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「待ちくたびれたんだけど」
私の姿を見ると、陸はそう言った。
「うるさい」
「あーあー暗くなっちまったなー」
「うるさいよ」
最後の言葉に笑いが混じってしまう。この赤い境界線が、こんなやり取りすら隔てしまうなんて、なんだかおかしい。すごく、くだらない。
「これ、落としていっただろ」
陸が取り出したのは、あの髪留めだった。雨の中、さんざん探したのに見つけられなかった大切なもの。触れたらまた消えてしまいそうで、私は簡単に手を伸ばせなかった。
「どこに、あったの?」
「うちの庭に落ちてたのを、ソラが見つけた」
そうか。セキに押さえつけられたときに外れてしまったんだ。
「あの夜、お前がうちの庭にいたことと、ソラがめちゃくちゃ吠えたことって、なんか関係あるんだろ?」
「それは……」
正直に話せば、陸は私と会うのをやめるだろう。それが、陸と私にとって正しい選択。なのに、どうしても言葉が出てこない。そんな私のほうが、陸よりもっとずっとずるい。
「……お前、怪我してんのか?」
陸の指先が頬の傷に触れた。もう痛くなんかないのに、その感触に身体がびくりと跳ねて顔が上がる。陸は、すごく心配そうな顔をしていた。
「なんかあったんだろ?」
陸は、まるで願うような目をしていた。もしかしたら私も同じような目をしているのかもしれない。
「見つかった」
ひとたび口にしてしまえば、あとは次から次へと言葉が流れ出る。
「あたしと陸が会ってること、他のオニに見つかった。それで、そいつらがソラを襲って――あたしのせいなの。あたし、みんなから「浮いてる」から。だから、あたしのせいで――」
「そっか。お前、ソラのこと守ってくれたんだな」
陸が、どこかホッとしたようにそう言った。頬に触れる指先が、もう一度傷をなぞる。
「ごめんな」
もう痛くないよ。こんなの全然平気だから。だから、そんなに悲しい顔をしないで。
「それより、お前は大丈夫なのか? 掟を破ったってバレたらヤバいんじゃねーの?」
「今のところは長も知らない。そいつらだって境界線を越えたのを知られるのはマズいって分かってるから」
「じゃあさ、もしバレたら俺のせいにしろよ。俺がお前のことを待ってただけで、お前は俺に会うつもりなんかなかったってさ。そうすれば、少しはマシだろ」
陸は、いつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。けれど、言ってることはただの屁理屈だ。
「そんなので誤魔化せるわけない。長もヒトもそんなに馬鹿じゃないよ。それに、また陸たちが危ない目に遭うかも――」
「でも、俺はお前に会いたい。会えなくなるなんて、嫌だ」
一瞬、すべての音がなくなって、陸の言葉だけが私の世界に落ちてくる。
会いたい。
私だって陸に会いたい。でも――。
「俺、ここに来るまでお前のこと疑ってた。お前が、ソラに何かしたのかもしれないってそう思ってた。――ごめん」
「それは仕方ないよ。陸は悪くない」
大暴れしたソラ、庭に落ちた私の髪留め。この二つがそろえば、誰だってそう思う。
「俺はちゃんとお前を信じたかったんだよ。でも、できなかった。ずっと「もしかしたら」って、そればっかり繰り返してた。これからはもう迷わない。ハナのことを信じる。だから、お前も俺のこと、少しくらいは信じてくれると、その、嬉しい」
私の手を取ると、陸はそっと髪留めを握らせた。一度は私から消えてしまった光が、また戻ってきてくれた。嬉しくてたまらないのに、どこか切ないような、そんな気持ちが胸を満たす。
「つけてみろよ」
「無理だよ。この間のはアマネにやってもらったんだもん」
「アマネって、お前の友達?」
「――まあ、そんなとこ」
アマネが聞いたら機嫌を悪くしそうだな、なんて思う。
「貸してみろって。これを留めりゃいいんだろ」
陸が私の髪に触れる。近くなった距離に思わず顔が熱くなった――が。
「いたた! 痛い、痛いよ!」
力任せにぐいぐいと押しつけられて、悲鳴を上げた。
「え、こうやるんじゃねーの?」
「頭に穴が空くかと思った。陸、下手くそ」
髪留めを奪い返して自分でやってみたけれど、アマネがやってくれたときみたいに、パチンと澄んだ音がしない。手を離すと、ずるずると滑り落ちてくる。
「お前も下手くそじゃん」
「う……うるさいな!」
私たちはしばらくの間にらみ合っていたけれど、どちらかともなく吹き出して、笑い合った。小屋はもうだいぶ暗くなって、目をこらさないと陸の顔もよく分からないくらい。
けれど、境界線の赤だけはいつまでも鮮やかで、私の視界の片隅にあり続けた。
真っ暗になる前に、と陸は帰っていった。
「じゃあ、またな」
「うん」
いつもの挨拶ができることに。また、があることに嬉しくなってしまう私は、本当にどうしようもない。
陸は、小屋の扉を閉めるとき「明日は早めに来いよ。絶対だぞ」って言った。あれは、何か悪いことを思いついた顔。ちょっとだけ分かってきた。陸のこと。
山道を歩きながら、手の中の髪留めをそっと握りしめる。
――俺はお前に会いたい。会えなくなるなんて、嫌だ。
私にそんなことを言ってくれる陸がくれた大切なもの。背負ったカゴは、いつもよりずっとずっと重いのに、ちっとも気にならなかった。
「ずるいなぁ」
陸は本当にずるい。あんなこと言われたら、私はもう戻れないよ。
そう言えば、陸はオニのことも掟のことも何も知らないって言ってたっけ。今も、何も知らないんだろうな。掟を破ったオニがどうなるか。
「まあいいか」
この掟ができてから、まだそれほど年月は経っていないらしい。せいぜい五十年前くらいだとか。その間に出た掟破りは二人。
一人目は男のオニだったという。これがきっかけとなって、オニとヒトの間に掟が作られた。このオニは姿を消した。長が手に掛けたとも、ヒトに殺されたとも言われているが、本当のところは長以外誰も知らない。
二人目は私の母。私を産んで死んだ。
「三人目になるのか、あたしが」
それだけは絶対に嫌だと思っていた。母と同じことをするなんてあり得ないって。
でも――私が陸に会いたいと思ったように。死んでしまうかもしれないことさえ「まあいいか」なんて思ってしまうように。母も父に会いたいと思ったんだろうか。
そこまで考えて私は大きく頭を横に振った。
もう考えない。ただ私がしたいようにしよう。その結果は全て私ひとりが背負えばいい。正しくなくても、間違っていても、それがオニでもヒトでもない私の選択。




