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 陸は、暗くなった山道を駆け下りた。少しでも早くこの山を出たくて、気持ちが体を置き去りにするようだった。頭の中では、ジンに突きつけられた言葉がぐるぐると回っている。


 ――お前に何ができるんだよ。


 同じものを見て、触れて、感じて、食べて、笑えれば、あんな境界線なんて関係ないと思った。そばにいたい。その気持ちだけあればいいと思っていた。


「くっそ……」


 陸の中には、ジンに返す言葉がなかった。中身がない口先だけの責任なんて、なんの意味もない。ハナの「これから」を作り出すこともできない。

 ハナはこれからどうなってしまうのだろう。自分には、何ができるというのだろう。陸の胸に降り積もり続けた疑問が、とうとう陸を追い越してしまう。もう押し込めることもできなくなってしまったそれは、山の深い暗闇にも似て、ちょっとでも気を抜けば引きずり込まれてしまいそうだった。

 陸は、逃げるように、さらに足を早めた。暗闇が開けて家の明かりが見えると、心が分かりやすくホッとする。

 庭には、パステルブルーでちょっとレトロな形の自転車が止まっていた。見慣れないその自転車に首を傾げていると、縁側から顔を出した岡嶋と小野寺が声を掛けてくる。


「あ、鬼沢くん、お帰りなさい」

「おっせーよ。お前に客だぞ。ずっと待ってんだからさっさと入って来いよ」

「客?」


 居間をのぞき込むと、騒がしい鬼沢家の中にいて、背筋を伸ばし、じっと座っている晴香の姿があった。陸の存在に気付くと、小さく頭を下げる。けれど、その目は相変わらず警戒の色をにじませていた。


「俺に何か用か?」


 庭から直接上がり込んで尋ねると、晴香はちらりと周りに視線をやった。ここでは話しにくい、ということか。


「じゃあ……俺の部屋で」

「えー、家族もいるのに陸ってやらしー」


 はやし立てる小野寺を晴香が冷たくにらみつける。


「そんなに言うなら、一緒に来ればいいじゃない」


 結局、陸と岡嶋、小野寺の三人が、まるで晴香に連れられるようにして、陸の部屋に収まることになった。扉を閉めたと同時に、晴香は陸に向き直って用件を口にした。


「あんたは隼の秘密を知ってるの?」


 真っ直ぐな目は、陸を貫くようだった。晴香が口にする隼の秘密――それはオニのことなのか、それとももっと他のことなのか、とっさに判断しかねて、陸は曖昧に「さあ」と呟いた。


「今の隼は、前の隼と違うの。まるで別人」

「え、それってオカルト的な話?」

「ちょっと黙ってて」


 ぴしゃりと言われた小野寺が岡嶋に泣きつくのを横目に、晴香は言葉を続ける。


「前の隼は、ちょっと悪ふざけし過ぎるところはあったけど、優しかった。いつだってみんなの中心で楽しそうに笑ってた。でも、今はなんか違うの。一緒にいても、あたしたちと違う場所にいるみたい。あんな嘘みたいな笑い方しなかった」


 晴香の右手の指先は、左手首のブレスレットを忙しなく弄っていた。それは、金色の細いチェーンの真ん中を羽根のモチーフが繋いでいるデザインで、隼がいつも身に着けているあのネックレスとよく似ていた。


「俺とあいつの付き合いなんて、お前らと比べものにならねーだろ。なんで俺に聞くんだよ」

「だって、あんたといるときの隼が一番おかしいんだもん」

「晴香さんは隼くんのこと、よく見てるんだね」


 岡嶋の無邪気な言葉に、晴香も勢いを削がれたようだった。陸から視線をそらして、俯いてしまう。


「もしかして……隼は陸に恋をしてる、とか?」

「お前は黙ってろ」

「僕もそう思う」


 陸と岡嶋の言葉が重なった。全員に否定された小野寺は、部屋の隅でいじけ始める。


「隼は、なんか、あたしに言えないことで苦しんでる。もしそれが隼を変えちゃったんだとしたら――お願い。隼を助けてあげて」

「あいつとはもう別れたんだろ? なんでそんなに気にしてんだよ」

「別れたいって言ったのは隼のほうだし。あたしは、まだ……っ」


 言い終える直前、泣くのを堪えるように晴香の声が震えた。

 そばにいるのに、遠く感じてしまう。その切なさは陸も知っていた。それは、遠すぎて触れられないことより絶望に近い。


「あんたは、たぶんあたしよりも隼の秘密に近いところにいるんでしょ。あたしじゃもう、そこに近付けない。だから――」


 晴香の手が、すがりつくように陸の腕をつかんだ。手首のブレスレットが、しゃらりと音を立てた。羽根が、舞い落ちるように揺れる。


「そうでもねーと思うけど」


 陸を見上げるその目には、こぼれ落ちまいとする涙がいっぱいに溜まっていた。晴香は、絶望に落ちる寸前で踏みとどまっていた。届かなくても、二度と触れられなくても、手を伸ばし続ける彼女の姿は、暗闇の山道を逃げ帰るだけの自分に比べて、あまりにもまぶしかった。


「隼はいつも、ネックレスしてるぞ。あんたのそれとお揃いなんだろ」


 陸がそう言うと、晴香はハッとしたようにブレスレットを見た。うつむいた弾みで、涙がこぼれ落ちる。 


「待ってるだけじゃダメなときってのが、きっとあるんだろうな」


 晴香は両手で顔を覆うと、嗚咽を漏らした。小野寺は気まずそうに顔をそらし、岡嶋は晴香を支えるようにして座らせてやる。

 あのとき、ジンは「そっちで俺らのことを知っているやつに見つかるなんて」と言っていた。それはきっと隼のことだ。そして、隼はハナのことをオニに知らせた。

 ヒトとオニの掟に(のっと)れば、それは正しいことなのかもしれない。けれど、隼がただ掟に従っただけとは思えなかった。その証拠に、陸には未だにお咎めらしきものがない。こちら側ではまだ誰も知らないからだ。

 晴香が触れられないという、隼が抱える秘密。それはこの山に住むオニのことかもしれない。けれど、陸が知らなければならないのは、そのもっと奥に隠された隼自身のこと。

 ひとしきり泣いて、顔を上げた晴香はどこかスッキリとしたようだった。帰るね、と言って立ち上がって、玄関に向かう。


「送っていこうか」

「大丈夫。自転車だし」


 そう言いながら晴香が足を入れた靴に陸の目が引き寄せられる。


「おい、その靴って……」

「え? ああこれ?」


 晴香が軽く上げた右足が履いているのは、星のマークが横についたグレーのハイカットスニーカー。そして、そのソールは黄色く塗られていた。


「これも、隼とお揃いで買ったの。二人だけのオリジナルにしようって、こうやって色塗ったりして。でも、隼はサイズが合わなくなっちゃってすぐ履けなくなっちゃったけど」


 一人でまだ履いてるなんて、馬鹿みたいでしょ。晴香はそう言って笑うと、帰っていった。冷たくなった夏の夜の風が彼女の涙を乾かしてくれればいい、と陸は思った。

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