 時給もいいし」

「です。正直そこが決め手だったんですけど」

「あはは、わかりやすい」

 いいことだ――そう言って悠佳は笑っていた。


「でも、夢を追うっていいよね。私も上京した時はそんな感じだった。楽しいよね」

 ケーキを食べ終わって、紅茶を少しずつ飲みながら悠佳が言った。

「五嶋さんも何かやりたいことがあるんですか?」

「私は、絵だったなー」

 そう答えた悠佳は何処か遠い目をしていた。

「『だった』って今は描いてないんですか?」

 悠佳の懐かしそうな口調が気になって、つい踏み込んだ質問をしてしまった。

「ん? そういう関係の仕事には就いてるよ。デザインのほうだから少し違うんだけど」

「でも、デザインも絵を描くお仕事――ですよね?」

 イメージとしては似たような感じだと紗貴は思ったのだが――

「そんなことないよ。デザインは――設計図に合わせて家を建てる感じだけど、私が描きたい絵は設計図なしで自分の好きなものを好きなようにして家を建てるみたいな」

 悠佳はあくまでも個人の感想だけど――と付け加えた。

「夏休みの決まった宿題と自由研究の違いみたいな感じですか?」

「上手いこと言うね。似たような感じかも。その自由研究が先生には認められないみたいな」

 そう言って悠佳は苦笑している。

 決められたものを描くより、好きに描けるほうが楽しいのは紗貴でも理解はできる。

「でも、いつかは――自由研究を認められたいですね」

 自分にも言い聞かせてるような紗貴の言葉だった。

「そう――そうだね。認められたい。お互いにね」

 悠佳はそれを優しく受け取ってくれた。


「今日はごちそうさまでした。おやすみなさい」

 紗貴は美味しいケーキと紅茶を堪能して、自分の部屋へと戻る前に悠佳にお礼を言った。

「わー」

 悠佳が何か感激している。

「どうしたんですか?」

「『おやすみなさい』ってしばらく言われてない……ってなんかこの会話デジャヴだ」

「朝も言ってましたね。私で良ければいつでも言いますよ?」

 紗貴が笑いながら答える。

「『おやすみ』は家族と恋人以外にはそんなにしょっちゅう言わなくていいかもよ?」

「……そういうものですか?」

「うん。多分ね。おやすみなさい」

 悠佳は笑って送り出してくれた。


「恋人かあ……」

 自分の部屋に戻った紗貴は独りごちる。

 紗貴は今までに恋人が居たことがない。告白は何度かされたが、その人と付き合うまでの関係性には進展しなかった。友情以上の好きになれなかったのだ。

 恋をすれば自分の演技にも深みが出るのだろうか――ああ、いけないそうじゃない。なんでも演技――というか自分の役に立つことかどうかに繋げるのは良くない癖だ。

 それに今は、自分の夢を追いかけなくては――そう思った。



(4)

 翌朝、紗貴がアルバイトに出ようとしたら、また家を出てくる悠佳と玄関先で出くわした。

 どうも悠佳は大体この時間に出勤するようなのだが、服装が昨日のスーツと違い、カジュアルなジーンズに春物の薄手のジャケットを着た姿だった。

「おはようございます。今日はスーツじゃないんですね。お休みですか?」

 紗貴は昨夜のケーキでだいぶ悠佳と打ち解けていたので、挨拶の他に軽い世間話をプラスすることができた。友人とはいかないまでも、親しい顔見知り程度にはなれていると思う。

「おはようー。昨日はプレゼンがあったから珍しくスーツ。普段はカジュアルだよ」

「じゃあレアな姿を見られたんですね」

「そうだよーすっごいレア。ラッキーになれるかも」

 悠佳はジャケットの襟を軽く整えながら、少し得意げにしている。

「じゃあ毎日着てくださいよ。似合ってましたし、昨日は良いことばかりでした」

 上京する前は両親から散々都会には注意するようにと言われたのだが、仕事場、隣人――昨日の出来事を思い出しても、何一つ都会の洗礼を受けていないと思う。

 それでも、注意するに越したことはないので心得るようにはしているけれど――

「ええースーツ堅苦しいんだよね……気は引き締まるんだけど」

 悠佳は困ったように笑っている。

 駅までの道を二人で歩きながらの他愛ない話が紗貴にはとても楽しい。


「あ、いってらっしゃい!」

 駅前に着いて、紗貴が昨日と同じように悠佳に手を振った。

「ありがとう。いってきます」

 悠佳が嬉しそうに笑って、可愛く手を振り返している。

 ――今日も、良い一日になりそうだと紗貴は思った。



(5)

 紗貴はスーパーでのアルバイトも順調にこなし、今度は消費期限が切れそうになっていたおにぎりセットを貰えた。今日はこれから劇団の稽古があるので、昼食に丁度良い。

 悠佳が「食費が浮く」と言っていた意味を二日目にして実感していた。

 決して余裕のある暮らしではない紗貴にとっては、とてもラッキーなことだった。


 劇団での稽古はまずは顔合わせといった感じだった。

 同期は紗貴を入れて男女二人ずつの四人。そのうちの一人、嶋木圭(しまきけい)は既に雑誌の読者モデルとして世間に少し名を知られた存在だった。

 挨拶での第一印象も爽やかな好青年――といった感じだろうか。

 劇団内でも同期の中で頭一つ抜け出している存在として、認識されていた。

「えー、まずは秋の初め頃に新人を主演に据えた舞台公演の予定があるので、自分がいつ主役になっても良いという意気込みでお願いします。全員がライバルです。覚悟を決めるように」

