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 空には灰色の厚い雲がかかっていた。山の中にもじっとりと湿った空気が立ちこめ、雨が近いことが分かる。そんな中を歩くのは二つの影。


「なあ、ジン。雨が降りそうだぜ。今日は行かなくてもいいんじゃね」

「うるせぇな。だったら一人で待ってろよ。俺は行く」


 ジンはことさらに足音を立てる乱暴な足取りで進んでいく。セキは、大きく息を吐いてぶらぶらとその後ろを追った。


「第一、俺らの担当は肉だろ。この時期、ほっとくわけにはいかねぇからな」

「あーあーめんどくせ。だったら野菜のほうが楽かもな。一日二日放っておいてもどうってことないし」

「あいつの話はするな」

「おおこわ」


 ジンが肩越しににらみつけると、セキはへらりと笑って、わざとらしく体を震わせて見せた。


「ったく、どいつもこいつも」


 勢いよく小屋の扉を開けたジンの動きがぴたりと止まる。警戒をにじませた背中に、不審を抱いたセキも、ジンの後ろから中をのぞき込むと表情を強ばらせた。


「誰だ、お前」


 いつもなら、小屋には肉の入った青いクーラーボックスがあるだけだった。けれど、今日はそのクーラーボックスの上に誰かが腰掛けている。その「誰か」は、ジンの言葉にとびきりの笑顔を浮かべてみせた。


「初めまして。俺はこの小屋を担当してるヒトの家の者で、隼っていうんだ」


 隼が立ち上がると、ジンとセキは後ろに飛びすさった。


「ああ、そんなに警戒しないで。だいたい、力じゃ君たちオニに敵うわけがないんだから」

「なんの用だ」

「中に入ってよ。君たちに知らせたいことがあるんだ」


 ジンは隼の笑みの中に自分と似たものがあることに気付いた。隼はオニを憎んでる。それと同じようにヒトも憎んでいる。そのすべてを打ち壊してしまいたいくらいに。


「分かった。話を聞いてやるよ」


 ふっと警戒を解いたジンは、セキを促して小屋の中に足を踏み入れた。扉が閉まったとき、空に雷が光った。


****


「また荒れそうだね。今日は行くのをやめておくかい」


 雷が光った空を眺めて、千代が言った。今日は朝からずっと灰色の雲が垂れ込めている。ベタつく肌を撫でる生ぬるい風にも湿気がたっぷりと含まれていて、一日中気分がスッキリとしない。


「明日降ったら持っていけないだろ。だったら今のうちに――」

「おや、なんだか行きたくてたまらないって感じだね」

「べ、別にそんなんじゃねーし。とにかく、用意しておいてくれよ」


 そう言って陸は部屋に戻った。行きたくてたまらない、か。

 ハナに会いたい。けれど、それ以上にまた会えるんだってことを確かめたかった。昨日の夜、ハナはどこかおかしかった。


 ――さよなら、陸。


 ハナは確かにそう言って――。確かめるように指先で左の頬に触れた。そこは、ハナの唇が触れた場所。思い出すと、陸の心臓が音を立てた。


「なんで、あんなこと」


 あの夜は、確かに二人にとって特別だった。山の中の小屋で、境界線を挟んでしか会えなかったハナと一緒に「こちら」の世界を歩けた日。

 自分と同じものを見て、触れて、感じて、食べて、笑ってほしかった。赤い境界線の存在なんて忘れてしまうくらい、楽しいものでハナの心をいっぱいにしたかった。

 けれど、お返しにとハナが陸に見せてくれた蛍が舞うあの光景は、美しすぎて、現実のものとは思えなかった。指先に蛍を遊ばせ、青白い光に照らされたハナの横顔は、どんなに手を伸ばしても触れられないような気がした。

 さよなら、と口にして暗闇に溶け込んでいくハナを、強引にでも引き止めればよかった。いつもみたいに「またね」って言わせればよかった。陸の胸にはそんな後悔が渦巻いていた。

