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陸の家が近付いてくると、すぐそばの境界線が気になって仕方がなかった。誰かに見られたら、とずっとキョロキョロしていた。
「大丈夫だって。今日はみんな祭りに行ってんだから」
「でも、一応……」
境界線を飛び越えて、私はいつもいる「あちら」側に戻った。陸は、そんな私を呆れたように見ている。
「今までこっちにいたんだから別にいいだろ。立つ場所がたかだか三十センチずれたくらいで何が変わるんだよ」
そんなこと言われても……と口をとがらせる。だいたい、その問いにちゃんと答えられるのは誰なんだろう。ジンもセキもアマネも、きっと私と同じで説明なんかできないはず。長なら、できるのかな。
「まあいいや。ちょっと待ってろよ」
そう言うと、陸は走って行ってしまった。少しずつ近付いてくる闇に、なんだか置き去りにされたような心細さが高まってくる。陸が姿を消した先から、じゃらっと鎖の音がして、ソラの鳴き声も聞こえてきた。あの夜を思い出して、我ながら無茶なことをしたなとしみじみ思う。
「待たせて悪いな。準備完了だ」
「陸、やっぱり行けないよ。あたしはオニなんだから」
「ぐだぐだ言うなって。嫌だって言っても連れてくからな」
にやりと笑った陸が、ふっとしゃがみ込んだ――その瞬間、私の視界がぐるんと回る。足が地面を離れて、身体がふわりと宙に浮く感覚。
「わっ」
不安定になった身体を支えようと私がしがみついてしまったのは、陸。今までにないくらい近くにあるせいで、陸の顔だって分かんなくなるくらい。境界線の向こう側から私をすくい上げるようにして抱き上げた陸は、満足そうな顔で歩き出す。
「こういうルールってもんには、たいてい抜け道があるんだよ。例えば――空中はセーフ、とかさ」
陸が言っていることの意味なんてひとつも分からなかった。触れ合った箇所で混じり合う体温が、私の心臓をこれでもかというくらいに速くさせる。息を吸うと流れ込んでくる陸のにおい。私ともアマネとも、他の誰とも違う、陸だけのにおい。
きっと私の顔は赤くなっているんだろう。気付かれたくなくて、陸の胸元にそっと顔を埋めた。世界を橙色に染めていた光が弱々しくなって、薄い闇が忍び寄ってくる。だから、きっと見えてない。見えてないよね、陸。
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「よいしょ……っと」
陸が私を下ろしたのは、赤い乗り物――自転車っていうらしい――の後ろ。
「これがあれば、どこにだって行けるんだぜ」
「ホントに?」
車輪が二つついただけのこんな乗り物で? 疑うような目をした私に、陸は笑ってみせる。
「少なくとも、この町の祭りにはお前を連れていける」
足下からチャリチャリと音がして、見ればソラが尻尾を揺らしながら私を見上げていた。
「おう、お前こいつに助けられたんだから、ちゃんと礼言っとけよ」
ワン! と一声鳴くと、ソラは私の足首をペロリと舐めた。
この間はありがとう。あたしと一緒に戦ってくれて。
そんな思いを込めて鼻先に触れると、ソラは気持ちよさそうに目を閉じた。
「よし。挨拶が終わったところでお前は留守番。中に入ってろ」
ソラは不満そうに鼻を鳴らしたが、仕方ない、とでもいうように、大人しく陸に従う。その姿は、本当の兄弟みたいだ。くすくすと笑う私を見て、陸はちょっと照れたように「笑うなよ」と言った。
「じゃあ、行くか」
後ろの車輪を浮かせていた金具を陸が足で蹴飛ばすと、お尻にガタンと衝撃が走った。
「うわっ」
「しっかりつかまってろよ」
私の前にある椅子のようなものに跨がって、肩越しに振り返った陸はニヤリと笑った。
「じゃねーと転げ落ちるぞ。もっとちゃんと俺につかまってろ、よ!」
陸が地面を蹴る。ぐらりと揺れる感覚に、怖くなってぎゅっと目を閉じた。
「大丈夫だ」
その声が聞こえた瞬間、風が巻き上がった。恐る恐る目を開けると、見たこともない広い世界があった。歩いてもいないのに、その景色が流れていく。
「陸! なにこれ!」
「言っただろ! これがあればどこにだって行けるって!」
坂道になっているのか、景色の流れはどんどんと速くなっていく。振り落とされてしまいそうで、私は恥ずかしいと思う余裕もなく、陸の背中にしがみついた。
「ハナー!」
陸が叫んだ私の名は、風に紛れて聞こえづらい。取り逃したくなくて、しがみつく腕に力を込める。山の中で、遠く感じていた背中がこんなにそばにある。その温もりも感触もにおいも何もかもちゃんと感じるのに、触れれば触れるほど切なくなる。
「どうだ、山の中よりずっと広いだろ!」
陸の言うとおりだった。木々に遮られない世界は、どこまでも広がって怖いくらい。陸はこんな世界で生きているんだ。
坂を下り終えて、道を曲がると、いろんな色のおかしなかたちをしたものがずらりと連なっていた。
「これは自動車っていうやつ。俺の自転車よりずっと速く走るんだぜ。珍しく今日は渋滞してんな。祭りがあるせいかな」
陸が教えてくれる。そんなに速く走ったら、どんなにしっかり陸につかまっても落っこちちゃう。私は自転車くらいの速さで十分だよ。
『そこの自転車、二人乗りは――』
やけにひび割れた声がした。今追い越した、白と黒の自動車から聞こえてきたみたい。
「やべ。逃げるぞ、ハナ」
陸は慌てて自転車の速度を上げた。ぽつり、ぽつりと自動車の先に薄黄色の明かりが灯り始める。見上げれば、藍色が濃さを増した空に星をひとつ見つけた。