 演出家兼俳優の先生が、新人たちに向けて厳しい表情でそう伝えていた。


「全員がライバルだから覚悟を決めろ。か……」

 稽古翌日の夜、悠佳が「会社の人が出張してきた」という九州のお土産を持ってきてくれたので、今度は紗貴の部屋でお茶を一緒に楽しんでいた。

 部屋にはまだ解いてない段ボール箱が何個かある上に、段ボール箱をテーブル代わりにしているが、悠佳は全く気にせず「むしろ新鮮だ」と言っていた。

 そんな中で、昨日紗貴が言われた言葉を悠佳に伝えたところだった。

「仲良くできたらなーとか思ってたんですけど、覚悟って言われると……」

 お土産を頬張りながら紗貴が言う。

「大学のサークルとは違う、社会の厳しさみたいなのって直面すると結構辛いよね」

 お茶を飲みながら悠佳が返す。少なくとも、悠佳は紗貴よりもこの街と社会での経験値が違う。そんな悠佳の言葉は何処か諦めを含んだ口調だった。

 紗貴にはそれがまるで、そういうものだと割り切って生きている人の答えのような気がした。

 悠佳も何か――似たような経験があるのだろうか。

「でも、頑張らないとですね……あと、別に仲良くするなとは言われてないですし」

「あはは、そこ盲点だったね」

 悠佳が一瞬虚を突かれたような顔をしてから笑いだした。

「二、三日の付き合いしかないけど、そういうの本山さんっぽいね」

「――そうですか?」

「こう――真っ直ぐ突き進め的な?」

 そう言うと、悠佳が紗貴の目の前にゆっくりと拳を突き出した。

「当たってるかも……」

 紗貴が上京した理由も、夢を追いかけるためというのもあったが、地元で感じてた見えない閉塞感から少しでも前に進みたかったからだ。悩むよりは進みたい。紗貴はそんな人間だった。

 ほんの数日のやり取りをしただけでも、相手にそれがわかってしまうほど自分は単純な人間なのだと思うと、少しだけ複雑な気分ではあるが。

「でしょ?」

 悠佳は手を下ろすと得意げに紗貴を見る。

「突き進んで頑張ります」

 さっきの悠佳の手振りを真似して、紗貴が力強く答えた。

「うん、程々にね。応援してる」

 悠佳は優しい微笑みでそれを見ていた。



(6)

 ――初夏。


 紗貴の新生活も落ち着いて、アルバイトも順調、劇団での稽古も――まだ、本格的な演目には入っていないので基礎の体力作りと発声練習が主だったが、それなりに順調にこなしていた。

 同期ともそこそこのコミュニケーションである程度は仲良くなった。

 アルバイトで朝のシフトが入っている時は、大体玄関先で悠佳と出会うことが多く、一緒に駅までの道程を雑談しながら歩いたりする。そんな時間も紗貴にはまた楽しいものだった。

 夜には時折――週に一、二度――アルバイト先のスーパーで大目に貰った食品や、悠佳の職場のお土産を一緒に楽しんだりと、とても充実している日々が続いていた。


「秋の新人公演ですが、簡単に言うと『ロミオとジュリエット』のように禁じられた恋という感じを現代風の脚本で制作します。物凄くベタな話だけど、王道だからこその難しさもあります」

 稽古終わりのミーティング。演出家が台本を配りながら、新人たちの反応をうかがうようにして説明を始めた。

「劇団内オーディションは来週。一応新人を主役にする方向ですが、駄目なら新人以外――二年目や三年目の人からも選びますので、それまで台本を読んで各自イメージを膨らませること」


「オーディションか……思ってたけど厳しいね」

 隣に座っていた嶋木が溜息と共に紗貴に漏らした。その表情は苦笑いといったところだった。

「……うん。正直自信ない」

 紗貴が力なく嶋木にそう答える。紗貴は自分は元々競争には向いてないほうだと思っている。だけど、役者を目指している以上、切っても切れないものではある。

「俺もだよー」

「嶋木君はなんというか、一歩先を行ってる感じがする」

 確か嶋木はこの後も雑誌の取材が入っていると言っていた。SNSでもフォロワーは増える一方、耳が早いファンが稽古場で出待ちしていることさえある。

 同じ劇団の若手や同期の女子が妬まれては困るということで、稽古場以外ではできるだけ仲良く話をしないようにというお達しまで出ていた。なんでも劇団始まって以来のことだそうだ。

 ちなみに、嶋木には彼女が居るが、それも伏せなければいけない事態にまでなっていた。

「そうかな?」

 嶋木は首を傾げているが、紗貴にとっては嶋木はもうスポットライトの中に居る存在だ。

 きっとこの人は、上手く夢を掴めるのだろう――

 同じ劇団の同期とはいえ、雲泥の差があるなと紗貴は思った。

 ――今の生活が決して嫌なわけではないけれど。現状に甘んじていたくもない。



(7)

「オーディションか。劇団内でも大変な競争なんだね」

 半ば恒例になった悠佳との夜のお茶会のような場所――またもや紗貴が弱音を漏らしていた。

 悠佳の部屋で、おいしい紅茶を飲みながら、お土産の赤福一箱もあるという豪勢なものなのに、楽しい話題ではないのが少し残念でもある。

「自信がないです……」

 今回の公演が新人を優遇するものだとはいえ、自分が主役になれる可能性があるのは、多分この数年ではこのオーディションだけだと紗貴は思っている。

 それだけ厳しい世界だというのは、この数ヶ月の劇団の稽古で悟っていた。

「んー。そうだ、これ見て。頑張ってる紗貴さんに触発されて、久々にガッツリ描いたんだけど」

 悠佳がB5ノートくらいの大きさのスケッチブックを取り出して広げ、紗貴に渡して来た。

 そこには都会の無機質なビル群と、それに対比するように青空が描かれていた。

 ビルは窓まで細かく描き込まれていて、空の青さは何処までも遠くに抜けるような色――

 絵のことはわからないけれど、紗貴が一目で気に入るくらいに引き込まれる絵だった。

「……綺麗。これ悠佳さんが描いたんですか?」

 二人はいつの間にか名前で呼び合うようになっていた。

 お互いにそっちのほうが気楽だという感想だったので、すんなりとそう呼ぶようになったのだが、距離が近くなった気がして嬉しいと思える。

「そう。こんなのもあるよ。良かったらあげる」

 悠佳がページを何枚か捲って、差し出したそこには――

「これ、私ですか? 似顔絵?」

 紗貴の顔がシャープなタッチで描かれていた。

「そう、ちょっと漫画風のデフォルメ入ってる」

「私こんなに可愛くないですよ」

 特徴を捉えて、良く似てるとは思うけれど、紗貴には少し美化されているように思える。

「そうかなあ……? これくらい可愛いと思うんだけどな」

 悠佳は似顔絵の描かれたスケッチブックと紗貴を交互に眺めて首を傾げた。

「……そうですか?」

「うん。君はこれくらい可愛いし、こんな風に誰かに対しての影響力もあるんだから、もっと自信を持ちたまえ」

 もう一度、スケッチブックを紗貴に渡して自信満々で悠佳が言った。

「なんですかその口調。でも、ありがとうございます。凄く素敵な絵だと思います」

 紗貴はまたその絵を眺めていた。

 悠佳には、自分がこう見えているのかと思うと少しくすぐったい気もするけれど、何処か嬉しい。それに、この絵を描くきっかけが紗貴だと言ってくれたことも、大事にしたいと思った。


