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都会に比べたら風が冷たくてずっと涼しいはずなのに、じりじりと肌を焼く太陽の光だけは同じだった。三十分も歩くと、Tシャツの背中に汗がにじんでくる。
ぽつんと道に佇んでいる自動販売機で飲み物を買った。普段はミネラルウォーターばかり飲んでいるけれど、その日、陸が押したのはコーラのボタン。こうも太陽に焼かれると、喉に刺激が欲しくなる。
流し込むと、口の中で心地よく炭酸が弾けた。
一息ついて、まるで綿菓子のような雲が浮かんだ青空を見上げると、耳の奥で声が響いた。それは、ずっと陸から離れない声。
――やめてよ、鬼沢くん。
十歳のときだった。
教室で、男子数人に追いかけられていた女子がいた。
奇声をあげながら女子を追いかけ回す。その当時、男子の間で流行っていた謎の遊びだ。その日ターゲットになった女子は、真面目で頭もいい学級委員長。
普段取り澄ましたその子が、怯えた表情で、それでも「先生に言い付けるよ」と必死に強がって逃げる様子が、かえって男子たちを興奮させたようだった。
この遊びの終わり方はいつもグダグダで、ターゲットの女子が「もーやめてよー」って笑って相手にしなくなったり、チャイムが鳴ったり、通りかかった先生に注意されたりして終わる。つまり、明確なゴールがないのだ。
運の悪いことに、その日の休み時間はたっぷりと残っていたし、先生も通りかからなかった。しかも、興奮した男子たちにつられて、教室にいた生徒がひとり、またひとりとその遊びに参加し始めた。
委員長は大勢に追いかけられ、教室の隅に追い詰められた。「やめて、こっちに来ないで」と泣きそうな声で叫んでいる。
そして、一人の男子が「わーっ」と叫びながら手を振り上げた瞬間、陸の体は動いていた。
小さい頃から孝男に言われていた。
人を守れる男になれと。男の拳はそのためにあるんだと。
陸は、手を振り上げた男子に殴りかかった。突然の襲撃に驚いたその男子は陸の攻撃をまともにくらった。
「なんだよ! 何すんだよ!」
「お前関係ないだろ! あっち行けよ!」
周りの男子たちも加勢して、大乱闘になった。
それでも陸は腕っぷしに自信があった。次々と殴りつけ、戦意を失わせていく。
あと一人、というときに、陸の腕を誰かがつかんだ。邪魔するならぶっ飛ばしてやる! とその手の主をにらみつけた。しかし、その視線の先にいたのは、追いかけられていた委員長だった。
「やめてよ、鬼沢くん」
委員長は震える声でそう言った。つかまれた腕から、委員長の体の震えが伝わってくる。
「やめてよ、鬼沢くん」
泣きそうな顔で、震える声で、震える体で、委員長はもう一度繰り返した。
「おい、何やってるんだ!」
誰かが呼んできた担任が教室へ駆け込んでくる。
それと同時に、遠巻きに見ていた女子たちが、陸から委員長を引き離した。
大丈夫? と口々にその子を慰めながら、チラチラと陸を見る。その視線が好意的なものでないことは、まだ幼い陸にも分かった。
「何があったんだ? 誰がやった?」
先生がそう問うと、教室にいた全員が陸を見た。
「鬼沢、お前か?」
「――違う」
「どうなんだ、みんな」
先生が重ねて問うと、陸に殴られた一人が叫んだ。
「あいつが急に殴ってきたんだ!」
すると、みんなが次々に口を開き始める。
「俺たち、ふざけてただけなのに、いきなり入ってきて」
「鬼沢くんが男子を殴り始めて」
「俺も関係ないのに殴られた」
「委員長が止めてくれて」
「じゃなきゃ、全員殴られてたかも」
「怖かった」
一人の女子が泣き始めると、つられたように数人が泣き始める。
「――違う」
嵐のような騒ぎに飲み込まれた陸の呟きなんて、誰のところにも届くわけがなかった。
「みんな落ち着け。とりあえず、鬼沢、職員室まで来い」
先生が陸の手を引いた。陸はもう一度「違う」と呟いて、それに抗った。
自分はただ、助けたかっただけなのに。なのに――。
「あいつ、ひでーよな。オニみたいだった」
最初に陸に殴られた男子がそう言った。
オニという言葉が、池に落ちた小石のように波紋を広げていく。
「やべー、あいつオニじゃん」
「ホントだ。オニだ、オニ!」
その言葉に、みんなの陸を見る目が変わった。自分たちとは違う何かを見る目。今、自分はこの教室にいる誰とも違う「何か」になってしまったのだと、陸は感じた。
「こら、いい加減にしろ。ほら、行くぞ、鬼沢」
再び先生が手を引く。今度は陸も抗わなかった。
ちらりと委員長の方を見ると、泣きそうな顔をしてじっと陸を見つめていた。その唇は真一文字に引き締められ、飛び出しそうな言葉を押さえ込んでいるようにも見えた。
「じゃあ、お前たち、教室を片付けておくように。次の時間、最初の十五分は自習時間にするから」
先生が、陸を連れて教室を出ようとしたとき、
「あの、私……!」
委員長だった。胸の前でぎゅっと握りしめた手が、まだ小さく震えている。
「どうした?」
「先生、私……、あの、鬼沢くんは――」
「――先生、早く行こう。俺がやったんだ」
陸がそう言うと、殴られた男子たちは「ほら、やっぱり。先生、あいつオニなんだよ!」とまた騒ぎ始めた。
その声に、委員長の唇がまた真一文字に引き締められた。
「分かったから騒ぐな。いいか、ちゃんと自習してるんだぞ」
不満げな「はーい」という声がばらばらと上がって、みんなが自分の席に戻り始める。
先生の後に続いて教室を出る陸のことを、委員長だけがずっと見ていた。
あの日から、周りは陸のことをオニと呼び始めた。
そして、まるで見えない壁ができたように、誰も陸に近付かなくなった。寄ってくるのは、この間のヤンキーみたいなヤツらばっかりだ。
ただそこにいるだけで「生意気だ」とケンカを売られ、気が付けば、毎日のように人を殴っている。
今の陸にとって、人と関わることは誰かを殴ることだった。
本物のオニみてーだよな、と胸の内で呟く。
「まぁ、どうでもいいけど」
そう口に出して、コーラを喉に勢いよく流し込んだ。
炭酸が喉を詰まらせる。