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夕方が近付くと、庭にはいつものように野菜を詰めたカゴが用意されていた。孝男も由梨子もそれを目にしているくせに何も言わなかった。結局、何も知らなかったのは自分だけなのか。陸にとっての世界が、急に知らない奥行きを持ち始めてしまう。
「俺、ちょっと行ってくるから」
縁側でくつろぐ岡嶋と小野寺に声を掛けた。居間でテーブルを囲んでいる三人にも聞こえるように、ことさらに大きな声で。空気がわずかにぎこちなさをはらむ。
顔を見合わせる岡嶋と小野寺。煙草をふかす千代。お茶を入れ直さなくちゃ、と立ち上がった由梨子、三本目のトウモロコシに手を伸ばす孝男。全員が、核心を避けるように立ち振る舞いながら陸の背中を見送った。
カゴには今日もメロンを忍ばせてある。そのせいか、肩紐がいつもより食い込んで痛かった。
少なくとも、この地で生まれ育った孝男はオニのことを知っているはずだ。だとすれば、どうしてこの場所に陸を送り込んだのか。どうして、今までひた隠していた世界に触れさせるような真似をしたのか。陸の中で、どんどんと疑問が積もっていく。
誰が何を知っていて、何を隠していて、誰に何を問い掛ければ、世界は本当の姿を見せてくれるのか。
「どうしろっていうんだよ」
陸の呟きは、山の無数のざわめきにまぎれて消えてしまう。
小屋の扉を開けると、空のカゴが置いてあった。それは、ハナがここに来た証。陸の身体から緊張が抜けていく。やっぱり大丈夫だった。全部気のせいだった。何も変わらない。これからもずっと、何も変わらないんだ。昨日、あのまま待ち続けていれば、ハナに会えたんだ。
ならば、と陸は思った。今日は会えるまで帰らない。どんなに遅くなったとしても、明日の朝までだって待ってやる。いつものように壁に背中を預けて座り込むと、陸は決意を示すように、赤い境界線をにらみつけた。
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少しの間、陸はまどろんでいたらしい。気が付けば、向こうの扉の格子戸から差し込む光はとっくに弱くなって、小屋の中はすっかり薄暗くなっていた。けれど、野菜の詰まったカゴはまだ陸の目の前にある。ハナは、まだ来ていないということだ。
立ち上がって大きく伸びをすると、体のあちこちが軋むようだった。
「あいつ、いつまで待たせるつもりだよ」
いっそのこと、境界線を越えてこの先に行ってみようか。そんな考えすら頭をよぎってしまうほどに、嫌な予感が膨れあがっていく。けれど、向こうには陸のことを知っているやつらがいる。下手に動いてハナに何かあったら――という思いだけが、陸にブレーキを掛けていた。
少し息を吐いて、薄闇に浮かび上がる境界線を見下ろした。その赤は決して沈み込むことはない。ずっとそこにあり続けて、ヒトとオニを隔て続ける――。陸は軽く頭を振ると、そんな考えを追い払った。
今日こそハナに会うんだ。気合いを入れるように両手で頬を叩くと、またいつもの場所に腰を下ろした。そのとき、どこからか低いうなり声のようなものが聞こえてきた。
まさか獣か、と陸が身構えたとき、向こうの扉がバン! と大きな音を立てて開いた。空のカゴが飛んできて、陸の足下に転がった。そこに立っていたのは、獣でもハナでもなく、鋭い目で陸をにらみつける黒い着物を着た男。頭のてっぺんで結われた赤茶色の長い髪が大きく揺れている。
「ったく、いい加減にしろ! いつまで待ってもあいつは来ねぇんだ。さっさと帰れよ!」
突然現れたその男は、野菜が入ったカゴを軽々と背負うと、そのまま立ち去ろうとする。陸は慌ててその肩を捕まえた。
「おい、待てよ。あいつってハナのことか」
「気安く触るんじゃねぇよ」
陸の手を乱暴に払うと、男は投げ捨てるようにカゴを下ろした。横倒しに倒れたカゴから、トマトが、キュウリが、ナスが、そして陸が忍ばせたメロンが転がり出た。空間が静寂に包まれ、二人の間で敵意だけの視線が交わされる。
「お前、もしかしてジンかセキってやつか?」
はっ、とせせら笑う声が男の口から漏れた。
