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二人の姿が木々の奥に消えていくと、残された千代とカイの間に風が抜けた。
「聞かないのか」
カイがぽつりと呟いた。
「何を?」
「私がイブキを殺したかどうか」
「どっちでもいいよ。あいつがこの山で眠っていようが、世界のどこかで生きていようがね。あたしの中であいつは笑ってる。それで十分さ」
「お前は、大した女だな」
「そりゃどうも」
「イブキが――弟が惚れただけのことはある」
さて、と千代がカイを見上げた。二人の間を行き交う視線は、混じり合うことをためらうように、どこかぎこちない。そのぎこちなさを振り切るように、千代はカイに背を向けた。
「そろそろ行くよ。さっきから煙草が吸いたくて仕方ない」
「お前は煙草など吸わなかったろう」
「あいつが好きだったからね。代わりに吸ってやってるのさ」
「そうか」
また風が吹いた。優しく、二人にまとわりつくように吹いたその風に背を押され、千代は振り返った。
「――年寄りとはいえ、女の一人歩きを気遣うフリもできないのかい? まったく、あんたたち兄弟はいつまで経ってもどうしようもないね」
カイが驚いたように千代を見た。唇からふっと息が漏れると、続いて笑いがこぼれ落ちた。そして、体を折り曲げるようにして笑った。きっとオニたちが見たら、腰を抜かしただろう。
「すまない。送っていこう」
しわくちゃになった千代の手を、カイの白い手が取って歩き出す。
かつては、確かにこんなときがあった。オニとヒト、ヒトとオニ。その二つが手を取り合っていたときが。
「山に迷い込んだ幼いお前の手を引いたこともあったな」
「ふん、こっちだって、あんたたち兄弟がうちの台所からちょいちょい食料を盗んでたことくらい知ってるんだよ」
思い出は種を残した。それぞれの胸の内で、じっと芽吹きのときを待っている。そして、そのときはきっともうすぐ。
そんな予感を、吹き渡る澄んだ風が運んできた。
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ハナは迷うことなく、木々の間を抜け、草をかき分けて進んでいく。右、左と手を引かれてついていく陸は、もうさっぱりと方向感覚を失っていた。ここで放り出されたら完全に遭難するな、と思いながら、ハナの背中を追っていく。
「もうすぐだよ」
かすかな水音が聞こえた。一際高い草をかき分けると、ハナはぴたりと足を止めた。そして、くるりと振り返る。悪戯っぽい笑顔を浮かべたその瞳が、きらめきを宿していた。
「目、閉じて。いいって言うまで開けちゃダメだよ」
ささやく声はまるで催眠術のようだった。命じられるままに、陸は目を閉じた。その手をハナがゆっくりと引く。足下から、がさがさ、ぱきぱきと踏みしめる音がした。道とも呼べないその道はひどく歩きにくいけれど、手を繋いでいるせいか不思議と恐怖心はなかった。それよりも、その先に待つものへの期待が高まっていく。
「いいよ」
そっと目を開く。ハナの向こうに広がる景色に声が漏れた。
「わ……」
一瞬、夜空が落ちてきたのかと思った。数え切れないほどの青白い光が、暗闇の中を舞っている。
「――そっか。ここって、あの川の上流なんだな」
「そう。あたしのとっておきの場所。陸と一緒に見られるなんて思わなかった」
夏祭りの夜、ハナが陸に見せたあの場所の先。連れていくことさえ叶わないと思ったこの場所にいま、二人は立っていた。
舞い踊る無数の蛍。光の軌跡が闇を切り裂いて、一瞬だけ別の世界をのぞかせる。それは、二人がかつて手を伸ばした世界。
「あたし、何も知らなかった。カイ様が、あたしに母の遺した名前を付けてくれたこと」
便宜上付けられた、記号のようなものだと思っていた。でもそれは、ハナの母と父の想いの欠片だった。そんな大切なものを、カイの不器用な優しさを、ずっと知らずにいた。
「だから言っただろ。いい名前だって」
「陸が来てくれなかったら、あたし何も知らないままだった。それってすごく怖いね」
ハナは自身を抱きしめるように、そっと二の腕をさすった。
知らないままでいることは、誰かのせいにすることはすごく楽なことだった。けれど、それは孤独だった。世界を揺らした。立っていることすら覚束ないほどに。
だったら――とハナは顔を上げた。
「あたし、陸と一緒に行く。この世界のどこにだって一緒に行く。だって、陸はあたしに「これから」をくれたんだもん」
ハナが袂から取り出した髪留めが、柔らかく光った。偽物の宝石。傷付いて、ざらついた光は、美しさからは遠いものだとしても、二人で作り上げた確かな光。
「世界とは、ずいぶん大きく出たな。ま、でもそれくらいじゃねーと面白くないしな」
蛍が一匹、ハナの着物に止まった。その光に陸が指先を伸ばすと、ふわりと陸の指先に飛び移る。
「うわ、すっげ――」
陸が顔を上げると、ハナの顔がすぐ目の前にあった。息が触れ合うほどの距離。飛び立った光が二人の間を横切った。
「ありがとう、陸。あたしの未来を守ってくれて」
その名の通り、花が咲くような笑顔に陸の心臓が大きな音を立てた。
引き寄せられるように、陸は唇をハナの唇に押し当てていた。心臓の音が、温もりが溶け合ってひとつになる。
ふわり、ふわりと星のような光が舞う。いつの間にか、月は姿を消していた。




