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「我らがいくら掟だ、境界線だと言ったところで、ヒトは信じなかっただろう。口だけであれば、何とでも言えるからな。だから、それは絶対なのだと示さなければならなかった」


 足下で何がか(うごめ)いていた。自分が立っている「今」の下に積み重なった膨大な時間。それを思うと目眩がした。


「あたしたちの話し合いはずっと膠着状態でね。そんなある日、山から下りてきたカイは血に塗れていた。そして言ったんだ。イブキは掟を破った罪で死んだってね」

「それって……」


 最悪の予想を、カイの言葉が簡単に裏付ける。


「そうだ。私が殺した」

「なんで、そんなこと……ばあちゃんは止めなかったのかよ」

「止めるも何も、あたしは何もかも捨てて、二人で逃げるつもりだったからね。でも、あたしたちのせいで滅茶苦茶になったヒトとオニのことを放っておけないってイブキが言ったんだ。ちょっと待ってろ。何とかしてやるって山に戻っていったのが、あの人を見た最後になった」

「しかし、お前が今ここにいるのはそのおかげだ。礼を言えとは言わないがな」

「言うわけねーだろ」


 もし、そのイブキってやつに会うことができたなら、ばあちゃんのために一発殴ってやる。死んで守るなんて最高の自己満足だ。


「オニもヒトも、イブキの命によって守られた。あの境界線の赤は、イブキの血で染められたようなもの。だから、やすやすと越えることは許されない。オニとヒトは永遠に隔てられたのだ」

「もういい加減にしな! あんたは目の前にいるこの子たちが見えてないのかい?」


 しわくちゃで土に汚れた千代の手が、カイの白く滑らかな手を取った。


「イブキが望んだのはそんなことじゃない」

「ならば、境界線を引かせたお前が、それを消し去るとでも言うのか。出来もしないことを口にするな」


 小さな子どもがイヤイヤをするように、千代は頭を強く横に振った。


「その子もヒトとオニの間に生まれたんだろう? だのに、どっちかを選ばなくちゃいけないのかい? ヒトでもあってオニでもある。そんなたくさんの可能性を秘めた子なんだって、どうして思ってやれない? 境界線はヒトとオニを隔てるものじゃない。繋ぐものなんだよ」


 ハナは、胸元で髪留めを握りしめた。

 どちらでもないのだと思っていた。けれど、どちらでもある、のなら。ずっとぐらついていた世界に小さな光が灯る。ハナ自身の輝きが、ハナの世界を照らし始める。


「イブキが守ったのはあたしたちだけじゃない。この子たちと、この子たちの「これから」なんだよ。いつまでもあたしたちが出した一時しのぎの答えを押しつけてるんじゃ、あんまりだ」


 千代の目が、真っ直ぐにカイを見上げた。


「カイ。お互い、もういいだけ逃げ続けたろう。そろそろ一緒に足掻こうじゃないか。この子たちと一緒に足掻いて、無茶苦茶な答えを作っていくのもきっと悪くないよ」


 答えを探すんじゃない。作っていく。

 それは、千代がさんざん頭と心を使ってたどりついた一つの答えだった。


「このことを知ってる町の連中には話をつけてきた。あんたたちオニが山を下りるというのなら、あたしたちが責任を持って居場所を作る。今すぐ全員を、ってわけにはいかないけどね」


 千代の視線から逃れるように、カイは顔をそらした。


「――我らに、ヒトへ堕ちろと言うのか」


 吐き捨てるように言われた言葉に、千代は呆れた顔をする。


「堕ちるとはずいぶんな言い草だね。一緒に生きようじゃないか、って言ってるんだよ。いつまでひねくれてるんだい」

「お前には大して時間が残っていないだろう。ヒトの命は短いからな。そんなお前を信じるわけには――」

「俺がやるよ」


 陸が手を上げて言った。得意気な顔で、胸を張って、高らかに叫ぶ。


「ばあちゃんが死んでも、親父と俺がいる。少なくとも俺はまだまだ長生きするぜ。あと、やっぱりハナはもらってく。その責任分、しっかり働いてやるからよ。それに、あんたたちの中にだって、このまま消えちまうのは嫌だっていうやつもいるはずだ。自分自身のことなんだ。ちゃんと自分で決めさせてやれよ」


