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 その日、夕陽が沈んで、空が暗くなっても千代は帰ってこなかった。大人しく待っていろ、とは言われたけれど、いくらなんでも限度がある。陸は、そわそわと落ち着きなく庭を歩き回っていた。


「鬼沢くん、あんまり気を張りすぎないほうが」

「分かってるよ」


 すべきこととしたいこと。その二つはなかなかイコールにならない。つい、その苛立ちをぶつけるような物言いをしてしまう。


「先生に当たるなよ。だったら、もういっそ本拠地に乗り込んでやろうぜ。ここにいてもどうしようもねーだろ」


 後先考えない小野寺のそんな提案に乗ってしまいそうになる。


「待て待て少年たちよ。ここは父さんの昔話でも聞いて気を紛らわすってのはどうだ? とっておきの、父さんと母さんの運命的な出会いの話だぞ」

「うるせぇ、クソ親父」

「クソ親父はヒドいわ。父さん泣いちゃう」


 言葉とは反対にガハガハと笑いながら孝男はどっかりと縁側に腰を下ろす。そして、陸に隣に座るように促した。無視しようとしたが、孝男の大きな手が強引に陸の手を引いて座らせた。


「ホステスと客だろ? どこが運命的なんだよ」

「馬鹿かお前。母さんがいた店は、席に着いただけで何万円っていうすごい店だったんだぞ。いくら父さんが母さんにべた惚れでも、そんな場所で愛を育んでいけるわけないだろ」


 孝男は、陸の頭を小突いた。相変わらず加減が下手くそな馬鹿力で、思わず倒れそうになる。


「えー、じゃあどうやって由梨子さんのこと騙くらかしたわけ?」

「小野寺くん、その言い方はちょっとひどいと思うけど」


 いつの間にか二人とソラも、興味津々とばかりにちゃっかりと陸のもとに集っていた。


「あれは父さんがまだ東京で会社員をしていたときの話、先輩のおごりで居酒屋に行った帰りだったな。突然男女が怒鳴り合う声がして、見に行ったら、キラキラのドレスを着た、そりゃあもう美しいなんて言葉じゃとても足りないくらい絶世の美女――まあ、母さんのことな。その人と薄汚れたおっさんがやり合ってたんだよ。修羅場かーなんて思ってたら、その男が母さんのことを殴ったんだよ」

「うわ、そいつ最悪」


 吐き気がする、とでも言うように、小野寺が顔をしかめて舌を出す。


「それで父さん飛び出して、ラグビー部仕込みのタックルをお見舞いして助けたわけよ。なんか俺、王子様みたいじゃない? なんて自惚れてたんだけどさ。母さんは感謝するどころか、俺の顔面を蹴り飛ばしたんだ」


 そのときのことを思い出したのか、孝男がそっと右頬を押さえる。どこかうっとりしているように見えるのはきっと気のせいだ。


「関係ないやつはすっこんでろ! ってピンヒールで踏みつけられてボコボコにされて、父さん危うく新しい世界の扉を開けちゃうとこだったわ」

「息子の前で性癖の話なんかするんじゃないの」


 麦茶のグラスを乗せたトレイを手にした由梨子が爪先で孝男の背中を小突いた。氷が揺れて、カラカラと涼しげな音を立てる。


「あの人も追い詰められてたのよ。ああいう場所は無理して来る場所じゃないって言ったのに、借金してまで来るもんだから、仕方なく出禁にしてもらったの。そしたらストーカーみたいになっちゃって」


 ふぅとため息をつく由梨子の手にした麦茶が、一瞬水割りに見えた。


「あのとき母さんは俺のことを守ろうとしてくれたんだよなー。すごい勢いで痛めつけられてたから、相手もドン引きして逃げていったもん」

「――そうそう。ああでもしないと孝男さん、刺されてたかもしれないもの」


 由梨子はにっこりと微笑んでいるが、少し間が空いたのはなぜなのか。陸たちはそう思ったけれど、とても口にはできなかった。今度はこっちがサンダルで踏みつけられてしまうかもしれない。


「だって俺を殴る母さんの手、震えてたから。怖くてたまらないくせに人を守ろうとするこの人は、なんて優しい人なんだろうって感動したんだ。それで好きになっちゃって押しかけボディーガードになったわけ」

「それってストーカーが入れ替わっただけじゃん」

「で、でもそれでお二人は付き合うようになったんですね」


 岡嶋が小野寺の発言をフォローするように慌てて言うと、由梨子はくすくすと楽しそうに笑った。


「なんでも一人でできると思ってたのよ、あのころは。実際、両親と死に別れてからはそうやって生きてきたしね。誰かに守られたら自分が弱くなってしまうと思ってた。でも、孝男さんに会って分かったの。守ってもらえるから強くなれるんだって」


