上 天使、舞い降りる
コトネのおでこがボクの胸骨のあたりにあった。前に垂れたサラサラの髪が触れる感触。彼女の両手は、コートを羽織ったボクの肩にすがっている。
天歌駅の改札前通路を行きかう人の流れの中で、ボクは立ちすくんだまま当惑していた。
ボクの胸でコトネがすすり泣いている。ボクの視界の大きな部分を占めている彼女の髪の毛の黒。その横にみえる肩が小刻みに震えている。
「神様は...不公平だよお」
泣き声の中からコトネがそう言うのが聞き取れた。
12月24日に亡くなったノエル先輩の告別式の帰り道だった。火葬場に向かう霊柩車と車列を見送ると、参列した県立天歌高校陸上競技部のメンバーは、天歌駅まで一団となって戻って来て、そこで解散となった。
帰る方向が一緒のコトネとボク。「そろそろ行こうか」と声をかけて歩き出したボクが、彼女がついて来ていないことに気づいて振り返ったとき、ボクに向かって、彼女がつかつかとやってきて、最後は倒れ込むようにボクの胸に顔をあてて、泣き出した。
当惑したボクの両腕は、曲げた肘が固まって、両手が宙に浮いている形になった。腕をこのまま彼女の背中に回して抱きしめたら... いや、そんなことは...
5分くらい経って、彼女の肩の震えが少しおさまったころ、ボクは、コートを着た彼女の肩に両手をそっとあてて、彼女の顔をボクの胸から離した。
少しのぞき込むような形で、彼女の、小鹿のようなクリクリとした目を見て聞いた。
「不公平、って?」
「...なんで、ノエル先輩なの? どうしてノエル先輩が死ななきゃいけなかったの? まだ高校3年生だったのに」
しゃくり上げながらコトネが言った。
「それに...なんであの人があの場所にいたの? ノエル先輩のすぐ側...なんであの人なの?」
「...ミカさん?」
「ノエル先輩が言ったことは...みんな嘘だったの?」
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コトネは不思議なことを言う。「天使を感じるのだ」と。
ボクがコトネと初めて会ったのは、中学の入学式からちょうど一週間たった日。
同じ日に陸上部に入部したのは、コトネとボクの二人だった。
練習参加は翌日の朝練から、ということで、少し練習を見学して、その日は帰宅することになった。聞くと同じ方向なので、二人並んで校門を出た。
中1の男子としては小柄な部類に入るであろうボクと、コトネは同じくらい小柄で、やせっぽちだった。
「ボクは宮内 翔。キミは?」
「永山 琴音」
「種目は?」
「走り幅跳び」
「ボクは走るほう。距離はこれから決める」
「...」
ボクも無口なほうだけれど、コトネは輪をかけて無口だった。
しばらく二人黙って歩いて、郵便局の角のところでサヨナラした。
「カケルなら、笑わないで聞いてくれるよね」
陸上部に入って、サラサラの髪を思い切りショートにしたコトネが言った。
4月終わりの土曜日、総合競技場で地区大会を見学していたときのこと。
「なんの話? 永山さん」とスポーツ刈りにしたボク。
「コトネでいいよ」
「じゃあ、コトネ。笑わないから話して」
「わたしね...天使を感じるんだ」
小学6年の体育の授業で、コトネは走り幅跳びを初めて体験した。
1回目。踏切が気になって助走で思い切り走ることができず、クラスで下から2番目だった。
2回目。踏切を気にせずに思い切り助走を走った。踏み切って空中に上がってしばらくしたときに、コトネは背中の肩甲骨のあたり、ちょうど天使の羽根が生えているあたりに、遠くへ運んでくれる浮力を感じた。
「天使が持ち上げてくれたのを感じたんだ」とコトネ。
結果はクラスで上から2番目。運動が苦手で体育の時間は苦痛だったコトネが、初めて運動を「楽しい」と思った瞬間だった。
「中学入って、陸上部で走り幅跳びを始めたのは、もう一度天使が持ち上げてくれるのを感じたいから」
ふだんはほとんどしゃべらないコトネが、今日は饒舌だった。
地区大会の見学からしばらくした頃、ボクは顧問の先生から「短距離が向いている」と言われ、短距離選手として活動することにした。
中学3年間、二人が同じクラスになることはなかった。陸上部でも種目が違うので、ほとんど一緒になることはなかった。けれど帰る方向が同じだったので、練習のある日はたいてい二人並んで校門を出た。相変わらずボクたちは無口だったけれど、少しずつ練習のことや、勉強のことを話すようになった。
2年になってすぐの頃だったと思う。コトネが言った。
「天使はね、助走を頑張って走ったときに、ご褒美として現れてくれるんだよ」
それから毎日、ボクはコトネに聞くようになった。
「今日は、天使は?」