 その手がハナの手を取った。境界線を越えて繋がれた二つの手が、強く、強く、結ばれる。


「あたしも、陸と一緒にやる。できるか分かんないけど、みんなの役に立ちたい。だから、お願いします、カイ様」


 ハナもしっかりとカイを見据えてそう言った。

 カイは、ゆるりと首を振った。歪に切り取られた空を見上げ、大きなため息をつく。


「イブキは、本当にどうしようもないやつだった。自分たちのせいでオニとヒトが揉めている、互いを憎み合っているというのに、あいつはオニもヒトも千代との間にできた子も全て守りたい、自分は欲張りだから、などとのたまった。長である私の苦労も知らずにな」


 言葉とはうらはらに、その顔には慈しむような表情が浮かんでいた。そして、その目でじっと陸を見つめる。


「孫だけあって、こいつはイブキによく似ている。同じようにどうしようもない」

「まあ、それに関しちゃあたしも同感だよ。でも、そのハナって子が信じてるんだ。あたしたちも一緒に信じてやろうじゃないか」


 なんだかボロクソに言われている気がして文句の一つも言いたくなったけれど、そこはぐっと堪えて、カイの返事を待った。


「――私は、ヒトを信じるつもりはない。今も、そしてこれからも」


 カイの中にある諦めという凪いだ暗闇は、陸たちが掲げた小さな光では晴らせそうになかった。けれど、夜はゆっくりと明けていくもの。それさえ知っていれば、絶望する必要なんかないはずだ。


「だが、皆に話はしよう。全ての命運を私が握るのは、少々荷が勝ちすぎるからな」


 千代がほっと息を吐く。その顔に、ずっと背負い続けた重荷を下ろしたような解放感がにじんだ。が、それは一瞬のことで、ハナに向き直ったときにはもういつもの千代に戻っていた。


「まずはあんたからだよ。陸と一緒に行くと言ったね。あんたはうちで面倒を見てやる。ただし、働かざる者食うべからず。しっかり働いてもらうよ」

「は、はい!」

「ばあちゃん、いきなりそんなこと言うなよ。こいつビビっちまうだろ」

「そんなことない!」

「ハナ、お前に話しておくことがある」


 カイの言葉に、ハナが不安そうな顔をした。その手が、陸のTシャツの裾をきゅっと握りしめる。


「お前の名前のことだ。ハナという名は、お前の母親――サヨが付けたのだ」


 ハナが息を飲んだ。陸は、Tシャツをつかむハナの手に自分の手を重ねた。その温もりが、ハナの緊張を緩めていく。


「お前の父親がサヨに言ったらしい。お前の笑顔は花のようだ、とな。サヨは最期まで父親の名を明かさなかった。胸に秘めて死んでいった。残したのは、お前とその名だけだ」


 カイは、サヨというオニの面影を探すようにハナの顔を見つめた。


「大切にしろ」

「――ありがとうございます」


 ハナはカイに向かって、にこりと微笑んだ。それは、カイの記憶の中にあるサヨの笑みによく似ていた。


「もう行け。お前の行きたいところへ」

「はい」


 ぺこりとカイに頭を下げると、ハナは陸の手を取った。


「陸、一緒に来て」

「なんだよ、山を下りるんじゃねーのか」

「ちょっとだけ。いいですか?」

「二人とも、ちゃんと帰ってくるならね」


 千代がそう言うと、ハナはしっかりとうなずき返した。そして、行こう、と陸の手を引いた。

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