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隼のところへは一人で行くつもりだったのに、小野寺はソラと一緒にやってきて「散歩だから。これただの散歩だから」と言うし、そして岡嶋までもが「僕はその付き添いで」とついてきてしまった。
「いいか。話は二人でするからな。絶対ついてくんなよ」
「わーかったって。ったく、しつけーな。そんなんじゃハナちゃんに嫌われちゃうんだぜ、なあ先生」
「う、うん」
陸もようやく小野寺のからかいに耐えられるようになってきた。いちいち突っかかっていたらこっちの身が保たない。
「おーう、陸。そっちは孝男と一緒に来たっていう友達かい?」
隼の家まであと少し、というところで軽トラに乗った吉田のじいさんとばあさんにかち合った。
「ちょうどよかった。うちの隼が最近元気なくてねぇ、暇だったらちょっと顔出していってくれないかい?」
陽に焼けて黒くなったその顔をくしゃりとさせて笑う二人は、絵に描いたような田舎の老夫婦だ。その裏でオニに肉を運んでいるなんて、誰が思うだろう。
「この辺は若い連中がどんどんいなくなっちまうからな。陸がずーっとここに残ってくれるなら、隼のやつも心強いんだがなぁ」
「本当にねぇ。あの子も可哀想な子だから」
「――じいさんも山に行ってるんだよな」
人好きのする吉田のじいさんの笑顔が強ばった。ばあさんは怯えたように陸の後ろにいる岡嶋たちに視線をやった。
「いま、俺も小屋に行ってる。これってさ、ずっと続けるつもりでいるの?」
「滅多なことを言うもんじゃない。とくに他所もんの前ではな」
「そうだよ、陸。千代さんに叱られるよ」
「俺、もう巻き込まれてるんだよ。どう思ってるのかくらい教えてくれてもいいだろ」
じいさんはふぅっと息を吐いて、軽トラのギアをパーキングに入れた。窓枠に肘を掛けると、陸をじっと見つめた。暗い光をたたえたその目は深い沼のようだ。
「俺らがどう思うかなんて関係ないんだよ。あの山にあいつらがいる。どうやったってその事実は変わらんからな。本当に必要なら、多少のことには目をつぶれるのが大人ってもんだ」
じいさんは陸の心の奥をのぞき込むように目を細めた。
「疑問を持つのは結構だけどな、世の中ちゃんと答えがあることばっかりじゃない。それに、知らなくていいことだってある。誰かのせいにしておいたほうが楽なんだよ」
吉田のじいさんの左手がギアをドライブに入れると、のそりとタイヤが動き出した。
「じいさん、ちょっと待てよ」
「隼のこと、よく見てやってくれるか」
助手席のばあさんが涙を拭うような仕草をしたのが見えた瞬間にアクセルが踏まれ、軽トラが陸たちを置き去りにした。
「具体的なことはよっぽど話したくねぇってことか。前途多難だな、こりゃ」
「僕たちですら他所者扱いだもんね。オニとなったら、もっとヒドいのかも」
岡嶋の言葉に、陸はずっと胸に引っ掛かっていたことを口にする。
「お前らはさ、オニって何だと思う?」
「そりゃ赤とか青とか――」
「いや、そういうことじゃなくて。俺たちと何が違うのかってこと」
陸にとってハナは、どこか自分に似た存在だった。二人とも、集団の中で浮かび上がってしまう自分の存在をずっと持て余していた。そんな世界を恨めしく思っていた。だからこそ、ハナは陸の心を開いて、陸も知らなかったその奥に触れることができた。
それなのに、あの境界線や掟があるだけで二人は隔てられなくてはならないなんて、どうにも納得がいかない。
「きっと、ヒトとオニっていう別々のものがあるんじゃなくて、ヒトと違うものがオニにされたんだよ」
それはどういう意味かと問う前に、隼の家にたどり着いて――当の本人が、ちょうど外に出てきたところだった。
「あれー、みんなそろってどうしたの? お誘いなら電話してくれたらよかったのに」
