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「ホントにごめんね。僕のせいで……」

「だから、お前のせいじゃねぇって言ってんだろ」

「ごめん……」

「そんなにヘコヘコ謝ってばっかりだから、あいつらにも馬鹿にされるんだろうが。人のことなんか気にすんなよ」


 岡嶋を見ていると、なんだかイライラした。

 卑屈な態度のせいだけじゃない。もっと、何か奥のほうが疼いて、陸の心を揺さぶってくる。

 陸が初めて岡嶋に会ったのは高校の入学式だった。

 岡嶋と鬼沢、で出席番号が前後していたせいで、高校に入って初めて口をきいた相手でもある。

 事件が起こったのは入学式が終わったときだった。

 陸の赤毛に目をつけた上級生が絡んできたのだ。売られたケンカは残さず買ってきた(そして勝ってきた)陸は、その日もためらわなかった。たちまち大騒ぎになって、きゃあとかわーとか声が上がった。

 何人かを殴り飛ばしたとき、後ろから「危ない!」と声がした。振り返ると、パイプ椅子を振り上げた上級生の腰に誰かがしがみついている。それが岡嶋だった。


「な、なんだよ、こいつ!」


 しがみつかれたほうは、それを振り払おうと必死に腰をくねらせている。その姿があまりにも滑稽で、悲鳴の中にクスクスと笑い声が混じった。


「離せよ、この。離せってば!」

「おめーがな」


 パイプ椅子をもぎ取って、顔に一発ぶちこんでやると、そいつは簡単に吹っ飛んだ。それと一緒になって岡嶋まで廊下に転がった。


「あたた……」

「――大丈夫かよ」

「う、うん。ありがとう。鬼沢くんって強いんだね」


 陸の差し出した手を岡嶋が取って立ち上がると、へらりと笑った。

 そして、その日から岡嶋は『オニ』の子分として、全校生徒と教師に認識されることになってしまった。


「鬼沢くん、行っちゃうんだね」

「まぁ……な」

「どれくらい遠いんだろ。僕、遊びに行ったりしてもいいかな」


 陸がぴたりと足を止めた。


「お前さ、俺のことどう思ってるわけ?」


 思わず口を突いて出た言葉に、陸自身がうろたえてしまう。なんだこのめんどくせー女みたいな質問は……!


「いや、つまり、お前がいろいろ絡まれるのは俺のせいなのは分かってるだろ。なのに、なんでそんなヘラヘラしてられるんだよ」

「なんでって、鬼沢くんはいつも僕を助けてくれたのに」


 陸の心がじくりと疼く。

 かさぶたの端っこがめくれて、血が滲んだときのようなくすぐったさと痛み。


「変なやつ」


 陸が歩くその後ろを岡嶋が小走りでついてくる。街灯に照らされて、二つの影が伸び縮みしながら二人と一緒に進んでいく。


「つーか、お前の家ってどこだよ」

「あのアパート」


 岡嶋が指した先にあったのは、今にも崩れそうなボロアパートだった。

 まるで百年前からそこにあったんじゃないかというくらい(そんなわけはないが)朽ちていて、その中で人間が生活を営んでいるとはとても思えなかった。

 剥き出しの階段はいたるところが錆びていて、触れたら崩れてしまいそうなくらいに頼りない。各部屋の窓のサッシには変色したビニール傘がオブジェのように何本もぶら下がり、駐輪場とおぼしきスペースには陸が子どものころに流行ったキャラクターの自転車が横倒しに倒れていた。


「……ここかよ」


 そう言ったきり言葉を失った陸に、岡嶋は苦笑いをした。


「まあ、よくある話だけど。父親がちょっと、お金にだらしない人だったんだ」


 岡嶋の説明によると、父親の借金が原因で両親は離婚。だが、母親も連帯保証人だったため、今も借金の返済に追われているのだとか。当の父親は行方をくらまして、現在どこでどうしているのか分からないらしい。


「お前の人生、なかなかハードモードだな」

「そうでもないよ。母さんは大変そうだけどね。離婚してから看護師の資格取ったんだ。僕もバイトでもしようかって言ったら「あんたは好きなことすればいいの」って。この境遇にしては恵まれてるほうかも」


 岡嶋は、いつものようにへらりと笑った。この笑顔の裏側を、初めて見たような気がした。


「僕ね、教師になりたいんだ。僕が母さんや鬼沢くんに助けてもらったみたいに、誰かを助けられたらいいなって」


 黙ってこちらを見ている陸に気付いて、岡嶋は慌てて言葉を続ける。


「あ――なんて、鬼沢くんに迷惑ばっかりかけちゃう僕じゃ難しいかな」

「俺が知るかよ」


 だよね。そう呟いて、岡嶋は笑いながら小さくうつむいた。


「もし、俺がいなくなってもいろいろ絡まれたらさ、俺のお袋に言えよ」

「鬼沢くんのお母さんに?」


 岡嶋は困惑したように、陸の言葉を繰り返した。


「お袋、結婚する前は東京の銀座でホステスやってたんだって。そのときの客の中には、お袋の頼みだったらあのハゲ校長の尻を叩いてくれる奴もいるはずだからよ。ま、よく知らねーけど」


 聞いた話(孝男からなので信憑性はイマイチ)では、由梨子は銀座でも名の知れた店のナンバーワンで、今でも知らぬ者はいないほどの伝説の存在なのだ、とか。

 実際のところ、毎年正月にはポストに収まりきらないほどの年賀状が届くし、その差出人はテレビでよく見る政治家の名前だったりもした。


「だから、何かあったらお袋に言えばいい。悪いようにはしねぇだろ。あ、親父はやめとけ。最悪な結果になる」

「だったら、自分の退学をどうにかしてもらったらいいのに」

「いいんだよ、俺は」


 今の居場所にしがみついたところで、結局みんなに疎まれて、絡まれて、毎日のように誰かを殴るだけだ。窮屈で、苦しくて、うまく息ができないまま生きていかなくちゃいけない。

 だったらいっそ、何も知らない場所のほうが少しはマシかもしれない。予期せぬ夜の散歩の間、陸の気持ちはそんなふうに移り変わっていた。


「じゃあな」


 くるりと向きを変えた陸の背中を、岡嶋の声が追い掛けてきた。


「鬼沢くん!」


 けれど、陸は足を止めなかった。さっきまで並んでいた二つの影が、どんどんと離れていく。陸の影だけが長く伸びる。


「僕、鬼沢くんのこと、友達だって思っていいかな」

「好きにしろ」


 これじゃばあちゃんと同じだな。そう気付いて陸は少し笑った。これも遺伝ってやつなのかな。


「連絡するね! あと、絶対遊びに行くから!」


 背を向けたまま「分かった」というように片手をあげて答えると、空を見上げた。

 藍色に塗りつぶされた空に、細い、まるで線のような三日月が浮かんでいた。

 月は嫌いだ。夜空に空いた穴のように見えるから。

 その夜空の切れ間に手を伸ばす。そして、藍色をはぎ取るように大きく手を払った。

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