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今日は昨日の大雨が嘘のように、すっきりと晴れていた。雲一つない青空が広がっている。
「こりゃまた気持ちよく晴れたもんだね。あいつは相変わらず運がいい」
朝の農作業を終えた陸を迎えに来た千代が、軽トラを運転しながら呟いた。
「あいつって?」
「あんたの父親のことさ。昼前には着くって連絡があったよ」
そうか、と思い当たる。今日は両親と岡嶋がこちらに来ることになっていた。なんだか千代が朝から忙しそうにしているわけだ。
「まさか忘れてたんじゃないだろうね。しっかり働いてもらわないと困るよ。なんせ、今日から四人も増えるんだから」
「分かってるよ」
そう返してから、ふと気付く。来るのは孝男と由梨子、そして岡嶋の三人ではないのか。
「なあ、ばあちゃん――」
「陸」
四人という言葉の意味を問おうとした陸を、千代が遮った。
「あんた、何か隠してるんじゃないかい」
車内にはタイヤと地面の摩擦音、そしてときどき小さくバウンドする音だけが響く。陸は、動揺を悟られないように、呼吸を整えた。
「なんだよ、いきなり」
「話くらいなら聞いてやるよ」
「……別に、何もねーよ」
心が揺らがなかったと言えば嘘になる。けれど、千代の忠告――ヒトとオニとの掟を破ってハナに会っていたこと、さらには境界線を越えさせて一緒に祭りに行ったことなど、話せるはずもなかった。
「ま、いいさ。ひとつ、ふたつの隠しごとは、大人になるための切符みたいなもんだからね。ただ、気を付けるんだよ。そいつは増えすぎると一人の手に負えなくなる。最後には、自分以外の誰かに尻ぬぐいをしてもらわなくちゃならなくなるんだ」
家について軽トラを止めると、千代はぐしゃりと陸の頭を撫でた。
「覚えておきな」
家の中に入っていく千代の背中を、陸は何も言えないまま見送った。
増えすぎた秘密は、いつか手に負えなくなる。そんな千代の言葉は、陸の胸に渦巻く不安をいや増すばかりだった。
朝食を済ませると、陸は勉強もそこそこに畳の上に寝転んだ。
ハナに会えば全部解決するんだ。何もかも笑い話になる。そう自分に言い聞かせるけれど、嫌な予感がずっと残り続けている。
「別に、なんでもねーよな」
自分はただ、会いたいと思っただけだ。一緒にいて、同じものを見て、同じように感じたかった。それなのにあの夜のハナは、陸からずっと遠いところにいた。隣にいても、手を繋いでいても、あの赤い境界線とは違う何かが二人を隔てていた。その正体がどうしてもつかめない。
「なんだっていうんだよ」
不安と苛立ちを誤魔化すように吐き捨てた。
そのとき、ソラが吠える声と久し振りに聞くエンジン音が陸の耳に届いてきた。体を起こすと、同じようにその音を聞きつけた千代が部屋の前を通りかかる。
「ほら、しゃんとしな。嵐が来たようだからね」
二人が玄関を出ると、黒いワゴンから孝男が降り立ったところだった。
「おー、お袋、陸、久し振りだなぁ! 元気にしてたか!」
「相変わらずデカい声と図体だね。少しは小さくしたらどうだい」
「あら、小さくなっちゃったら、この人のいいとこ無くなっちゃいますよ。お義母さんもそれくらいお分かりだと思ってたのに。やっぱり年には勝てないのかしら」
助手席から現れた由梨子は、ボタニカル柄のワンピースに白い薄手のカーディガンという、この町とはまったくそぐわないくせに、どこか馴染んで見える服装をしていた。
「おや由梨子さん。あんたは相変わらず回りくどい物言いをするね。元気そうでなによりだよ」
「お義母さんこそ」
千代と由梨子が顔を合わせると、いつもこんなふうに一触即発な会話が始まる。それでいて、どこか温かく、親密さをうかがわせるのが陸には不思議でならなかった。
「鬼沢くん、久し振り」
後部座席から岡嶋が降りてくる。そして、その後ろから四人目が――。
「おう、久し振りだな。オニ」
「あ、お前は……」
「そうそう、俺。びっくりしただろ? サプライズ登場、大成功!」
「金髪」
陸の言葉に、その「四人目」がズッコケた。
「金髪ってなんだよ! 小野寺! 小野寺龍也! クラスメイトの名前くらい覚えておけよな。あ、「元」クラスメイトか」
目の前でまくしたてている金髪は、陸の退学が決定的になったあの日、陸に首根っこをつかまれて鼻血を出していたあの金髪だった。そういえば、岡嶋が「小野寺くんが」なんて話してたっけ。
「ごめんね。小野寺くん、着いてくるってきかなくて」
「当たり前だろ。由梨子さんが行くなら俺も行く。ただそれだけのことだし」
「小野寺くん! 母さんにはね、俺という夫がいるの! 小野寺くん関係ないの!」
「おっさんは黙ってろって」
「あらあら、あなた落ち込まないの。おっさんなのはしょうがないんだから」
「母さん、ひどい!」
騒ぎ声が青空に吸い込まれていく。この四人の登場は、まるで突然の嵐のようだ。孝男と小野寺のケンカ腰のやり取りと、呆れたように肩をすくめる由梨子と岡嶋を、陸は唖然としたまま見つめていた。
「こりゃまた賑やかになったねぇ」
千代の呟きも一緒になって、青空に消えていった。
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扉の向こうで足音が止まったその気配で目を覚ました。昨日の雨はもう止んだのか、鳥の声が聞こえてくる。のろのろと起き上がって、枕元の髪留めをそっと袂にしまった。
この光が、私に残された希望。
「ハナ」
声がした。この声を最後に聞いたのは、あの小屋へ行くようにと命じられた日だった気がする。静かで、鋭い声。私を――何もかもを拒絶するような声。
「はい、カイ様」
返事をして扉を開けた。差し込んだ光がまぶしくて、思わず目を細めた。カイ様の銀色の髪がわずかに風になびく。日の光の下でその姿を見たのは初めてだった。
「私がここへ来た理由は分かっているのか」
「はい」
「そうか」
凍りつくような沈黙が訪れた。カイ様は木々の隙間からのぞく青い空を見上げた。そして「そうか」ともう一度呟いた。
私もカイ様を真似て空を見上げてみた。切り取られた空は、ぎざぎざで歪な形をしている。
あの日、境界線の向こうで陸の背中にしがみついて見た空はもっと広かった。どこまでも、どこまでも広がって怖いくらいだった。でも、この山から見える空は狭くて、遠い。それが私を苦しくさせた。
視線を戻したカイ様が、再び私に問い掛ける。
「お前に境界線を越えさせたのは、あの小屋の者か」
「いいえ。私が一人でやったことです」
フン、と鼻を鳴らす音。背筋に冷たい汗が伝う。これ以上追求されませんように、と祈るような思いでカイ様の視線を受け止め続けた。
「分かった。お前の役目はジンに引き継がせる。あいつも何か後ろめたいことがあるようだしな」
「……はい」
私がホッとしてうなずいた。カイ様が私に背を向けて歩き出す。
「三日だ」
振り返りもせず、放り投げるようにして与えられたそれは、命の期限。
「逃げたければ逃げろ。追いはしない」
カイ様の声にはなんの感情もこもっていない。木々の間に消えていくその後ろ姿を、私はただただ見送るだけだった。
銀色の髪が揺れて反射する。その光は、目に刺さるようだった。




