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パン、と弾けるような音で目が覚めた。そして、続けざまにまたパン、パンと二度鳴って、余韻を残したまま、朝の静けさが戻ってくる。
「これは……」
夏の空に鳴るこの音は、今日はヒトが祭りを行う合図。それがあった日は、小屋に何も届かない。じゃあ、なんで陸は「明日は早めに来い」なんて言ったんだろう。陸が小屋に来る理由も、私が行かなくちゃいけない理由もないのに。
首を傾げていると、扉を叩く音がした。
「姉さま、起きてらっしゃいます?」
顔をのぞかせたのはアマネだった。空のカゴを手にしている。
「あんたが持ってくるなんて珍しいね? ジンとセキは?」
「夜に抜け出したことがバレて、二人とも謹慎中です。でも、姉さまのことは何も。きっと姉さまにやられたのがよっぽど効いたんですね。言ったでしょう? 一度ガツンと言ってやればあいつらなんてすぐ大人しくなるんだって」
本当にそうならいいんだけど。ジンの目に浮かんでいたあのまっすぐな怒りが、そんな簡単に消えるなんて思えない。しばらくは大丈夫だとしても、またいつか、陸たちに手を出すか――。
「あら、これは……」
アマネが枕元に置いた髪留めに目を留める。
「見つかったんですね、よかった」
「陸が持ってた」
私がそう言うと、アマネの肩がぴくりと揺れた。
「昨日、陸に会った。あたしに会いたいって言ってくれた。あたしも陸に会いたい。だから……」
「ずいぶんと情熱的な方なんですね、その陸さまというのは」
アマネに浮かぶ笑顔は、なんだか寂しそうに見えた。そして、おかしなことだけど、あの夜のジンにも少し似ていた。
「分かりました。私、やっぱり最後まで姉さまに協力します。口裏合わせでもあの二人の邪魔でもなんでもします。いくらだって嘘をつきます。長にお叱りを受けたって構いません。だから、私には何でも話してください。さ、姉さま。他に隠し事はないですか?」
開き直ったアマネがじりじりと私に詰め寄る。なんだかあの二人よりタチが悪い気がしてきた。
「じ、実は――」
昨日、陸が口にした言葉について話すと、アマネはさっきの私と同じように首を傾げた。
「確かにおかしいですね。さっきのあの音は、今日のやり取りはナシってことですものね」
「でしょ? でも、絶対に来いって」
「やっぱり、陸さまは情熱的なんですよ。きっと一日たりとて姉さまと会わずにいられないんですわ! 私も言われてみたいなぁ、お前に会いたい、なんて……」
情熱的、ねえ……。その表現は、あんまり陸には似合わないような気がするけれど。
「それに、姉さまもそうなんでしょう?」
アマネは髪留めを手に取ると、私の後ろに回った。
「そこにどんな意味があったって行くんでしょう? 負けず劣らずの情熱的な二人。とっても素敵です」
髪の毛に触れられるくすぐったい感触には、どうにも慣れない。でも、なんだか心地よくて、私の心が緩んでしまう。
「ねえ、アマネ。一つだけ約束してほしいんだ」
「はい」
「何があっても、私のことを助けないで」
アマネの指から私の髪が一筋、滑り落ちた。
「姉さま、それは……っ」
「お願い。もう決めたの」
アマネの震えがその指に、そして触れた髪から私に――私の心に伝わってくる。
ごめんね。
自分がどんなに残酷な願いを口にしているのか分かっていた。けれど、これは私が決めたことだから。
「分かりました」
それは、空中に消えてしまいそうなほどに小さな承諾。
「ありがとう」
ぱちん、と私が鳴らせなかった澄んだ音が鳴った。
ジンたちのことはしっかり見張っていますからね、とアマネが言ってくれた。だから、今日は物音がするたびに立ち止まって振り返るようなことはしなくていい。
小屋が近付くにつれて、私の心が浮き立っていく。カゴを背負わないでこの道を歩くのは、なんだか忘れ物をしているみたいな気分だから、そのせいかもしれないけれど。
「変なの」
あんなに憂鬱で長かったこの山道が、今はものすごく楽しい。気が付けば足が急いてしまう。この靴は私の足には大きすぎるから、気を付けて歩かなくちゃいけないのに。
この道の先に陸がいる。私を待ってくれている。そう思うと、知らず知らず、口元には笑みが浮かんでいた。
小屋の扉を開ける前に深呼吸をひとつ。着物の汚れをはたいて、裾を整えて。髪の毛は絶対に触るなって、今日もアマネにさんざん言われたから我慢して。