「感じたよ」とコトネが言うのは、1週間に1回あるかないかだった。
ボクたちは練習を積んで、少しずつ記録を伸ばした。二人とも相変わらず細身だが、徐々に陸上アスリートの体型になっていった。
けれど大会では、いつも地区予選の壁を越えられなかった。
中3の夏の大会を最後に引退。
コトネとボクは、県内トップレベルの進学校である県立天歌高校、通称「天高」へ、そろって入学した。
高校生になっても、相変わらず二人は学年の中で小柄なほうだった。
ボクたちは天高陸上競技部に入部した。そして、1年先輩の中上乃恵留さん、ノエル先輩に出会った。
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先輩の告別式の帰りにコトネが言った「ノエル先輩が言ったこと」というのは、半年前、6月下旬の日曜に、入院していた先輩のお見舞いに行ったときに、コトネが先輩から聞いた話のことだ。
ミカさん、森宮美香さんは、ノエル先輩と中学のときの同級生。高校は私立ルミナス女子高校、「ルミ女」と呼ばれるお嬢様学校に通っていた。
ノエル先輩には恋人の噂があった。中学のときの同級生でルミ女に進学した美人の彼女がいる、というもので、その「彼女」とされていたのがミカさんだった。
ボクたちが入部した年の二学期の初めに、2年生だったノエル先輩が入院した。コトネは、面会OKになってすぐに陸上部のメンバーと一緒にお見舞いに行った。けれどそれ以来、何度も入退院を繰り返す先輩のお見舞いに行けずにいた。
「『その他大勢』ではない形で行きたい」
コトネはノエル先輩のことが好きだった。
そうして先輩の最初の入院から8ヶ月が経った。
高校2年になっていたコトネとボクは、5月第二週の土曜日に、ルミ女の文化祭に行って軽音部のステージを見た。
高校3年のミカさんは、軽音部の4人組のバンド「ミクッツ」のベーシストでメインボーカルだと聞き、どんな人なのか見に行ったのだ。
彼女はとても綺麗な声で、しかも噂通りの美人だった。
ミカさんを見て、ますます気落ちするコトネ。
「はっきりさせたい」と思ったボクは、文化祭から1ヶ月経った頃の下校時、半ば無理やりミカさんと二人で会う機会を作り、ノエル先輩との関係について問いただした。
ミカさんは、「はっきりさせるために、3人でお見舞いに行くこと」を提案した。
6月25日の日曜日。天歌駅の改札前で1時の待ち合わせだった。
どんよりと曇った梅雨空。いつ雨が落ちてきてもおかしくないような空模様だった。コトネとボクは二人で駅へ向かった。
先に来ていたミカさん。ボクがミカさんをコトネに紹介し、コトネをミカさんに紹介すると、コトネはぎこちない笑顔を作ってミカさんに挨拶した。
ミカさんは、ボクたちを通い慣れた先輩の個室に案内してくれた。
「おう。これはカケルにコトネ。久しぶり」とノエル先輩。元気な感じにボクはホッとした。
「中上センパイ、ご無沙汰してます」とボク。
「校外だから『中上センパイ』はやめにしよう。『ノエル』にしてくれ」
「じゃあ、ノエル先輩」
「...お久しぶりです。ノエル...先輩」と、はにかむようにコトネ。
それからしばらく、陸上部の最近の話題を先輩とボクが話し、ときどきコトネが話に加わり、ミカさんが黙って聞いている状態が続いた後、先輩が言った。
「で、なんかコトネが、おれに話したいことがあるんだって?」
「えっ?」と不意を突かれたように驚くコトネ。
「じゃあ、ミカとカケルは、しばらくデイルームに行っててくれないか。メールで呼ぶから」
「了解」とミカさんは言うと、ボクをデイルームに案内した。
ミカさんが買ってくれた自販機の缶コーヒーを飲みながら、ボクはミカさんと話をした。
最初にミカさんが、ノエル先輩とミカさんがどういう関係に見えたか、と聞いた。ボクは正直な話わからなかったので、そう答えた。
次にミカさんは、ノエル先輩がコトネにどういう話をすると思うか、と聞いた。
「もしミカさんとセンパイが恋人なら、あきらめるように言うんじゃないでしょうか」とボク。
「でも、仮にそうだとして、そんな場に、自分の恋人を立ち会わせるかしら」とミカさん。
「そこまでデリカシーのないことはしないと思う」
しばらくして、ミカさんのスマホにメールが着信した。
「ノエル。もう大丈夫って」
病室に戻ると、先輩とコトネは楽しそうに話をしていた。コトネが笑顔なので、ひとまずボクは安心した。
「ミカ、カケル、お待たせ」と先輩。
「カケル。コトネとおれが話した内容は、あとでコトネから聞いてくれ。それでいいよな?」
コトネはこっくりと頷いた。
着いてから2時間ほどたった3時半頃、お暇することになった。
