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短編箱はお気楽に~

柱時計が鳴る

 おや、もう着いたんだね。とすすけた窓ガラスの向こう側で彼女の口がそう動いた。

 続けて、南側の掃き出し窓の方を指さして、大きく腕を振る。

 合図に従って、僕は雑草を踏み分けて小さな庭の方に回った。

 靴をどこで脱ごうかと立ち止まった時、空を見上げる。


 そこそこ晴れていたが、あの影は見えなかった。空を見るのがどうも、近頃の習慣になっているようだ。目線を足元に落とし、低く作ったテラスに上る。

 塗りははげて、板が何枚か外れかかっている。

 慎重に歩を進めて、掃き出し窓を開けて中に入った。




 久しぶり、5年? もうそんなになるか、元気そうでよかった。アタシ? アタシは相変わらずよ、すっかりコレに乗ってないと暮らせなくなっちまったけどね。それでもシャワーくらいは自分で浴びられるし、トイレもひとりで入れるし。ごめんよひとりでしゃべってて、お茶でいいかい? ああ、大丈夫手が届くから、冷たいお茶がいいかい、そうだね、まだまだ暑いもんね。クーラーつける? いらない? じゃあ窓は開けとこうかね。

 電車、混んでたかい? 家からどんくらいかかった? 今、あんまり時間通り走ってないって? そうか、4時間か。結構運が良かったんだね。

 電話、なかなか出られなくてごめんよ、家の電話は近くにいないとすぐ取れないから、いつもスマホ持ち歩いてるんだ、でも気づいたら音が出てなくて、後から着信みてビックリだったよ。近頃じゃあ、ケアマネも近所も全部携帯に電話寄こすから、ちょっとくらい知らない番号でもすぐ出るんだけどね……ああ、音が出るように直してくれるの? 助かるよ、そんなとこ、気づかずにいじってたんだね。助かった。

 それにしても、夢枕に立ったんで気になったんだって? アンタの? ふふふ、ホントかい。昔っからオバケとか怖がってたよね、えっ、今は平気になったのかい? そうか、アンタももう38かあ、前に寄った時はまだこっちにひとり暮らしだったよね。雪かきに来てくれて、アンタ、雪見たことないって張り切って雪かきして、ビシャビシャになって、生乾きで帰ってさ……翌日、熱出して会社休んだんだっけ? えっ、それは前々回か、えっそれから三回来てる? ごめんよ。前回はそうだ……娘さん連れて来てくれて一泊してから、今度はアタシの運転でアンタんとこまで行ったんだっけね。えっ、あん時の首都高? そんなに怖かった? アタシの運転そんなに怖かったかい、そうか鮮やかすぎて。ははは、そりゃ、慣れだよ、首都高だって東名だってそのへんだって、道は道だからね。アタシは全然平気だったけど。そうだよ、免許もやめちゃったからね……もう二年以上経つよ。最初の頃は不便で仕方なかったけど。デイは送迎が来てくれて裏口から乗り降りすんの、段差がないからね。病院の送迎も買物の補助も全部、裏から乗り降り。そう、玄関側から来る人はもういないよ、アタシも玄関まで近づけないから。でも車ってすごいよね、ちょっとアクセルふかしただけでスイスイ、日本全国駆け回れたんだから。よくアンタの母さんと父さんとドライブしたよ。ここまで来てもらって、こっからだと十和田湖とか、フェリー乗って北海道とか、近いところで九十九里で花買いまくったりさ。それかアンタん家まで行って、今度はアンタの父さんの運転で広島とか日本海の方とか、伊豆も近くて魚もおいしいからよく行ったもんだ。それがさ、今じゃあ自分ち玄関までも行けないってのが、笑えるよね。

 ところでアンタ、38って? すっかりいいオジサンじゃないか。子どもは元気? そうかもう小学校か、一番活発な頃だよね。

 アタシだってもう85過ぎちゃったよ、白髪しかないさ。えっ? まだ黒い所あるって? アンタの母さんも白くなったよねえ。こないだの写真、近所の公園って言ったっけ。紅葉がきれいだったけど、母さんほんと、年取ったよね。まあ、アタシより3つ上だから仕方ないか。


 そうそう。

 姫奈がさ、また一緒に暮らしたいって言ってて。娘は独立しちゃったからダンナとふたり、この家に戻ってこようかな、って。

 でもさ、前に一緒に暮らしてアレだったじゃない? あのダンナ、何だかって試験受けるのに毎年ずっと落ち続けて、結局、ここ出て行ってからまたしばらく落ち続けて、今じゃあ不動産屋のセールスだよ、オーレ不動産。なんか、オレオレ詐欺みたいな名前じゃん? ホント笑えるよ。ここで同居してた7年の間、ずっと姫奈が外で働いててさ、保育園の送り迎えも姫奈、食事の支度はそれでもアタシがまだなんとか動けたから、近くのスーパーで買って作ってたのよ。みいちゃんがおさかな好きでね、チャケ焼いて、ってよく言ったのよ。だから鮭は必ず買ってきてさ、週4回は。ダンナは骨のあるものがダメだったから、ひとりでハンバーグとか焼肉よ、そんな時。一番安い肉だったけどね。面白かったのが、メザシ焼いた時、まじまじとみいちゃんの皿見て、これどうやって骨取るんですか? って大真面目に訊いたのよ、アタシに。