隼はいつものように人懐っこく笑ったけれど、その目はわずかに動揺していた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
「――もちろん。愛の告白なら応えてあげられないけど」
「ちげーよ。お前らはその辺で待ってろ」
「えー」
「そういう約束でついてきたんだろうが」
心配そうな岡嶋と不満そうな小野寺を残して、陸は隼の背中を追った。
隼は、慣れたように田んぼのあぜ道を右、左と進んでいく。途中で出会う作業中のおじさん、おばさんたちが隼に手を振ったり、声を掛けたりしてくる。初めて会ったときに陸が思ったとおり、隼はそこにいるだけでみんなを惹きつける存在だった。
けれど、今の隼は以前と別人なんだと晴香は言う。だとすれば、いったい何が隼を変えてしまったのか。
五分ほど歩いて着いたのは、田園風景の中にぽつりと佇む小さな森。俗に言う鎮守の森だ。朱塗りが剥げて白っぽくなった鳥居をくぐると、生い茂る木々に日の光が遮られているせいか、空気がひやりと冷たくなる。
「で、話って? まさか本当に愛の告白――なんてね」
「俺の用件くらい分かってんだろ」
「えー? 何のことかなぁ」
「はぐらかすなよ。祭りのとき、俺と一緒にいたやつ……ハナがオニだって気付いたんだろ。そんで、それをチクった」
「なんの証拠があるのさ。俺はそんなこと気付きもしなかったし、チクったりもしてないよ」
「ハナが履いてたスニーカー。晴香が言ってたけど、あれ、もともとお前のものだったんだろ。その意味が分かるのはお前だけなんだよ」
晴香の名前を出すと、隼の顔がわずかに歪んだ。けれど、それはすぐに笑顔で塗り込められてしまう。
「そっか、バレちゃったら仕方ないな。でも、間違ったことはしてないつもりだけど。ヒトとオニの間にはルールがある。それを破ったら罰を受けるのが当然でしょ」
木漏れ日が隼の顔を白と黒のまだらに染める。笑っているのか、泣いているのか、怒っているのかさえも曖昧にしてしまう。いま隼が履いている黒いスニーカーを締め上げる赤い靴紐は、あの境界線を陸に思い出させた。
「陸はさ、あのオニのことが好きなわけ? 「LOVE」なんて紙袋持って会いにいっちゃうくらい。信じられない。だってオニなんだよ。俺たちと違う存在なんだよ? 好きになるなんてあり得ない!」
言葉の最後は、まるで叫ぶようだった。隼に貼り付いていた仮面がひとつ、またひとつと剥がれ落ちていく。
「オニじゃねーよ。あいつの名前はハナだ」
陸がぽつりと呟くと、隼はハッと馬鹿にするような声を漏らした。
「そんなのどうだっていいよ。知りたくもない」
名前を呼ばれない孤独を陸は知っている。「陸」という名前の前に「オニ」というフィルターが掛けられてしまうと、多くの人はその奥をのぞこうなんて思わない。そして、フィルターの奥の「陸」はどんどんと臆病になってしまう。気が付いたときにはもう、そのフィルターは分厚い壁になっていて、何も――光でさえも通さなくなっていた。
「俺さ、この町から出られないんだ。じいちゃんが死んで、親父が死んだら、次は俺が肉を届けなくちゃいけないから。やりたいこともなりたいものもいっぱいあるのに、オニがいるから全部諦めなくちゃいけない。おかしくない? 納得できるわけないじゃん。だから大っ嫌いだよ。オニも、この町も、それを当たり前みたいに受け入れて、俺に押しつけてくるじいちゃんもばあちゃんも親父も大嫌いなんだよ!」
はあっと大きく息をついて、隼は陸をにらみつけた。Tシャツの襟元からネックレスの羽根がこぼれ落ちて揺れる。それは、空を求めて羽ばたいているようにも見えた。隼は、胸元で揺れるその羽根をぎゅっと握りしめた。
「文句があるんだったら、お前が勝手に好きなようにやればいいだろ」