「変な気兼ねしないで、また見舞いにきてくれよな。そうそう、なるべく二人一緒に来てくれ。そのほうが楽しいから」と先輩はボクたちに言った。
病院からの帰り道、途中でミカさんと別れると、ボクたちは駅前のカフェに入った。
「中上センパイと話したこと、話すね」とコトネ。
先輩は「自分はいま闘病中。治療に専念したい。だから恋愛は病気が治ってからと思っている。だからミカとも恋愛関係じゃないし、いまは誰とも恋人になろうとは思っていない」と言ったということだった。
「だから、わたし言ったんだ。『じゃあ、治ったら恋もされるんですね。わたし、待ちます。早く治ってください』って」
コトネとしては、精一杯気持ちを伝えたようだった。
「ミカさんって、天使だよね」とアイスコーヒーを飲みながらコトネが言った。
「文化祭のステージで歌っている姿が、わたしには天使に見えた」
「うん」
「天使は人を見守る存在。そして天使は恋をしてはいけないことになっている。だから、わたしは安心することにした。ノエル先輩もミカさんも、お互いに恋はしていないって」
コトネの、たまにしか見られない笑顔が満面に広がった。
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ノエル先輩の告別式が行われたのは、亡くなった2日後の12月26日。参列者には天高の制服姿が目立った。
参列者の最前列。喪主であるお父さま、お母さまに続く序列にして3番目、遺族が並ぶところに、ルミ女の制服姿で座っている人がいた。コトネとボクがお焼香の順番になって祭壇を往復したとき、その人がミカさんであることがわかった。コトネが、一瞬睨むような視線を彼女に送ったように見えた。
天歌駅の改札前でコトネが言った「ノエル先輩の嘘」のうちひとつは、「病気が治る」ということだろう。そしてもうひとつが「ミカさんとは恋人でない」と言ったことにちがいない。家族ではない、そして恋人ですらないのだとしたら、ミカさんが、告別式でどうして「遺族」と同じ扱いだったのか。
ノエル先輩がコトネに言ったことについて、きっかけを作ったボクは責任を感じた。
だから、改札前で立ちすくんで動けないでいるコトネに、ボクは言った。
「ボクが、ミカさんに言って、はっきりさせるから」
コトネがコクリ、と頷いた。二人はやっと、家路につくことができた。
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コトネとボクがはじめてノエル先輩と3人きりになったのは、天高陸上部に入部して最初に放課後の練習に参加した日のこと。あと片づけに手間取ったコトネとボクは、みんなより遅れて更衣室に入った。先に着替えたボクが部室に入ると、長机の前に座ってノートになにやら書き込んでいるノエル先輩がいた。
ノートから顔を上げてボクのほうを見て先輩が言った。
「ええと...君の名前は...すまん、思い出せない」
「宮内翔です、中上センパイ」
「そうそう、カケルくんだったな」
そこへコトネが入ってきた。今度はコトネのほうを見た先輩。
「君の名前は、憶えているぞ...永山琴音さん、だよね」
「はい。中上センパイ」
「カケルくん。気を悪くしないでくれ。おれも男子だから、女子の名前のほうが先に頭に入っちゃうんだ」
そう言うノエル先輩の瞳の奥から、人懐っこさと優しさが伝わってきた。
「センパイは何をされているのですか?」とボクが聞いた。
「練習日誌。みんな帰宅してからつけてるらしいけど、おれは放っとくと頭の中から抜けちゃうから、帰る前に部室でつけていく」
「じゃあ、ボクたちもここでつけていっていいですか?」
「おう、もちろん」
コトネとボクは先輩の横に座り、カバンからノートを取り出して練習日誌をつけた。
コトネは、この日のうちにノエル先輩のことが好きになったという。
こうして練習のある日、ノエル先輩とコトネ、ボクの3人は、部室で日誌をつけてから一緒に校門を出るようになった。3人揃って右手に向かって、そのまま真っすぐ行く先輩と左に曲がって駅のほうへ行くコトネとボクが、サヨナラする形になった。
練習の帰り道、先輩と別れると、ボクは中学のときと同じくコトネに聞いた。
「今日は、天使は?」
「感じたよ」とコトネが言うのは、やはり1週間に1回あるかないかだった。
コトネとボクの高校陸上デビュー戦となった5月初めの高校総体地区大会。コトネもボクも予選敗退となった。2年生のノエル先輩は1500mで決勝に残ったが、タイムトライアルの5000mとともに、県大会出場まであと一歩、というところで終わった。
そしてノエル先輩の県大会進出が期待された9月初めの新人戦地区大会。先輩は体調不良で欠場した。
それから数日後、ノエル先輩は入院した。