 えっ、姫奈は今、赤羽に住んでるのよ。そう、前は練馬にいたんだけど、家賃が安くていいところが見つかったって言って。それにみいちゃんだってもう高校出たから、わざわざ学校に近い所に住まなくてよくなったから、って。

 みいちゃん、そうそう、一度アタシが車に乗せて、アンタんとこまで遊びに行ったっけ。アンタの父さん亡くなるちょっと前か。

 みいちゃん、お気に入りのタオル持ち忘れて夜中にぐずったっけね……それが今じゃあ芸能関係目指しててさ、そこが姫奈に似てるんだけど、そう、歌もうまいし、まだ若いからなんて言うんだっけ? ええと、ご当地アイドル? ファンもいるらしいのよ。それにCDも出したんだって。アタシも買わされたしね。うん、でも本当にうまいんだ。姫奈よりうまいかもね。

 姫奈も、何かと頑張っているようだけど……自分の夢もあったのにさ、まあその分、娘に期待しているのかも知れないけど、結局バイト続けてて、娘の活動費の足しにする、ってね。

 アタシ? ケアマネに言われてさ、行きたくもないデイに行ってるよ、週1回、木曜日に。アンタの母さんは? えっ、週4回? たいへんだねえ。風呂に入りに? アタシゃまだシャワーくらいならひとりで使えるから、まだまだ大丈夫よ、気楽だし。それに月に二回くらいは弟の夫婦が病院のついでに寄ってくれてね。奥さんがいつも庭の草取りをしてくれんのよ。徹底的にキレイにしてくれてさ、うん、それにしても伸びるのも早いけど。あの草? ああ、ネコジャラシって? あれはわざと取らないで、って頼んでるの。あれが昔から好きでさ。田舎の畑に一面に生えてて、あれが西日に当たるとキラキラしてさ、ああ、秋が来るなあって思うのよ。弟たち、一昨日来るはずだったんだけど、急に来られなくなったらしくてね、電話してもつながんないし。だから余計、他の草も長くなっちまったんだけどね。まあ、そのうち来るでしょ。

 姫奈が一緒に住もうって言っても、アタシは嫌なこった。そりゃあ、娘と居られれば安心じゃない? って皆に言われるけど、安心よりも何よりも、アタシはひとりが一番落ち着くのよ。

 父さん死んだ時も、うん、ちょうど20年経つけどさ。あん時も姫奈たちがうちに入ったでしょ? 寂しいだろうから、って。

 でもね、あの子らと一緒にいた7年で、体重かなり減ったわよ。とにかく気をつかってばっかりで、元々、アタシの性分に合わないんだろうね、下手に気をつかうのは。


 面白かったのがね。


 姫奈が出てく時。そう、みいちゃんの学校の近くに、って引っ越すことになった時に、じゃあね母さん、って出て行ってからさ、家ん中がしーんとなったんだ、そしたらね、急にあの柱時計が、ぼーん、ぼーん、って続けて鳴ったのよ。父さん生きてる時には、止まりそうになると父さんがずっと巻いてたんだけど、亡くなってからは姫奈もあのダンナも気にしてなかったんで放ったらかしにしてあったの、それが急にね。

 7回続けて、鳴ったのよ。


 まるで父さんが、「おい、ホントすっきりしたよな」って言ったみたいで、アタシも思わず笑い出しちゃったのよ。

 普通こわいでしょ? 止まってた時計が急に鳴ったりしたら。でもそれが何だか可笑しくておかしくて。

 もし姫奈たちがここに入ったら、アタシはどっかの施設に入ろうかと思ってんの。もう、みいちゃんにシャケ焼いてやる必要もないし、ダンナの顔も見たくないし。アッチだって同じだろうし。



 だいぶ日が傾いたね、日が暮れるのが早くなったよ、アンタも帰らなきゃだろ、家まで帰らないの? そうかまだ仕事が残ってるんだ、大変だ。そんな時夢枕に立っちまって悪かった、でも嬉しかったよ。ありがとうね。姫奈も、ケンちゃん元気かなあって言ってたよ、来てくれたの伝えとく。母さんにもよろしく。

 ねえ、ネコジャラシね、綺麗でしょう? うん、西日の時が特に光ってね。

 それが風に揺れてさ、しみじみ季節を思うのよ。

 気をつけて。バスに乗らなくても駅まで、下の道からまっすぐ行けば近いんだから。

 アタシは大丈夫だから。じゃあね。





 家からずいぶんと離れてから僕は立ち止まり、雲の多い空を見上げた。

 いくつも浮かんでいる黒い船のひとつに、彼女を乗せてくれないかと姫奈から頼まれていたのに、ついに、言い出せなかった。

 母が今年初めに亡くなったことも含めて。



 年内に国民の何割までが避難できるのだろうか。今後行われる選定作業に、末端とは言え関わらざるを得ない立場として、古くからの母の友人で大切な人とは言え、こうして個別にチケットを渡そうとしたのは明らかに業務違反だ。

 それでも、ここに来ずにはいられなかったのだ。

 足元の歩道の脇、ネコジャラシに目が留まった。

 日は沈んでいて、輝きはない。枯れ色の小さな塊が、冷たくなった風になぶられているだけだ。


 柱時計の音を聴いたような気がして、僕はわずかに振り返る。

 それからはまっすぐに駅に向かっていった。




〈了〉

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