「……私も諦めないで描こうかな」

 嬉しそうに絵を眺めていた紗貴に向かって、悠佳が独り言のように呟いた。

「諦めてたんですか?」

 こんなに素敵な絵が描けるのに勿体ない――紗貴は思う。

「うーん。今までこんな夢とか話すと大体馬鹿にされてたから――」

「えっひどい。人の夢を馬鹿にしちゃ駄目ですよね」

 紗貴は食い気味に返す。

 現実が厳しいのはわかっているけれど、誰にも、他人の夢を馬鹿にする権利はないのに――

「……紗貴さんは、いい子だね」

 少しの沈黙の後にそう言った悠佳の目から、少しだけ涙が溢れていた。

「あ、え、悠佳さん? 大丈夫ですか?」

 あまりに突然だったので、紗貴は慌てて涙を拭っている悠佳にそう言うことしかできなかった。

「はは、久々に優しいこと言われたからつい。ごめんね。ビックリさせちゃった」

 悠佳はすぐにいつもの調子を取り戻す。悠佳のように、そうやって、この街で生きている人がどれだけ居るのだろうか――それを考えると紗貴の気持ちは何処かやるせない気分になる。

「さあ、今日はもう遅いからもう終わり」

 紗貴の気分を察してか、悠佳が明るく切り出す。

 今日はこのままでいてもきっと暗くなるだけだ。悠佳の空気の読み方には感心させられる。

「はい。おやすみなさい」

 紗貴も素直にそれに従う。

「おやすみなさい。また明日」

 悠佳はいつもの笑顔に戻っていた。


 紗貴は自分の部屋で、悠佳から貰った自分の似顔絵を見ながら、しばらく考え事をしていた。

 悠佳からは幾何かの勇気を貰えたけれど、正直な所、まだ不安が残っている。

 考えないようにすればするほどそれは大きくなって、紗貴にまとわりつく。

 それに悠佳の涙――

「夢を叶えるって自分が思ってるより、もっと大変なのかな……」

 ――それでも、掴みたいと思った。まだ朧気でしかないけれど、いつか、掴みたい。

 それには、前に進むしかない。元々自分はそういう性格だ。

 紗貴は似顔絵を一番よく目に入る場所に飾り、台本のチェックを始めた。



(8)

 あっという間にオーディションも済み、今日が結果の発表だった。

 皆真剣に挑んでいたし、紗貴もできる限りの全力を出したけれど、やはり結果が怖い。

 しかも劇団員ほぼ全員の前での発表――ある意味何かの判決に近いかもしれない。


「えー新人公演ですが、オーディションの結果主演が嶋木圭。ヒロインに本山紗貴ということで」

「――えっ!?」

 演出家の口から自分の名前が出てきて、紗貴は思わず驚きの声を上げた。

「本人が一番驚いてどうするんだ」

 思った通り、その場に居る先輩たちから冷静にツッコまれた。中には「よく通る声」と褒めてくれる人も居たけれど。

「すみません……」

 自分が通るなんて――全く予想していなかったと言えば嘘になるが、それでも嬉しい。

 夢への第一歩を確実に踏み出せたような感覚だった。

「脇を中堅とベテランが固めますので、存分に胸を借りるように。稽古は次回から。以上」


「本山さん、よろしくね」

 稽古が終わった後、嶋木が爽やかな笑顔で言う。

「こちらこそ、よろしく」

 紗貴は話をしながら稽古場の外へ出ようとしたのだが、先輩に慌てて腕を引き止められた。

「今日は嶋木のファンが出待ちしてるから――」

 つまり、誤解されるような行動は慎め――ということだった。

「そうなんですか? 困ったなあ……」

 それを聞いた嶋木が眉根を寄せていた。

 まだ本格的なデビューもしていないというのに、凄い人気だ。

「あ、ごめんね。それじゃあ、お疲れ様」

 紗貴は先輩とその場に止まって嶋木を見送ることにした。

「気を使わせてごめんなさい! 先輩もありがとうございます。お疲れ様です。お先です」

 嶋木が急ぎ足で稽古場を出て行った。しばらくして、外からは小さな歓声が聞こえてきた。

 同じ舞台には立つことになったけれど、まだまだ差が大きいなと紗貴は思った。



(9)

 紗貴が自宅マンションのエントランスに着いたら、悠佳がコンビニから買い物袋を下げて帰ってきたところだった。

「あ、おかえり。今日は稽古?」

「はい。今帰ってきたところです」

「お疲れ様。そういえばオーディションどうだった? 結果、今日だったよね?」

 自分達の部屋までの廊下を歩きながら、悠佳が尋ねた。

「一応……ヒロインになりました」

「おめでとう。凄いね。観に行きたいな」

 紗貴が思っていた通りに、悠佳が喜んでくれた。その反応に、何処か安心する。

「ありがとうございます。稽古はまだなんですけど、ご招待しますね」

 悠佳が「楽しみにしてる」と小さく笑った。


「では、おめでたいことついでに私も自慢します。はい、これあげる」

 悠佳が自分の部屋の前で立ち止まってコンビニの袋から取り出したのは、小さなミントタブレットだった。

 だが、紗貴が見慣れているいつものパッケージとは少し違っていて、夏ならではの小物が含まれたデザインのパッケージになっている。

「期間限定コンビニパッケージのデザイン案が採用されました。今日発売」

 そう言った悠佳は少し得意げな顔をしていた。

「え、じゃあこれ今コンビニに並んでるんですよね!? 凄いです!」

 誰もが手に取れる身近な商品に関われるなんて――他人事なのに嬉しい。

「ありがとう――私のほうは元々の目指してるものとは形が違うんだけど、何かを認められるって嬉しいよね」

「――はい。嬉しいです」

 紗貴は喜びを抑えきれないといった表情で笑う。

 お互いの目指すものは違うし、悠佳のほうは本来の夢ではないのかもしれないけれど、それでも、自分のやったことを認められるのはただ純粋に嬉しい。

「これからも頑張ろうね」

 紗貴につられたのか、悠佳も嬉しそうに笑っていた。

「頑張ります。あ、おやすみなさい」

「おやすみ」

 悠佳は小さく手を振って、自分の部屋に入っていった。


 今日は思いがけず良い一日だった――

 ベッドの中、眠りに落ちる前、紗貴はぼんやりと考えていた。

 劇団内のものとはいえ、オーディションもパスできて一安心――

 悠佳の件も――自分のことではないけど、とても嬉しいことだと思う。


 きっと、これからもこの調子で――


 紗貴はこれから本格的に始まる生活に心を躍らせて眠りにつくのだった。



(10)