浮かんでいた笑みを消すように頬をぐにぐにと揉んで、もう一度深呼吸。気を引き締めるように「よし」と小さく呟いてから、ようやく扉を開けた。
「おう、おせーぞ」
陸は待ちきれない、みたいな顔で私を迎えた。なんだかソワソワしてる。
「そんなことないよ。いつもよりずっと早いもん」
「お、今日は髪結ってんだ。ちょうどいいや」
たぶん、アマネも今日は複雑に結うことはできなかったんだろう。この間より簡単に、ゆるくまとめて留めただけみたいだ。でも、ちょうどいいってどういうことなんだろう。
「お前ってさ、バレたやつらに見張られたりしてんの?」
「ジンとセキのこと? あの二人はいま、謹慎中だって。それにアマネが見ててくれるから、今日はつけられたりしてないはずだけど」
ますますちょうどいいや、と陸が一人で満足げにうなずいている。
「今日、祭りがあるんだって」
「知ってる。だからここに来る必要なんて――」
「一緒に行こうぜ」
陸の言葉はいつも予想外で、私の時間なんて簡単に止めてしまうんだ。
「一緒にって……行けるわけないでしょ」
その祭りはヒトのもので、つまりは境界線の向こうで行われるもの。私が行けるものなんかじゃない。
「だってさ、今日は何も持って帰る必要もないんだろ。それに、お前「浮いてる」んだろ? そういうやつがちょっといなくなっても誰も気にしないんじゃねーかな」
「それは、そうかもしれないけど……」
「こっち側で、オニのこと知ってるやつって少ないらしいし。ちょっとくらいならいいだろ。それに、そのジンとセキってやつらもお前も、この前は境界線を越えたんだろ?」
「あれは緊急事態だったから!」
私と陸の間にある境界線は、ほんの一歩踏み出すだけで簡単に越えられる。けれど、それには大きな意味があるはずで。
「任せろって。俺にいい考えがあるからさ。とりあえず山下りようぜ」
陸が私に手を伸ばす。やっぱり、ずるいな。私の逃げ道をどんどんふさいで、強引に世界を切り開いていく。その手を取ったら、どんなことでもできるって思わせてくる。
「来いよ」
その声が最後の一押し。私は陸の手を取ると、赤い境界線を飛び越えた。
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繋いだ手はそのままで、陸の背中を追って歩く。境界線の「こちら」側を歩いていることが不思議だった。ほんの少しずれたら「あちら」側なのか。その差はいったいなんなんだろう。
「オニとヒトってなんなんだろうな。こんな線でぶった切らなくちゃいけない存在なのかね」
陸も同じようなことを思っていたみたい。
木々の間からこぼれてくる光が橙色に染まり始める。まだらに照らされる陸の背中は、すぐに触れられるのに、なぜか遠く感じた。不安になって握った手に力を込めると、陸がくるりと振り返った。
「俺、歩くの速いか? 辛かったら言えよ」
私を気遣ってくれる陸の笑顔に、なんだか寂しくなる。どうしてだろう。あの小屋にいたときはこんな気持ちにならなかったのに。
「ううん。大丈夫」
「ならいいけど。前から思ってたけど、その靴ってお前の足よりだいぶデカくね? 歩きにくいだろ、それ」
指摘されると急に恥ずかしくなる。いいから、と強引に前を向かせた。
「そういうのってどこで手に入れんの? それもまだ新しいスニーカーだろ」
「ヒトが使わなくなったものを寄越す小屋があるから。そこからもらうの」
「ふぅん」
もちろん、私が選ぶなんて最後の最後。誰も手に取らない、残ったものを手に取るしかない。星形の模様がついた灰色の靴。靴底は何かで黄色く塗られていたが、山の中を歩くせいで、ところどころ剥がれ落ちて、白い部分が露になっている。
ぶかぶかの靴。私は、私のものじゃない靴を履いて歩いている。私の足にすら合っていない靴で生きていかなくちゃいけない。どんなに歩きづらくても。
「じゃあ今度、俺がお前の足に合う靴を買ってやるよ」
今度は陸が私の手をぎゅっと握った。手を伸ばせば触れられるはずの、遠い背中。陸の言葉はとても嬉しい。なのに、どうして切なくなるんだろう。私には与えられない「これから」を夢見てしまうから、かもしれない。
「大丈夫だよ。山道なら慣れてるもん。だってあたし――」
私は今日も、そしてこれからも陸にほんの少し嘘をつく。
「オニだから」
私の嘘に、そっか、と陸が笑った。