「あいつ、俺らのことまで話してたのか。とんだオニだな」
男は、陸の胸ぐらをつかむとぐっと顔を近づけた。燃えるような目が陸を見つめている。
「俺はジンだ。……ハナと同じ、オニだ」
「俺は陸。鬼沢陸だ」
「へぇ。ヒトのくせにオニの名前か。笑える」
ぱっと手を離すと、ジンは陸を突き飛ばした。その衝撃に、陸は思わずよろめいてしまう。
「本当ならお前とは絶対に接触するなって言われてんだけどな。昨日も今日も全然帰らねぇし。今だってやっと帰るかと思ったらまた座り込みやがって。あーもうやってられねぇ」
「それより、ハナはどうしたんだよ」
「そんなにあいつに会いてぇのか?」
ニヤリと笑ったジンが陸の顔をのぞき込んだ。言葉に詰まった陸に、ジンはまた短い笑いを漏らした。
「もうあいつには会えねぇぜ。ここに来る役目は俺になっちまったからな」
「なんで」
「そりゃお前のせいだよ。お前らも運が悪いな。そっちで俺らのことを知ってるやつに見つかっちまうなんてよ」
しゃがみ込んで、こぼれ落ちた野菜たちをカゴに放り投げるジンの背中を見ながら、陸は愕然としていた。ハナが境界線を越えたことがバレた? オニのことを知ってるやつって、まさか……。いや、今はそんなことよりも――。
「おい。ハナが境界線を越えたのは俺がそうしろって言ったからだ。だから俺が――」
「うるせぇなあ。これは俺たちオニの問題なんだよ。お前には関係ない」
「でも」
「あーうるせぇ!」
苛立ちを隠そうともせず、ジンはがりがりと頭を掻きながら立ち上がった。振り返ったその目にある激しい怒りに、陸は思わずたじろいでしまう。
「ヒトのお前に何ができるんだよ。ハナの代わりに「こっち」に来て暮らすか? 山の中に閉じ込められて、一生俺らに馬鹿にされて過ごせんのか? それができるって言うなら、ハナを逃がす手伝いくらいしてやってもいいぜ」
わずかに視線を泳がせた陸に、ジンは嘲るような笑いを浮かべると、今度は思い切り陸の胸のあたりを突き飛ばす。先ほどとは比べものにならない衝撃に吹き飛ばされ、陸は背中を壁に強かに打ち付けた。一瞬、息ができなくなる。思い切り咳き込んだせいで、目に涙が浮かぶ。ジンの姿が揺らめく。
身体に走る痛みが陸に教える。目の前にいるこの男は自分とは違う存在だと。
「何もできねぇなら大人しくしてろ。ああ、今度から長々と待つんじゃねぇぞ。これを置いたらさっさと帰れ。お前にできんのはそれくらいだ」
「――うるせーよ。お前はメロンの皮でも食ってろ」
陸はなんとか立ち上がると、そう言い捨てて逃げるように小屋を出た。力任せに閉めた扉の弾ける音が、夜に沈む山中に響き渡った。
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小屋から出たジンは、暗闇の奥をちらりと見やると声を掛けた。
「おい、のぞいてんじゃねぇよ」
のそりと姿を現したのはセキ。気まずそうに頭を掻きながらジンのもとへやってくる。
「よう」
「よう、じゃねーよ。ここは俺の担当だ。お前は来る必要ないだろうが」
「昨日も今日もジンが遅かったからさ。どうしたのかと思って様子見に来てやったんだろ」
へへ、と笑うセキに、ジンは小さく舌打ちする。
「で、どうだった?」
「何がだよ」
「ハナと会ってたやつ。今、中にいたんだろ?」
「知るかよ。ただのヒトだ」
ジンはカゴが肩に食い込む痛みに顔をしかめた。ハナは、これを背負って毎日歩いていたのか、と思う。
「ところでさ、本当にいいのかよ。ハナのこと」
ジンが足を止めてにらみつけると、セキは肩をすくめた。
「だってあいつ、このままだと本当にいなくなっちまうんだぜ」
「掟を破ったのはハナだ。結局「あっち」のほうに行きたかったってことだろ」
「でもさ、ジンは……その、ハナのことを、さ」
ジンの神経を逆撫でしないように、とセキは言葉を選んで口にする。核心を突かれて、いきり立つかと思われたジンは、予想に反して視線を落とした。背中がわずかに震えている。
「あいつが、ほんとの「オニ」だったらよかったんだ」
ぽつりとそう呟くと、ジンは再び歩き出した。セキも口を閉ざし、その後ろをついていく。
暗闇の中、二人の足音だけが鳴る。




