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あの夜、アマネはずっと私の小屋で帰りを待っていてくれた。ずぶ濡れで戻った私を見ると、泣きそうな顔で言葉を失っていた。自分じゃ分からないけれど、ずいぶんとひどい姿になっていたらしい。
雨の滴が垂れるたび、顔にじくりと刺すような痛みが走るのは、押さえつけられたときにできたいくつかの切り傷のせいだろう。小屋の中に入って雨が遮られると、緊張がほどけて全身の力が抜けた。
「姉さま!」
アマネが慌てて私の体を支える。
大丈夫。着物が濡れちゃうよ。あんたによく似合ってる、そのきれいな着物。そう言いたかったけれど、だんだんと意識が糸のように細くなっていく。
「ありがと。おかげで無事だったよ」
そう伝えるのが限界だった。そして、それを最後に私は意識を手放した。
目を覚ましたのは、少し前のこと。いったいどれくらい眠っていたんだろう。アマネが持ってきてくれたのか、私は薄い布団に寝かされていた。おかげで背中の感触はいつもよりずっとましになっている。
熱でもあるのか、それともあの夜の興奮がまだ残っているのか、やけに体が熱い。さらに狭い小屋に反響する雨音が、私の意識をぼんやりとさせる。
雨の日、ヒトは来ないと聞いている。あの小屋は空っぽ。でも、その中には赤い境界線。それは消えることのない、赤――。眠りと覚醒の狭間をさ迷いながら、私はその赤がたゆたう夢を見ていた。
雨音に混じったトントン、と扉を叩く音に、意識がゆっくりと引き上げられていく。
「姉さま、入りますね」
いつもは軽やかなアマネの声も、雨のせいか、今日はどこか湿り気を帯びたように重く感じられた。
「よかった。目が覚めたんですね。気分はいかがですか?」
「よくはないけど、悪くはないよ」
ずっと寝ていたせいか、体のあちこちが軋むように痛んだ。アマネの手を借りて、なんとか起き上がる。
「少しでも召し上がって――」
アマネが差し出した二つの塩むすびを見て、自分の空腹に気付いてしまう。言い終えるのも待たずに手を伸ばすと、まるで飲み込むようにして、それを食べた。
「まあ、そんなに急いで食べたら体に毒ですよ。姉さまは二日以上も眠りっぱなしだったんですから。ああ、もう。顔に傷が。残らなければいいんですけど」
「そんなことより、長はなんて言ってるの」
口の中の米粒を飲み下して、アマネに問い掛ける。
ヒトと関わってはいけない。境界線を越えてはいけない。二つの掟を破った私に、何の処罰もないなんてあり得ない。あれから二日以上経っているというのなら、何かしらもう動きがあるはずだ。けれど、アマネは予想外の言葉を口にした。
「ジンとセキは誰にも、何も言ってないんです。だから、長はもちろん、他のみんなもこのことを知りません」
――今夜のことは全部なしにしてやる。
あの夜、ジンはそう言ったけれど、まさか本当にその通りにするなんて。
「それにしても、どうして二人はその犬を襲おうとしたんでしょうね? こう言ってはなんですが、告げ口すればそれで済むことなのに」
確かに。私に嫌がらせをするためとはいえ、自らも境界線を越えるという掟破りをする必要なんかない。そのうえ、ソラにまで手を出したとなれば、私同様にお咎めなしでは済まされない。
「まあ、あの二人のことですから、大した考えもなしにやったのかもしれませんね。それに、姉さまに邪魔されたなんて、恥ずかしくて言えないんですよ、きっと」
アマネはそう言って笑った。アマネらしくない、無理に作ったような笑い方。私だって、そこに隠された不安に気が付かないほど鈍くはない。
「ですから、今回のことは長に知られずに終わると思います。でも、あの二人に見つかってしまったのは困りましたね。ここはしばらく様子を見るためにも、陸さま――でしたっけ、その方とお会いになるのは控えたほうがいいかもしれませんね」
私から目をそらしながらアマネが口にした言葉は、正しい。
「分かってる。もう陸には、会わない」
「姉さま……」
「なんであんたが泣きそうなのよ」