 本格的に公演の稽古に入って半月――紗貴はアルバイトと劇団との間で忙しい日々を送っていた。それなりに著名とはいえ小さな劇団なので、舞台公演に向けての大道具や小道具、衣装などの準備も自分たちでやらなければならない。しかし、忙しくても充実はしていた。


 その日の紗貴は、朝目が覚めた時から少し調子が悪かった。

 紗貴が真っ先に思ったのは寝不足だった。だが、今日はアルバイトだけなので、帰ってきてからゆっくり眠れば大丈夫だと自分に言い聞かせて玄関のドアを出た。

「あ、おはよう」

 悠佳もドアから出てきたところだった。

「おはようございま――」

 紗貴は挨拶をしようとしたが、思っていたより駄目だ。頭がぼんやりする。

「大丈夫? って、危ない!」

 ドアノブにもたれかかりそうになった紗貴の身体を、悠佳が慌てて支えてくれた。

「だ、大丈夫です」

 悠佳の手が紗貴の額に当てられた。冷たい手が気持ちいい――

「熱あるじゃん――今日は休んで寝てなさい」

 紗貴は言われて初めて自分が発熱していたことに気が付いた。

「でも……バイト……」

「絶対駄目。あの店はちゃんとシフトとか配慮してくれるから。ほら部屋に戻って寝る」

「はい……」

 紗貴は悠佳に身体を支えられて部屋へと戻る。

「自分で連絡できる? あと、ちょっと待っててね」

 そう言うと悠佳が慌ただしく紗貴の部屋から出て行った、隣のドアが開く気配がする――それに何かを探すような音――壁はそんなに薄くはないのに、隣の音がいつもより聞こえる気がした。

 紗貴はとりあえずアルバイト先に今日は休む旨の電話をしたが、『仕事の心配をするのはこちらの仕事だから、自分の心配をしなさい』と言われた。

「はい。とりあえず薬とスポドリ持ってきた。これ飲んで私が帰ってくるまで寝てて。あと、これで頭冷やす」

 悠佳が手にしていたのは解熱鎮痛剤の箱と、よく冷えたスポーツドリンクのペットボトル二本――あと、凍った保冷剤だった。悠佳は一緒に持ってきていたタオルを保冷剤に巻き付けて紗貴の額に当てる。冷たくて気持ちいい――自分は本当に熱があるのだと、紗貴はその時に実感した。

 それにしても準備と手際が良い。熱で鈍った頭で紗貴は考える。

 一人暮らしなら当然に揃えておくべきものなのかもしれないけれど――駄目だ頭が回らない。

「……ごめんなさい」

 紗貴の口から出たのはそんな言葉だった。

「いいから、楽な格好に着替えて寝る。鍵は借りとくね? 帰ってきたら絶対来るから」

 そう言うと、紗貴が薬を飲むのを見届けてから、悠佳は仕事のために部屋を出て行った。

 紗貴はただ悠佳の言うことを黙って聞くしかできなかった。それだけ、今日は弱っていた。



 あれから――数時間は眠っただろうか。時計を見ると正午を少し過ぎたところ――目を覚ました紗貴の身体は少し楽になっていた。

 ぼやけていた紗貴の思考も少しずつはっきりとしてきたのだが、今朝の出来事を思い返すと、自分は本当に恵まれているのだなと思った。

 優しい隣人と、仕事場――おかげで大事にならずに済んだような気がする。

 あのまま無理をしていたら、少なくとも確実に仕事場の人たちには迷惑をかけていただろう。

 それでなくても、悠佳にはとても迷惑をかけてしまったのだ。そのことを考えると紗貴の目に自然と涙が溢れてくる。迷惑をかけたけど、居てくれて良かった。そんな狭間で心が揺れる。

 とりあえず、悠佳が帰ってきたら謝らなくてはいけないと思った。

 帰ってきたらだなんて――すっかり悠佳に頼り切ってしまっているけれど、それでも今はこれしか――紗貴はまた眠りに落ちた。



 夕方――玄関のドアが開く音で紗貴は目が覚めた。悠佳が帰ってきたところだった。

「――気分どう? 勝手に入ってごめんね。ちゃんと水分摂ってる?」

 悠佳はスーパーの袋からミネラルウォーターを取り出していた。

「あ、朝よりはマシです」

 紗貴は起き上がってそれを受け取る。

 不意に、悠佳の手が紗貴の額に当てられた。朝は冷たくて気持ちいいと思っていた悠佳の手が、今は暖かく感じる。それだけではなくて、優しい手だと思った。

「――熱も下がってるね」

 悠佳が笑う。安心しているような微笑みだった。

 紗貴はその笑顔を見て、胸が締め付けられるような気分になる。

 夕方だけど、カーテン越しのベランダの外の様子をうかがうと、まだ完全に日暮れではなかった。夏に近付いて日が長くなっているとはいえ――悠佳はいつもの時間よりも早く帰ってきてくれたということだ。

