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「あら、あの子帰ったの? じゃあさっさとご飯食べちゃいなさい。もうみんな先に食べたんだから」
居間に戻った陸に、由梨子が声を掛けた。漂う醤油のにおいが、陸の空腹を刺激する。
「ほら、吉田さんからもらったあの角煮だよ」
「さすが精肉やってるだけあって絶品だよね。父さん、もう少し食べちゃおうかな」
「それより、聞きたいことあるんだけど」
和やかだった空気が、ぴりっと緊張をはらんだ。千代と孝男、そして由梨子の間に意味ありげな視線が交わされる。やっぱり、みんな知ってたってことか、と陸は確信する。
「この山のオニのこと」
「は?」
後ろからおかしな声が聞こえた。その発生源に思い当たって、陸は慌てて振り返った。岡嶋と小野寺がポカンと立ち尽くしている。しまった。忘れてた――わけではないけれど、忘れていた。
「オニって何? 赤とか青とかの――角はえて、ごっつい金棒持ってるやつ?」
小野寺のステレオタイプな想像を訂正するより先に、千代のげんこつが陸の頭頂部に炸裂した。
「い……っ!」
「むやみやたらに話すんじゃないって言っただろうが。このクソガキが」
「あ、あの、僕たち、いないほうがいいなら席を外しますけど」
「残念だけど、もう聞いちゃったんだからそうはいかないよ」
「おっさん……羽交い締めってどういうこと?」
「やぁね、逃げられるわけないじゃない。さ、みんな座りましょうか。ね?」
由梨子がにこやかな、けれど、有無を言わせぬ笑顔で二人の前に立ちはだかる。恐怖に引きつる岡嶋と小野寺に、陸はちょっと申し訳なく思った。
二人に基本的な説明を済ませると(なかなか信じてもらえなかったが、千代と由梨子が強引に納得させた)、陸はハナと小屋で会っていたこと、先日の祭りに一緒に行ったこと、そしてそれが隼とオニにバレたらしいこと、などを話した。
陸が話し終えると、居間に沈黙が充満する。
「……で、どうしたらいいかと思って」
うかがうように陸が口を開くと、再び千代のげんこつが落ちてきた。ついでに、由梨子の大きなため息と孝男の同情するような視線付きだった。
「まったく、誰に似たんだか。考えなしに動くね、この子は」
「本当、孝男さんそっくりで困るわ」
「陸、父さんそろそろ泣いていい?」
「知るか」
痛む頭を押さえながら、陸は唇をとがらせた。だいたい、初めからもっと詳しく説明してくれたらよかったのに、と思いながら、味噌汁に口をつける。
陸の目の前には、長くなるだろうから食べながらにしましょう、と由梨子が用意したおにぎりと味噌汁、そして隼が持ってきた角煮が並んでいた。五人に囲まれた一人だけの食事はなかなかに食べづらい。
「そもそも、その掟っていうの? そんなめんどくせーのがなんでできたわけ?」
小野寺が陸のおにぎりを奪い取った。にらみつける陸を無視して、見せつけるようにわざとらしくかじりつく。
「そんなもん作って、わざわざ山中に境界線を張り巡らさねーと、オニはこっちに侵略でもしに来んのかよ?」
「侵略する気なら掟も境界線も意味ないと思うけど」
確かに、岡嶋の言うとおりだ。境界線、とは言ってもただの赤いロープでしかない。越えようと思えばいつだって越えられる。けれど、ジンは「閉じ込める」という言葉を使った。
あの境界線は、隔てるものではなくて、オニを閉じ込めるためのもの――?
「掟っていうのは、お互いのケジメみたいなもんなのさ」
千代は煙を吐きながら、ぽつりと呟いた。
「ヒトとオニはもう二度と関わりを持たない。そうしなきゃ守れないものがあったんだ」
「守りたいもの?」
また大人同士で目配せが行われた。この後に及んでも、話すべきラインを見極めるつもりなのか、と陸はイラついてしまう。勝手に巻き込んでおいて、肝心なことは何も教えないなんて虫がよすぎはしないか。陸のそんな思いが顔に出ていたのか、空気を変えるように岡嶋が新しい質問をする。
「掟を破ったらどうなるんですか」
「正直なところ、分からないんだよ。掟ができてから破られたのは一回だけ。十五……いや、十七年前だね。しかもそれはこの土地の男じゃなくてね。気が付いたときにはもう姿を消していた。向こうの、オニの娘がどうなったかなんて、こっちには知らされないしね」
一度だけあった掟破り。それと同じようなことが今また起こるかもしれない、ということか。岡嶋が、腑に落ちないような顔で首を傾げる。
「岡嶋、どうした――」
「それにしても陸が女の子とねぇ。ずっと心配してたけど、ちゃんと成長してたのね」
「うんうん。父さんと母さんをお手本にすれば間違いはないからな」
「ば……っ、そういうんじゃねーし」
陸の顔が赤くなったのを見て、小野寺がニヤニヤと追撃する。
「ホントだよなー。山にオニがいるってことより、陸に好きな女ができたってことのほうが信じらんねーわ」
「だから違うって言ってんだろ。お前、マジで殴るぞ」
「はいはいはいはい、分かりました分かりましたー」
「殴る。いやぶっ殺す」
「鬼沢くん、落ち着いてー!」
騒がしさを取り戻した食卓で、千代はやれやれというように煙草をふかしていた。煙の行く先をたどっていたその視線が、隣の部屋の仏壇に飾られた空っぽの写真立てに向かう。
「とにかく!」
顔を赤らめた陸が立ち上がって叫ぶと、居間はしんと静まり返った。
「明日、隼に会いにいく。あいつがなんでこんなことしたか知りたいんだ」
決意表明のように、陸は角煮にかぶりついた。