「陸がそうした結果はどうなったの? あのオニは罰を受ける羽目になってるじゃん。それは俺がチクったからじゃない。陸が無責任に境界線を越えさせたからでしょ? 陸のせいだよ。全部全部、陸のせいだよ――俺のせいじゃない!」
陸の頭にカッと血が上る。気が付けば、左手で隼の胸ぐらをつかんで引き寄せていた。
「殴りたければ殴れば。でも、ヒトとオニの関係は変わらない。どうせ、陸には何もできないんだからさ。だったら、オニ同士がつぶし合うのを黙って見てなよ」
右手を強く握りしめる。もうこの手を誰かを傷付けるためだけには使いたくない、そうハナが思わせてくれたのに。
ヒトとオニの関係は変わらない。
陸には何もできない。
隼の言葉は、陸の一番弱い部分を突いた。たとえ、ハナを助け出すことができたとして、それはきっと正しい答えじゃない。間に合わせの解答。ただの一時しのぎだ。いまの陸にはハナに「これから」を与えてやることができない。
「ほら、さっさと殴りなよ」
囁かれる声に、胸の募るだけの苛立ちに導かれるように、陸は右手を持ち上げる。
――やめてよ、鬼沢くん。
久し振りに聞こえたその声も、陸の手を止められなかった。ごめん、委員長。――ごめん、ハナ。
拳を振り下ろそうとしたその瞬間、陸は突然横からやってきた衝撃によろめいた。その拍子に隼の胸ぐらをつかんでいた左手が外れる。
「鬼沢くんダメだよ」
「そうそう、こんなやつ殴ったら男が下がるぜ」
「――お前ら」
そこに立っていたのは岡嶋と小野寺、そしてソラだった。陸を突き飛ばしたのは岡嶋らしい。
「ごめんね、僕たちどうしても気になっちゃって」
ソラがクゥンと甘えるように鳴き、陸のジーンズに鼻先を擦りつける。
岡嶋が前に歩み出てると、隼の前に立った。隼は、突然現れた岡嶋たちに慌てていたが、何とか体勢を立て直して強がってみせる。
「なんだよ、あんたたちは他所者だろ。関係ない――」
強く風が吹いた。木々が揺れ、それに合わせて木漏れ日が揺れる。踊る光と風の音に混じるようにして、パン、と乾いた音が鳴った。
隼は驚いたように、岡嶋に打たれた頬を押さえている。陸も、隼と同じくらい驚いて岡嶋を見つめていた。小野寺とソラは、なぜか得意気な顔をしている。
「君が抱えてるものは僕には分からないし、解決もしてあげられない。でも、君が鬼沢くんを傷付けたことは絶対に許せないんだ。僕は、鬼沢くんの友達だから」
「非っ常に不本意だけど「俺たち」な。先生」
ワン! と同意するようなソラの声が響く。隼はうつむくと「……くっだらない」と、吐き捨てるように言った。
「――お前のしてることなんて、どんな理屈をつけてもただの八つ当たりでしかないんだよ。俺も、ハナに会うまではそうだったからさ」
自分勝手な諦めと絶望。そんなものに支配されて、自分は今まで一体どれくらい、差し伸べられた手を、優しさを見逃してしまったんだろう。
「お前は、なんでまだそのネックレスしてんだよ。ホントは何も諦めたくねーんだろ」
「……晴香は」
うつむいたまま、隼がぽつりと呟いた。
「晴香は、将来東京に行ってファッションの仕事をしたいんだって。ずっと一生懸命勉強してる。でも、一緒にいたら俺はいつか晴香に、その夢を諦めろって言わなくちゃいけなくなる。そんなの嫌なんだよ。俺は、晴香をこんなくだらないことに巻き込みたくないんだよ」
隼の声に涙が混じる。震える肩をなぐさめるように、葉ずれの柔らかい音が鳴った。
「晴香ちゃん、まだブレスレットしてるぜ」
不意に小野寺がそう言った。顔を上げた隼の目にかすかな光が宿る。
「そういうとこ、ちゃんと見てやれよ。じゃねーとお前、モテねーぞ」
用が済んだら行こうぜ、と小野寺に促されて、三人(と一匹)は、歩き出した。
「陸」
すれ違いざまに隼が呼び止める。
「……ごめん」
「謝るのは俺にじゃねーだろ。てか、俺こそ殴ろうとして悪かったな」
鳥居をくぐって森の外に出る。忘れていた強い日射しが陸たちを強烈に照らした。