「……迷惑かけてごめんなさい」

 紗貴はここで自分が泣いてはもっと迷惑がかかると思い、必死で涙を堪える。

 でも本当は、泣きたいくらい嬉しいし、わがままだけどもっと甘えたい。だけど――

「迷惑じゃないよ。それより大したことがなくて良かった」

 謝る紗貴に対して、悠佳は少し困ったように笑っている。

「ごめんなさい――」

 これ以上謝れば、悠佳も困るだろう。それでも、紗貴には謝ることしかできない。

「もう謝らない。お粥で良ければ作ってくるけど、食べられる?」

「あ、はい。でも……」

「今日は、甘えておきなさい」

 悠佳に頭をそっと撫でられた。子供っぽいけど、くすぐったい気持ちになる。

 それに、心細さを見抜かれたみたいだと思った。

「はい……ありがとう」

 今の紗貴が謝る以外で言える言葉は、これしかない。

「うん――そっちのほうが嬉しいかな」

 その言葉に、悠佳が笑って出ていった。悠佳はいつも、優しさをくれる――


「味気ないかなと思って味噌と卵と青ネギを入れました」

 十数分後、悠佳が小さな片手鍋に作ったお粥――と言うよりは雑炊――を持ってきた。

 ミニテーブルに置かれた鍋からは食欲をそそるいい匂いがする。

「はい。熱いから気を付けてね」

 悠佳が中身を茶碗によそって、テーブルの前に座り直していた紗貴に差し出す。

「いただきます」

 紗貴はスプーンで一口分を掬い、十分に冷ましてから口に運んだ。

「……おいしい」

 不意に、紗貴の目からずっと堪えていた涙が出てくる。

 この涙は、雑炊の優しい味付けのせいだけではなくて、もっと他に――悠佳の優しさに触れたからだと思った。熱で弱っていた紗貴には、余計にそれがじわじわと染みる。

「……泣くほどおいしかった――私の料理もなかなかやるな。なんてね。紗貴さんは、真っ直ぐに頑張りすぎなんだよ。突っ走るのもいいけど、たまには休まないと」

 隣に座っていた悠佳が、泣いている紗貴の頭を優しく撫でながら、軽い調子――だけど温かい口調でそう言った。

「はい――」

 紗貴は泣きながら、温かい雑炊を食べ進める。

 隣に感じる悠佳の体温と相俟って、上京してから今まで知らず知らずのうちに我慢していた不安と恐れ――のような凍っていた何か――が全て溶け出すようだった。


「これだけ食欲あるなら大丈夫だね。じゃあ、今日はもう一回薬飲んで寝る。飲み物とか冷蔵庫に突っ込んどくから」

 完食して空になった鍋を持つと悠佳が玄関のほうへと向かう。

「今日は――ありがとうございました」

 紗貴も十分に動けるようになっていたので、玄関先まで悠佳を見送って改めて礼を言っていた。

「困った時はお互い様。気にしないで。おやすみなさい」

 悠佳はもう一度、紗貴の頭を軽く撫でると、優しく笑っている。

「おやすみなさい」

 本当はまだ心細いけど、悠佳はすぐ隣に居てくれる――だったら頑張れる。紗貴は思った。



(11)

 紗貴はあれからすぐに回復して、またアルバイトと劇団とで忙しい日々に戻っていた。今度は悠佳に言われたよう、突っ走りすぎずに、少し加減をしながら。


 公演の稽古も本格的になってきて、紗貴の担当する役の見せ場のシーンになっていた。

 簡単には会えない好きな人を想って、その想いを語る――というシーンだったが、演出家に何度か駄目出しをされていた。


「うーん。切なさが足りない」

 演出家が考え込むように腕を組んでいる。

「はい……」

 言われていることは理解できるし、足りてない部分も紗貴自身でわかっているのだが、まだそれを上手く掴めずにいた。

「じゃあもう一回行くよー」

 演出家がパシンと、手を叩いてスタートの合図をした。

「もっと具体的に想像してみて? 自分の大事な人が、近くに居ないとどう感じるか」

 山場の台詞の途中、少し間が空くシーンで、タイミング良く演出家の声が飛んできた。

 大事な人が――近くに――紗貴は思いを巡らせる。

 ――何故か悠佳のことが頭に浮かんだ。

 今、この街で頑張れているのは、悠佳が近くに居てくれるからかもしれない。

 もし、悠佳と出会えていなかったら――悠佳が近くに居なかったら――

「あ、今の表情いいよ! もっとそれを膨らませる!」

「やだ……」

 悠佳が居ないなんて――今の自分には――でもどうして、こんなことを思うのだろう。

 紗貴の瞳から、ぽろぽろ涙がこぼれ落ちた。泣くつもりではなかったのに――

「よっし! それだ! 続けて!」

 涙を拭わずに、紗貴はそのまま芝居を続けた。頭の何処かで悠佳のことを考えながら――

「今のいい感じだったよ。今日はここまで。その感情の動きを覚えておいて」

「はい――ありがとうございました」

 紗貴はタオルで汗と涙を拭いながら、演出家に頭を下げた。

 予想外の人が頭に浮かんで戸惑いはしたが、大事な人を想う感情というものを掴めた気がする。


「最後の一回は演技に艶が出てたね」

 稽古を眺めていた先輩が、帰り支度を始めた紗貴に近付いてそう言った。

「艶……ですか?」

 紗貴はまだ自分の演技をそれほど客観的に見ることができていないのだが、他の人から見ればそういうものなのだろうか。

「色気みたいな。誰かに恋してる感じ?」

 先輩は興味津々といった感じで紗貴に訊く。

「そんな、恋だなんて」

 そう言われても心当たりがない。どんな場所でも色恋沙汰は会話の潤滑油みたいなものになるのはわかっているけれど、大体、今は自分のことで精一杯だ。

 稽古場の鏡に映る自分には何の変化もないように見える。

「私は、誰に恋してるんだろう――」

 紗貴が、ポツリと呟いた。



(12)

「はい、これ。今日の特別ボーナス」

 蒸し暑い雨の日の夕方、紗貴はアルバイト先でトンカツ五枚とコロッケ六個の入ったパック二つを渡された。

「え、こんなに貰って良いんですか?」 

 午後からのシフトの人が急に入れなくなったので、急遽紗貴が夕方までのシフトになったのだが、そのアルバイトを上がる時間が丁度、夕方の総菜の入れ替えと重なったおかげの役得だった。

「今日雨やったしなー。ええよ、ええよ。どうせ売上ロスになるんやったら食べて貰うほうが」

 雨なので総菜を作る量もそれなりに調整するとはいえ、売り場が全くガラガラでは見栄えが悪い。よって雨の日は総菜などが余ることになるのだが、今日は数の読み違いも重なったと店長が言う。それらの商品は全く問題がないにも関わらず廃棄される運命になってしまうのだが――正直なところ、とても勿体ないと紗貴は思う。