 孝男の手をそっと取る由梨子を見て、小野寺が面白くなさそうにそっぽを向いた。


「だからね、あんたが好きになったその子も、ずっと一人で頑張ってきたんでしょう。そんな子の手を取るんだったら、死んでも守る覚悟をしなさい。その手は絶対に離しちゃダメなの」

「お前も、誰かのために悩めるようになったか。少しは大人になったんだな、少年」


 孝男は陸の肩を力いっぱい叩く。体の一部が吹っ飛んだんじゃないかと思うほどの衝撃だった。この馬鹿力め、と恨めしくにらんだが、それは孝男と由梨子の親心に対する照れ隠しでもあった。

 今日の月は、きれいな丸を描いていた。まるで夜空に空いた穴のようだ。その向こうには別の世界があって、こちらをのぞき込む誰かがいるのではないか。陸はかつてそんなことを思っていた。そしてその「誰か」とは陸自身――「オニ」と呼ばれることのない自分なのではないか、と。

 そんな世界に憧れて、手を伸ばしていた。けれど、今は――。

 地面に伏せていたソラが、何かに気付いたように立ち上がった。山の入り口に向かって、大きくワン! と吠える。全員の視線が集った暗闇の向こうから、草を踏む音が聞こえてきた。


「なんだ?」


 暗闇から突然飛び出してきたそれは、まるで色鮮やかな小鳥のようだった。月明かりの下で薄茶色の髪が、弾むように揺れ、大きな目が居並ぶ顔をざっと見回した。

 そして、陸の上にぴたりと視線を止めると、震える声で叫んだ。


「お願いします。姉さまを、助けて!」


 時間が止まったような瞬間だった。孝男がようやく思い当たったように口を開く。


「君は、オニの子か」


 こくりとうなずくと、その子は握りしめていた髪留めを陸に差し出した。


「お前、もしかしてアマネってやつか」


 陸が問うと、その子――アマネはもう一度うなずいた。岡嶋と小野寺は顔を見合わせて「本当にいたんだ」と言い合っている。


「お願いします。このままじゃ姉さまが……姉さまが……っ!」

「落ち着いて。まずゆっくり息をしなさい。それから、私たちに分かるように順を追って説明してちょうだい」


 由梨子が、小野寺と孝男が蹴り出してアマネを縁側に座らせた。荒い呼吸を続けていたアマネが、背中を擦る由梨子の手に促されるように深く息を吐く。

 そして、ハナが境界線を越えたことが長に知られてしまったこと。そして、オニの(おさ)であるカイが、ハナを罰すると決めたこと。その決行が今夜であることを話した。


「おいおいおい。これってかなりヤバいんじゃねーの?」

「千代さんってまだ戻ってこないんですよね。連絡って取れないんですか?」

「お袋はケータイとか持たないタイプなのよ」

「アナログにもほどがあるわね」


 みんなの声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。陸の頭の中で、今まで見た光景が、聞いた言葉が、音が、感情が、ぐるぐると回って、陸の知らない何かを作り上げていく。

 ずっとうつむいていたアマネがゆっくりと顔を上げた。その頬に、涙が一筋伝う。


「あなたに会って、姉さまは変わりました。悔しいけど、私じゃあ姉さまを変えられなかった。だから、私はあなたのことちょっと嫌いでした。でも、姉さまのことを助けられるのはあなただけだから」


 そっと開いた手にある髪留めが、月の光を吸い込んで光を放つ。きらきら、という形容詞が似合わない光。もっとくすんで、ざらついた、手触りのある光が陸の目に宿った。


「お願いします。姉さまの世界を、終わらせないで」


 ハナの手を握っていたはずだ。どんなに遠く感じても、境界線の上であっても間違いなく触れた指先には、まだハナの温もりが残っている。


「――おい、全員で野菜集めてカゴに詰めろ」

「んで、それからどーすんの?」


 小野寺の言葉に、陸はにやりと笑った。もう、誰かや何かを待つのはやめだ。いま自分がしたいことだけ分かればそれでいい。


 ――命を懸ける覚悟くらいはしておきな。

 ――死んでも守る覚悟をしなさい。


 千代と由梨子はそう言った。けれど、それはきっと文字通りの意味ではなくて、ハナの未来を背負う覚悟と責任を知らなければいけない、ということ。陸の心が大きく息をしているように膨らんでいく。


「直接持っていってやるんだよ。カイってやつにさ」


 ハナを変えたのが俺だというのなら。その先を――「これから」を守るのも俺だ。

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