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カイ様に与えられた三日の期限。その最後の夜はひどく静かだった。虫の声も、葉ずれの音も、風の音も何も聞こえない。いつものように膝の間に顔を埋めて座っている私の耳の奥で沈黙だけが、キンと響いている。
ずっとぐらぐらしていた私の世界は、この三日の間、ちっとも揺れなかった。終わりへと向かう時間は、この夜のように静かで、穏やかで、澄み切っていた。
遠くから足音が近付いてくる。立ち上がって扉を開けると、思っていたより外は明るかった。見上げれば、木々に切り取られた歪な空にぽかりと大きな満月が浮かんでいた。今日、世界がこんなにも静かなのは、きっとこの月に怯んでいるせいだ。
足音が目の前で止まった。月明かりに照らされたカイ様の姿は神々しいほどの美しさだった。その青さをたたえた目で見つめられると、思わずひれ伏してしまいそうなほどだ。
「お前には三日、時間を与えた。それでもここにいるということは、覚悟を決めたと思ってよいか」
「はい」
声は震えなかった。どこかに恐怖はあるのだろう。でも、それよりこうなってよかったという思いのほうが強かった。逃げたって行く場所なんかない。これから先も、居場所を求めてさ迷うような生き方しか待っていないのなら、いっそ断ち切ってしまいたい。そして、それが陸を守ることに繋がるならなおさらだ。
カイ様は、私に背を向けると歩き出した。私もその背中に従う。
「待ってください」
静けさを破る声に振り返ると、アマネがいた。いつもは跳ねるような二つ結いの髪も、弾むような声もそこにはなかった。ぐっと拳を握りしめて立つその姿は、私の知っているアマネからずっと遠い。月明かりの中でまばゆくきらめく着物の鮮やかさだけが、その名残を留めている。
「私は全て知っていました。知っていて、黙っていました」
どれくらいの涙を流したんだろう。泣き腫らしたアマネの目を見て、私の胸に申し訳なさが募る。
「でも、姉さまを一人にしたのは私たちじゃないですか。除け者にして、こんな場所に追いやって、誰もが見て見ぬ振りをして。それなのに、罰だけは私たちと同等だなんてあんまりです。だから、姉さまが罰を受けるのなら私も受けます」
「ハナ」
アマネの訴えを黙って聞いていたカイ様は、少しの間を置いて、私の名前を呼んだ。
「ここに住むと決めたのはお前だったな」
その視線が捉えているのは、アマネではなくて私だった。
「――はい」
「他の者がどうだったかは知らんが、少なくとも私はお前を除け者にしたつもりはない。だが、お前は一人になった。それは何故だと思う」
「私が、ちゃんとしたオニじゃないから」
みんなと、同じじゃないから。だから――。
「違うな。我らの仲間となることを拒んだのはお前のほうだ」
カイ様の言葉はどこまでも真っ直ぐで、落ち着いていた私の世界が射抜かれる。ぐらぐらが戻ってくる。足に力を入れないと、立っていられないくらい。
「除け者となることも、掟を破ることも、すべてお前自身が選んだのだ。その責めを負うのは当然だと、私は思うがな」
「そんな言い方――っ」
「アマネ、いいの」
「でもっ!」
「いいの」
もう考えることも面倒くさい。どうなったっていい。私が悪い。それで全てが収まるのなら、私が全部飲み込んでやる。オニでもヒトでもない私にできることなんて、それくらいだ。
「私が黙っているよう言ったんです。だから、アマネは悪くない」
「いいえ、私も――」
「アマネ!」
私が叫ぶと、夜が静寂を取り戻した。アマネの目が、また新しい涙を生み出している。泣かないで。そう言ってあげたいけど、私が原因なんだからどうしようもない。
「あんたに頼みたいことがある。これをもらってほしいんだ」
袂にしまっていた髪留めを取り出して、アマネの手に握らせる。
ジンやセキと争ったときについた細かな傷は、その輝きを曇らせてしまったけれど、それは誰のものでもない。私だけの光。
「……いやです」
「あんたは、ずっとあたしのそばにいてくれた。最初はちょっと面倒だなって思ったけど、本当はすごく嬉しかった。――サンキュ」
陸からもらったとっておきの、秘密の言葉。
「これね、ありがとうって意味なんだって。陸が教えてくれたんだ。最初にあんたに使ってやろうって思ってたから。最後にちゃんと言えてよかった」
アマネの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。ぎゅっと握りしめたその手が、私の光を包み込む。
「サンキュ」
もう一度言って、私はアマネを抱きしめた。初めての温もりは、なんだかちょっと照れくさい。カイ様に向き直ると、大きく息を吐いた。ぐらぐらしていた世界が、また静けさを取り戻していく。
「アマネは関係ない。罰を受けるのは私だけです」
「そうか」
空に浮かぶ月を見上げていたカイ様は、小さくそう言うと再び歩き出した。私もその後に続く。
私たちが向かう場所の見当はついていた。それは、死んだオニが眠る場所。
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二人がいなくなって、世界がざわめき始める。風の音、虫の声。いつも通りに戻ろうとする世界は、ハナの存在を消そうとしているのではないかとアマネは思った。
「姉さまが、いなくなるなんて」
アマネにとって、ハナは光だった。
アマネが物心ついたときには、ハナはもうあの小屋に一人で住んでいた。周囲に「あいつはヒトの子だ。近付くんじゃないよ」としつこく言い含められ、なんだか恐ろしい存在なのだと思っていた。
ある日、アマネは衣類をしまい込んだ小屋から、たくさんの色を散りばめた着物を見つけた。いままで知っていた色――木々の緑や茶、土の黒、空の青、雲の白、夕陽の橙――よりもっと鮮やかで美しい色たちに、アマネは心奪われた。
その着物に袖を通したとき、世界が広がった気がした。心が軽くなって、どこまでも行けると思わせてくれた。けれど、みんなは口々に「そんな派手なものを身に着けるんじゃない。目立ちすぎる」と言った。
山の中で繰り返されるだけ毎日は、アマネの世界をつまらない色で塗りつぶしてくる。それに反抗するように、アマネはその色鮮やかな着物を着続けた。
「あんた」
そんなアマネを呼び止めたのは、調理場に野菜を置きにきたハナだった。触れてはいけない存在だったハナに声を掛けられて怯えながらも、ハナの着物の鮮やかな赤に目を奪われた。
「その着物、あんたによく似合ってる」
たった一言だった。けれど、その一言がアマネの世界を塗りつぶしていたつまらない色を全部吹き飛ばして、鮮やかな色をまとわせてくれた。
あの日から、ハナはアマネの光だった。
ぎゅっと髪留めを握りしめる。涙を拭い、挑むように空に浮かぶ丸い月をにらみつけた。
「姉さまがいなくなるなんて」
そんなの、絶対にいやだ。この光を守らなくちゃいけない。弾かれたように、アマネは走り出した。
月明かりを逃れて潜む闇が、世界を黒く染めてやろうと手を伸ばしているような気がした。その手から逃れるように、飛ぶように走った。
赤い境界線が見える。大きく息を吸うと、アマネはそれを飛び越えた。