 事情を知らない人が見たらみっともない――もしくはズルい――と思うのかもしれないけれど、『勿体ない』と『みっともない』または『ズルい』どれが正解かなんてわからないものだ。

 他のパートたちも紗貴と同様に、大量に余った総菜を分け合っていた。

「正直、助かります。ありがとうございます。」

 決して裕福な暮らしができるわけではない紗貴にとっては、ありがたいことに違いはない。

「わははは。助かってるかーおもろいな」

 店長は豪快に笑っていた。


「あ、悠佳さん。今帰りですか? もうご飯食べました?」

 紗貴がスーパーを出たら、駅前で悠佳の姿を見付けた。今日は久々にスーツ姿だった。

 時間がまだ早いので夕飯は済ませていないとは思うが、紗貴は一応確認をする。

「ん? まだだよ」

 いきなりどうしたの――と悠佳が答えた。

「良かったら一緒にどうですか。いつものように貰い物なんですけど……量が多いので」

 紗貴は貰った総菜のパックが入ったエコバッグを軽く持ち上げる。

 それだけで悠佳には何かわかったようだ。元従業員だと話が早い。

「え、やった! いただきます。晩ご飯考えるの面倒だったんだよね」

 悠佳は嬉しそうに笑っていた。


 二人は帰宅してから、悠佳の部屋で夕食を食べていた。野菜が足りないということで、悠佳がさっと作ってくれたミネストローネも食卓にプラスされて、豪勢な食事だった。

「今日はトンカツとコロッケもあるのに憂鬱そうな顔してるね」

 考え事をしていた紗貴の様子を見たのか悠佳が言った。

 できるだけ表に出さないようにしていたのにわかってしまうのは、役者を目指す者としてどうなんだろうと紗貴は一瞬思ったが、それだけ自分が単純なのかもしれない。

「……この前稽古で褒められたんですけど、ピンとこなくて」

 すっかり悩みの相談モードになってしまった。

「良いことなのに?」

 悠佳の言うとおり、確かに良いことだ。だけど――

「恋してるみたいだって言われたんですけど、周りにそんな好きになるような男の人居ないのに」

 相談をしながらも紗貴は箸を進める。

 役者は体力勝負の面もあるので、食べられる時にはしっかりと食べておきたい。この数ヶ月で実感していたことだった。

 もっとも、プロポーションも気にしないといけないのがネックではあるけれど。

「同じ劇団の人は? 役者さんだからイケメンも多いでしょ?」

 悠佳も順調にソースをかけたコロッケを食べている。

「んー、なんか一緒に頑張ろうって感じだし、モテるから彼女が居る人ばかりですよ」

 仮にその人たちに彼女が居ないとしても、紗貴の中では恋愛対象というより、共に頑張っていく仲間みたいな感覚でしかない。

「……好きになるのは、なにも男の人とは限らない――よね?」

 食べている箸を止めて、悠佳が首を傾げた。その表情は、純粋に疑問といった感じだった。

 悠佳も自分で口にした言葉を飲み込めていない様子で首を傾げていた。

「え――」

 紗貴は一瞬ドキリとする。

 あの時、大事な人を思い浮かべようとした時、紗貴の心に出てきたのは悠佳だった。

 でもまさか、そんな。悠佳は女の人だ。

 だけど、悠佳の言うように、恋する相手が男の人だとは限らないなら――

「うーん。一人暮らしに慣れて余裕が出てきたからじゃないの?」

 悠佳はまだ箸を止めたままだ――他人事なのに真剣に考えてくれている。

「そうだったら良いんですけど……」

 それだけじゃない。もっと、まだ気付いていない何かが自分の中にあると思った。

「でも、別に劇団は恋愛禁止とかじゃないでしょ? 自分がその気なら好きな人くらいは居ても良いと思うけどな。紗貴さん可愛いからモテるだろうし」

 止めていた箸をまた進めながら、悠佳が言う。

「私にはまだ早いですよ」

 そう――一人前にもなってない自分には、多分まだ――

「『可愛い』を否定しなくなったね?」

 悠佳がニヤリと笑って紗貴を見ていた。

「え、あ――忘れてました。って大体悠佳さんは『可愛い』って言い過ぎなんですよ」

 紗貴は照れ隠しでつい悠佳を責める。紗貴を褒めてくれる大事な人なのに――

「ごめん。だって可愛いんだもん。つい言っちゃうよね」

 憎めない満面の笑顔で悠佳がそう切り返す。

「――あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・す」

 紗貴はもう否定せず、わざと語気を強めに返事をした。

「あはは、強くなってきた。その調子」

 悠佳が得意げに笑っていた。悠佳のいつもの調子のおかげで、相談モードだった空気は、楽しいものに変わっていた。



(13)

 公演の稽古も佳境に入ってきた夏の終わり――演出家からある提案が出された。

 提案も何も、演出家が「こうする」と決めれば、そうなるのだが――

「ラストのキスシーンだけど、客席に見えるような形に変更します」

「え? じゃあ、本当にするんですか!?」

 紗貴が驚いた声を上げた。

「そんなに驚かなくても今日はまだ軽い稽古だから、本当にしなくていいから」

 演出家は軽く話しているが、紗貴にとっては大問題だ。

 紗貴はまだ、誰ともそういった関係を持ったことはない。勿論キスさえ――まだだ。

 今時、遅いのかもしれない。それを考えると恥ずかしくて誰にも言えない。

 好きでもない人とキスをするのも演技なのだと理解はしているけれど――やっぱり初めては好きな人のほうが良い。そんな心が出てきてしまう。


「固い!」

 一連の流れを確認した後に演出家が一言、少し苛立ったように言った。

「なんかこのシーンの前後が固いんだよねえ――二人ともだけど特に本山が固い」

「すみません。俺、彼女に怒られるかもって考えてしまって」

 嶋木が困ったような表情ですぐにそう答えた。

「おいおい、今から恐妻家かあ~? ファンの前で言うなよ?」

 演出家の冗談めいたツッコミで稽古場がドッと笑いに包まれる。

「でも本山さんも考えちゃうよね? 彼氏に悪いなとか」

 嶋木が紗貴に同意を求めてきた。

「え? そう――そうですね」

 本当はそれが理由ではないのだけれど――嶋木に合わせて返事をした。

「そこを越えないと芝居なんてできないでしょうに」

 演出家は溜息交じりに呆れている。

 言っていることは正論なのだけど、紗貴の中ではどうしても整理が付かない。

 紗貴にとっては、それだけ重たいものだった。



(14)