アマネは正しい。ちゃんとしたオニだから、正しいことを口にする。私の世界が――心が揺れてしまうのは、私がオニでもヒトでもないせいだ。
「いいんだ。あたしだって、オニなんだから」
ずっとそうありたいと願っていたはずなのに、いざ口にしてみたら、雨音にさえかき消されそうなほどに薄っぺらくて軽すぎて、私が知らない誰かの言葉みたいだった。
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雨が上がった。いつも通りの日々が戻ってくる。
「姉さまも具合がよくなったばかりですし、しばらくは私が行きましょうか?」
アマネはそう言ってくれたけれど、断った。あの小屋に――誰も行きたがらない場所に行くことが、私のオニとしての役目。
オニとして生きると決めたからには、それを放り出すようなマネはしたくなかった。
小屋までの道をのろのろと歩く。濡れた道は歩きづらくて、ぶかぶかのスニーカーもよく滑った。背負っているのは空のカゴなのにひどく重くて、小屋までの道のりはいつもの何倍にも思える。
陸はもう着いているんだろうか。こんなに時間を掛けて歩いているんだから、私が着くのはいつもよりずっと遅くなるに違いない。きっと待ちきれなくて帰ってしまうはず。
そう思うのに、心のどこかに期待を残してしまう。どうしても「もしかしたら」が消せないでいる。
風に揺れる木々の音。鳥が飛び立つ音。いつもなら気にも留めない音が、妙に耳についた。もしかしたら、ジンやセキがどこかで見ているかもしれない。今度こそ、私と陸を傷付けてやろうと狙っているかもしれない。そのとき、私は陸を守れるだろうか。
「あたしは、オニだ」
いるのかどうかも分からない二人に、そして自分に言い聞かせるように呟いてみる。
オニとヒトは関わりを持ってはいけない。私はオニで、陸はヒト。だから、もう会っちゃいけない。私たちは境界線で隔てられた、あちらとこちらに分けられた存在。
掟を破ったオニは死ぬ。では、掟を破ったヒトはどうなるんだろう。私はどうなったっていいけど、陸がひどい目に遭うのは嫌だ。
私が小屋にたどり着いたとき、夕陽の橙色はもうほんの少ししか残っていなかった。いつもなら陸を見送って、帰りの道を歩いているころ。山に潜むものたちが、夜に備える気配がする。陸も、きっともう帰ってしまったはずだ。
それでも念のため、足音を忍ばせて近付くと、扉の格子戸からそっと中をのぞく。
薄暗い闇の中にぼんやりと浮かぶ赤い境界線と――その向こうにあるのは、陸の姿だった。
「――っ!」
手のひらで口を覆ってしゃがみ込む。そうでもしないと、叫びだしてしまいそうだった。
あたしはオニだ。胸の中で何度もそう繰り返す。だから、もう会わない。会う必要なんかない。そう思っていたのに。
私の世界は今、ぐらぐらでもゆらゆらでもふわふわでもなく、あとほんの少し力が加わっただけで弾けてしまうくらいに張りつめていて、揺れ動く余裕なんてちっとも残っていなかった。
こんな気持ち、知らない。
私はその場にしゃがみ込んだまま、ずっと動けないでいた。どれくらいそうしていたんだろう。私と陸は、いろんなものを間に挟んで、ただそこにいた。
陸と交わした言葉はたくさんあるけれど、今のこの沈黙にはもっともっとたくさんの意味があって、時間が過ぎるほどに、陸と私の心がぴったり重なって一つになってしまうような、そんな気さえしていた。
陸もきっと気付いている。扉の向こう、境界線の向こうに私がいるって気付いている。このままこうしているわけにはいかないけど――。
「ハナ」
沈黙が、ぴり、と音を立てて破れた。
「いるんだろ、そこに」
陸の声に、心臓がぎゅうっと絞られるみたいに痛くて、苦しくて、どうにもならないくらい切なくなる。
陸、陸、陸。名前を呼びたい。何度だって呼びたい。
「俺、お前に会えるまで、今日帰んねーから」
そんなの、ずるい。どうしたらいいか分からなくなる。あたしはオニだ。何度繰り返したって、そんな薄っぺらい言葉は、私の中で暴れ回る鼓動に弾き飛ばされてしまう。
差し込む光から完全に橙色が消えた。あとは暗闇に沈むだけ。
ああ、もう戻れない。
私はそっと扉を開けた。