 ざあっと風に木々が揺れる音。窓ガラスにひとつ、またひとつと水滴が弾ける。ああ、と心の中でため息をついた瞬間、空から大量の雨が落ちてきた。


****


 足早に歩くジンの後ろを、クーラーボックスを提げたセキが追う。空の灰色はずっと濃くなって、空気もかすかに冷たさをはらんできた。


「なあ、ジン。本当に(おさ)に言うのかよ」

「当たり前だ。あいつは境界線の「向こう」に行った。最悪の掟破りだ」

「でもよ、そんなこと言ったら俺たちだって……」


 ジンが足を止めるとセキに向き直った。


「いいか。俺たちのことは向こうにバレてねぇ。でもあいつはバレた。それは天と地ほどの違いがあるんだよ」


 強く風が吹いた。まるで巨大な手に撫でられてでもいるかのように木々が揺れる。


「しかし、あの隼ってやつ、なんでわざわざチクりに来たんだろうな」

「ヒトの都合なんて知るかよ。こっちはこっちで利用するだけだ」


 ジンが草をかき分けると、開けた場所に出る。山の頂上付近にあるここがオニの集落だ。炊事場として使われている大きな小屋が真ん中にあり、その他に木造の小屋が十戸ほど点在している。夕暮れどきのいま、炊事場は夕食の仕度で忙しそうだ。その中には、アマネの姿もある。

 二人が奥へ歩みを進めるのに気付いた者が、他の者にも注意を促す。気付けばみんなの視線がジンとセキに集っていた。


「あいつら、どうしたんだろうね」

「またなんか悪さでも企んでるんじゃないか」


 ひそひそと声が飛び交うなか、ジンは一番奥にある小屋の前で立ち止まった。


「カイさま。お伝えしたいことが」

「なんだ」


 小屋の中から声が返ってくる。決して大きなものではないのに、その声はまるでムチのようにぴしりとジンを打ち付けた。


「境界線を越えた者がいます。ヒトが、知らせてきました」


 その瞬間、集落の空気が張り詰める。「まさか」「いったい誰が」と口々に言い合うなかで、アマネは身体の震えを抑えるように、自分を抱きしめた。

 がたり、と音がして扉が開く。現れたのは長い白銀の髪、そして銀鼠の着物に藍色の羽織を着た美しい男――オニをまとめる長、カイだ。切れ長の目で全員をねめつけると、辺りはしんと静まり返った。

 カイは普段、中から指示を出すだけで、外に出ることは滅多にない。ジンやセキもその姿を目にするのは久し振りだった。

 見た目は、人間で言えば二十代から三十代。だが、正確な年齢は誰も知らない。もはや本人ですら分からないのではないか、と噂されていた。


「ジン。その話は本当か」


 カイの目がジンを見据えた。その視線の鋭さに、ジンは思わず後ずさった――が、なんとか踏みとどまる。


「はい。昨日行われたヒトの祭り、そこに現れたと」

「そうか」


 風が吹き、木々が大きく揺れた。ぽつり、ぽつりと、地面に雨が弾ける。


「誰だ」

「ハナです」


 アマネが息を飲む様子を、カイが目の端で捉えた。少しのあいだ目を閉じると、空を見上げた。雨粒が、その白い頬を濡らす。


「今夜は荒れるな」

「どうしますか」


 急かすように問い掛けるジンを、カイは右手を挙げて制した。


「このことは追って私が対処する。これ以上は騒ぎ立てるな」

「しかし……」

「下がれ。――雨だ」


 その瞬間、雨脚が強くなった。みんな、逃げるように小屋へと戻り始める。ジンもセキに促されて、カイの前から下がった。


「アマネ、何か言いたいことがあるのか」


 雨の中で立ち尽くしているアマネに、カイが声を掛けた。


「いえ、私は……なにも」

「そうか」


 一瞥をくれると、カイは小屋の中へと姿を消した。雨がアマネの着物を濡らし、その鮮やかさを重く、沈ませていく。

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