「キスシーンね……」

 紗貴の部屋、悠佳と二人で、またもや悠佳の会社のお土産だという地方のお菓子を食べていた。

「好きでもない人とキスするのは辛いです……」

「大学のサークルではそういうシーンなかったの?」

 悠佳のもっともな疑問だった。

「何回かありましたけど、キスしてるように見える角度で――」

 そもそも大学側の規制――公序良俗に反するものはNG――みたいなものがあったので、本当にキスをするシーンは作れない状況で――

「なるほど。だけどキスくらいならサッと」

 悠佳が人差し指を空中に立ててクルクルと回しながらサラッと言う。

 サラッと言われる程度のことだとわかってはいても――

「…………ファーストキスなんです」

 ついに、言ってしまった。

 この年齢でまだそんな子供みたいなことを――もしかしたら馬鹿にされるかもしれない――

「あ、それは我慢とかの問題じゃなく辛いやつだ。なんか無理に言わせたみたいでごめんなさい」

 予想外の悠佳の反応だった。馬鹿にされないだけでも、何故か嬉しい気持ちが少し出てくる。

「…………」

 紗貴は恥ずかしさで黙り込んでいた。

「そっか。でも役者さんってそこを我慢するしかないのかなあ」

 悠佳が腕を組んで唸っている。

「ですよね……」

 その道を志したのなら、そんな個人的な事情は二の次だ。

 紗貴もわかっている。わかっているけれど――

「――好きな人を思い浮かべるってのはどう?」

 何かを思い付いたように悠佳が言った。

「好きな人――」

 そんなことを言われても――自分には――

「そう。両想いじゃなくてもいいから、『この人だ』ってのを想像してみるとか。って偉そうなこと言ってるけど演技とか全くわからないんだった。ごめんね」

 困り顔で悠佳が言う。悠佳の困ってる顔を見るのは久々かもしれない。

「ううん。それで頑張ってみます」

 紗貴は折角の悠佳のアドバイスを、なんとかしたいと思った。



(15)

「そこで二人はキスを――」

 熱のこもった稽古場で、演出家が声を飛ばしていた。

 公演も迫ってきて、稽古も今日が山場だ。頭から最後まで、通しの稽古だった。

 今日は本当にキスをしなくてはならない。

 紗貴の気持ちはまだ整理が付いていないけれど、やるしかない。

 いよいよ問題のシーンに入ったところ――紗貴は演技をしながら、悠佳のアドバイスを思い出していた。


 好きな人を思い浮かべようとしたその時、何故かまた頭に浮かんだのは悠佳だった。

 どうしてだろう――悠佳は女の人なのに――そんなことを思うなんて。

 おかしくはないのかもしれないけど、不思議だった。


「今のは上手く感情が入ってたね」

 演出家と、他の先輩劇団員たちが拍手を贈っていた。

 問題のシーンを上手く乗り越えた――だけど、紗貴の心はどこか複雑なものを抱えていた。

 勿論、それを表には出さなかったけれど。


「はーい。もう一回通して行きますー」

 二つ、三つ、細かなところの駄目出しを済ませた演出家の声で、また、一から通しで舞台が始まる。今度は頑張って悠佳のことを考えないようにしてみたが、上手くいかなかった。

 そもそも本来ならその役になりきって、その相手を好きにならなければいけないのに、それもできない。何度か繰り返した後に、やはり悠佳のことを考えている時のほうが、演出家の反応も良かった。


 稽古が終わり、紗貴には確信してしまったことがあった。

 悠佳のことが、好きなのだ――と。

 計らずも、皮肉なことに、今頃気付いたなんて――全てが遅いと思った。


 だけど――



(16)

「今日、稽古でキスシーンを褒められました」

 悠佳の部屋、今日は特に何かお土産があったわけではないけど、紗貴が話をしたいと言って悠佳の部屋に邪魔していた。

「良かったじゃん。おめでとう」

 悠佳は自分のことのように喜んでくれた。意識してしまうと、その笑顔も紗貴には刺さる。

「前にアドバイス貰ったとおりに考えてみたらできたんです」

 紗貴はなかなか本題を切り出せない。今日は言わなければいけないことがあるのに――

「お役に立てて良かった――でも素人のアドバイスでよかったのかな」

 紗貴は照れくさそうに笑っている悠佳を、真っ直ぐに見た。

「あ、あのっ! その時に頭に浮かんだのが悠佳さんだったんです」

 言ってしまった――悠佳の反応を見る。

「え――私?」

 悠佳は驚いたような表情になっていた。

「はい……」

 消え入りそうな声で紗貴は答える。

「あー……そっか。そう……なんだ……」

 戸惑っているのか、言葉を選んでいるのか、悠佳は言葉少なだ。

「その時に、私、悠佳さんのことが好きなんだって気が付いて。でも、悠佳さんは女の人なのにどうしよう、おかしいって――でも、気が付くと悠佳さんのこと考えてて――」

 堰を切ったように紗貴の口から言葉が溢れる。

 その言葉には、告白と――それを我慢できずに言ってしまった後悔と――そんなものが沢山混ざっていた。

「…………」

 悠佳は黙り込んでいる。

「あ……変なこと言ってごめんなさい。もう、部屋に帰ります」

 沈黙に耐えきれず、紗貴は立ち上がって悠佳の部屋を出ようとした。

「ちょっと待って」

 慌てて立ち上がった悠佳に玄関で腕を掴まれて引き止められた。

 強くはない、けれど、しっかりと紗貴の腕を掴んでいた。


「これ、見て」

 紗貴は部屋へ引き戻され、悠佳が棚から取り出した分厚いスケッチブックを渡された。

「――これ、私ですか?」

 紗貴がページを捲ると、スケッチブックには紗貴の色々な表情が描かれていた。

 絵を描いた日付も書かれていたのだが、最初書かれていたのは、初めて駅前まで一緒に歩いた日付だった。そのスケッチは紗貴の特徴を掴んではいるが、まだ何処かぼんやりしていた。けれど、ページを捲るたび――日付が新しくなる毎に詳細なタッチに変わってきていた。

