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天気予報通り、次の日には青空が広がっていた。久々の太陽が、あっという間に全てを乾かしていく。陸は縁側に座って、庭でカゴに野菜を詰め込んでいる千代をずっと眺めていた。花柄の農作業着が、忙しなく動いている。いつもより量が多い気がするのは、長雨のせいで空いた期間を考慮しているからだろうか。
「なぁ、ばあちゃん」
声を掛けると、千代は手を動かしたまま「なんだい?」と応えた。
「俺のじいちゃんって、どんな人だった?」
「また変なことを聞くね」
「だって俺、じいちゃんの話って聞いたことねーし」
陸が生まれるよりずっと前――孝男が生まれてすぐに祖父は亡くなったと聞かされていた。けれど、この家には祖父の痕跡がまったくなかった。
写真の嫌いな人だったからと、仏壇にあるのは空っぽの写真立てだけ。千代も孝男も思い出話ひとつするわけでもない。陸にとって祖父は、実在しない伝説上の生き物に等しかった。
「そうだねぇ」
千代は手を止めると、陸の隣に腰掛けた。煙草に火を点け、煙を吐き出す。細く白くたなびいた煙は雲に似ているけれど、空に届く前に消えてしまう。
「変ったやつだったよ。うちの畑から野菜を盗んだかと思えば、そのお詫びにって朝から晩まで手伝いに来たりするし、急に現れたかと思えば、突然どっかに行っちまう」
「ずいぶん迷惑なやつだな」
千代はじっと陸の顔を見つめた。いつもよりずっと優しいその視線に、なんだか照れくさくなってしまう。
「な、なんだよ」
「いや、どことなくあんたに似てる気がするよ。最近は、特にね」
陸からそらされた視線は、立ち上る煙の先へと向けられていた。
「ばあちゃんは、その……じいちゃんのこと、好きだったのか?」
一瞬の間をおいて、千代が盛大に吹き出した。その反応に、陸の顔がかぁっと熱くなる。
「何を言うかと思ったら……そ、そんなことかい!」
「べ、別にちょっと聞いてみただけだよ!」
身体を折り曲げ、ひいひいと喉を鳴らして笑うせいで、真っ直ぐに伸びていた煙草の煙が青空に描く白線は、ずいぶんと歪なものになっていた。
やめときゃよかった。遅すぎる後悔を心の中でしていると、ひとしきり笑った千代が、目尻に溜まった涙を指先で拭って、大きく息を吐いた。
「好きだったよ。この世の中で一番ね。どこまでもおかしなやつで、ダメなやつで、あたしを一人にする最低なやつだったけど、誰より信じられるやつだった」
そう口にする千代は、陸の「ばあちゃん」ではなく、一人の「女性」だった。恋愛経験の乏しい陸にも、空に向かうその視線には「愛」と呼ばれるものがあることくらい分かった。
「会ってみたかったな、俺。じいちゃんに」
「あんたとは気が合っただろうね。ロクなやつじゃなかったから」
「なんだそれ」
二人で小さく笑い合うと、陸は立ち上がった。太陽が少しずつ傾き始めている。目が覚めるようだった空の青色も薄く、柔らかくなっていた。
カゴに手を掛けると、千代が注意するように言った。
「気を付けな。少し重いよ。今までと明日の分もあるからね」
「明日?」
「明日は祭りがあるからね。みんな忙しくて持っていく暇がないのさ」
隼が話していたやつか、と思い当たる。誘われたまま、何の返事もしていないけれど。
「それって向こうも分かってんの?」
「明日の朝に鳴らす花火で、分かるようになってる。毎年のことさ」
だとすれば、今日ハナに会えなければ、明日も会えないということになる。なら、絶対に今日じゃなきゃダメだ。時間が経てば経つほど、自分はもっと揺れてしまう。
「俺さ、今日遅くなるかも」
「そうかい」
千代は、どうしてと問うこともなく、新しい煙草に火を点けた。
カゴを背負うと、千代の言った通り、いつもよりずっと重い。それでも、陸はその重さを全身で受け止めた。
「ばあちゃんはさ、いつまでこんなこと続けるつもりなんだよ」
この山に住むというオニに、こうやって食べ物を届けて、閉じ込めて、いないもののように扱って、いつの間にか消えてしまうことを願うような日々を、千代は繰り返してきたのか。
それは、陸が知ってる千代の選ぶやり方じゃない。それでも、千代はそんな日々を積み重ねてきた。そこにはきっと理由があるはずだ。
「疑問があれば答えを求めたくなる。そのために問い掛ける。あんたも、少しは頭と心を使うようになったじゃないか。立派なもんだ」
「誤魔化すなよ」
「誤魔化してなんかないよ。正真正銘の本心さ。ただね」
太陽に雲が掛かったのか、光が遮られて薄い闇が二人を包む。とたんに、空気がひやりと冷たくなった気がした。
「あたしにも分からないんだよ。こんだけ長く生きておいて情けない話だけどね。あたしがずっと見つけられないでいる答えを、あんたなら見つけられるかもしれない。そう思ったんだよ」
太陽の光が戻ってくる。千代の顔に落ちていた影が一気に消えて、いつも通りのいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「巻き込んで悪いね。老い先短い年寄りのわがままだ。許しておくれよ」
千代は煙草を地面に落とすと、長靴で踏みつぶした。泥にまみれた吸い殻を拾い上げると、家の中に姿を消してしまう。
ほんの少しのぞかせた千代の心には、陸が想像もできないほどの深い葛藤が秘められているようだった。千代がずっと見つけられなかった答え。それは、いったい「何」あるいは「誰」に対する答えなのか。それすら分からない自分に見つけられるものなのか。
「行ってくる」
陸は、誰にでもなくそう言って、まだ雨の名残をとどめている山へと足を踏み入れた。
足を進めるたびに、土と緑のにおいが強くなる。ひどく湿った空気のせいか、蝉や鳥の声も今日はどこか控え目だ。
ジーンズのポケットにはあの髪留めがある。
これはハナにあげたものだから、ハナに返さなければ。庭に落ちていた理由はもう考えない。
祖父に対して、あいつは誰よりも信じられるやつだった、となんの迷いもなく言い放った千代の姿がまぶしかった。自分もそうだったら、と思った。
せめて、これを返すときまでは――ハナの口から真実を聞くまでは、勝手に沸き上がってくる疑いを押し込めておく強さが欲しい。陸は心の底からそう思った。
今は、ただ目をそらすことが、陸の精一杯だった。