 一番新しい日付のスケッチは、三日前の朝、一緒に駅前まで行った時だった。

「最初は――表情がコロコロ変わって面白いなって感じで描き始めた。でも、そのうち――顔を見ることが嬉しくなって、気付くとこんな感じになってて。でも女同士なのにどうしてここまで気になるんだろうって――だけど、好きなものを描くのをやめられなくてこうなった」

 恥ずかしそうに視線をそらしてはいるが、悠佳の言葉は――紗貴と同じ、告白だ。

「悠佳さん――」

 紗貴は言葉を継げない。予想もしていなかった悠佳の言葉が心に入り込んでくる。

「これからも近く――一番近くで、紗貴さんを見ていたいです。それくらい、私も、好き」

 大きく息を吸って、悠佳が言う。その視線は、紗貴を真っ直ぐに見ていた。

「だから、紗貴さんの言ってることは、変なことでもおかしいことでもないと思います」

 いつもの軽い口調とは違う悠佳の敬語。そして、その温かい言葉――

 それだけ真剣に紗貴と向き合ってくれているのが伝わる。

「悠佳さん……ありがとう」

 紗貴の目から自然に涙が出てくる。嬉しいはずなのにどうして泣くのだろう――わからない。

 ――紗貴にわかるのは、目の前のこの人が好きだということだけ。

「できれば、今からでも紗貴さんが悩んでたファーストキスの上書きさせて欲しいです。って、そういう好きで合ってるかな……」

 何処か気まずそうに悠佳が訊く。

「……はい。合ってます」

 紗貴が答える。紗貴の「好き」と悠佳の「好き」は同じなのだ――

「――良かった」

 悠佳が安心したように大きく息を吐いてその場に座り込んだ。

「緊張したよ――本気の告白だよ? 心臓に悪いよ」

 いつもの調子に戻った悠佳が、頬を赤らめながらそう言った。

 片手で隠してはいるが、紗貴にはその表情がはっきり見えるし、いつもとの違いがわかる。

「でも、私、すごく嬉しいです――どうしよう」

 悠佳の隣に座った紗貴がそっと悠佳の空いているほうの手に触れた。

「どうしようって――どうしよう……?」

 そう言って悠佳が、紗貴のその指先を軽く握り返した。

「あ、あの……上書きしてくれるんですか?」

 自分からこんなことを言うのはとても恥ずかしいけど――それでも、証明が欲しいと思った。

「お望みなら――いつでも」

 悠佳が笑う。いつもの優しい笑顔。それだけで、紗貴の胸は一杯になる。

「……お願いします」

 初めてのキスは、本当に、好きな人と――紗貴がそう思っていたことも悠佳は知っているのだから。


「紗貴――」

 名前を呼ばれ、悠佳の手が優しく頬に触れた。紗貴は悠佳の服をそっと掴む。

 悠佳の長い睫毛と、綺麗な瞳――あと少し――


 そっと――柔らかくて優しいキスだった。


「可愛い。真っ赤になってる」

 紗貴を見た悠佳が冗談めかして笑う。そこには照れも含まれているようだった。

「だ、だって――」

 演技ではない、好きな人との初めてのキスで照れないほうが珍しいと紗貴は思う。

 紗貴にとってはそれだけ大事なものだったのだ。

「――でも、これで上書きされた?」

 悠佳は優しく、紗貴の髪を撫でる。暖かい――優しい手だった。

 紗貴は、この手にいつも助けられてきたような気がする。

「……はい」

 そう答える紗貴はまだ悠佳の服を掴んだままだった。

「どうしよう、可愛すぎるでしょ――ってこれからもよろしくね。そうだ、今度デートしよう? まだあんまり有名な場所行ってないよね?」

「はい――約束ですよ」

「うん。約束。楽しみにしてる」

 そう言って、悠佳は紗貴を優しく抱きしめた。


「おやすみなさい――」

 悠佳の部屋を出る時に、もう一度悠佳に抱きしめられて、額に優しくキスをされた。

 紗貴は大切な恋人に向けて、

「おやすみなさい」

 ――と返した。



□エピローグ


「おかえりー。舞台、良かったよ」

「悠佳さん!」

 新人公演が無事に終わり、公演後の打ち上げも終わって、紗貴が駅まで帰ってきたところだった。前もって帰宅予定を連絡していたので、舞台を見て、先に帰宅していた悠佳が駅まで迎えにきてくれていたのだ。

「紗貴さんが悩んでた例のシーン、綺麗だなって思った」

 自宅までの帰り道を二人で歩きながら、話題は今日の舞台の感想になっていた。

「でも複雑になりません? 相手役の人は『彼女が怒るかも』ってずっと言ってましたよ」

 打ち上げの時も、相手役の嶋木はそれを心配していた。先輩たちに存分にツッコまれていたが。

「役者さんに恋をしたならその辺は納得しないとだよね。相手役のファンの人かな? は見てて悲鳴上げてたけど」

 悠佳が苦笑いで返した。確かにあのシーンで悲鳴のようなものが聞こえた気がしたけど、嶋木のファンだったのだろうか。

「……大人ですね」

「実は、少し妬いたって言ったら嬉しい?」

「複雑です。嬉しいけど、お芝居なのにって思っちゃうかも」

 紗貴も最初はすごく悩んでいたけど、今は純粋にそう思う。

「あはは、プロの自覚が出てきた。その調子」

 歩きながら、悠佳が肩で紗貴を軽く突いた。その少しの体温が心地良い。

「もう……本当はどっちなんですか?」

 お返しとばかりに、紗貴が悠佳の腕にしがみつく。

 今夜、少し酔っている紗貴は、大胆になっていた。

「正直に言うと、こっちも複雑。でも紗貴さんの夢も応援したいから、納得はしてます」

 悠佳は紗貴を振り解かずに、歩きながら紗貴を見て笑った。

「ありがとうございます」

 少しの嫉妬と、それでも、紗貴の夢を理解してくれている悠佳にはいつも支えられている。 

 紗貴も、悠佳の夢を支えていきたいと思った。

 今は支えられてばかりだけど。


 だけど、それでも、これからも、二人で夢を追えたら――

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