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その夜、陸のスマホが着信を知らせるメロディーを奏でた。
『もしもし、久し振りだね、鬼沢くん』
懐かしい声が耳に届く。こちらに来て、まだそれほどの時間を過ごしたわけでもないのに、向こうにいたのがはるか昔のように思えた。
「岡嶋か。どうした?」
『もうすぐそっちに行くから。いまどうしてるのかなーと思って』
そういえば、千代もそんなことを口にしていたような。いろいろあり過ぎて、ほぼ忘れていたに等しい。
「こっちは……まあ、それなりにやってる。お前は?」
『うーん、なんていうか、その……ちょっとややこしいんだけどね』
岡嶋は言葉を濁すばかりで、なかなか話そうとしない。
「なんだよ、めんどくせーな。はっきりしろよ」
『僕、鬼沢くんのところでバイトしてるでしょ。で、ある日お父さんが「君はもっと体力をつけたほうがいいぞ!」って、知り合いの工務店に連れていかれて、建築現場で働くことになって……』
なに考えてんだ、あのクソ馬鹿親父……。豪快かつ脳天気な笑い声が、久々に陸の耳に甦った。だいたい、岡嶋みたいなヒョロヒョロで眼鏡を掛けたようなやつ(眼鏡は関係ないけど)が肉体労働なんてできるわけがない。
「確かに、何かあったら言えとは言ったけど、それはお袋にであって、親父はやめとけってちゃんと伝えただろ」
内心、申し訳ないと思いながらも、できれば責任は回避したかった。特に、親父の尻ぬぐいなんてごめんだ。
『鬼沢くん、落ち着いて。まだ続きがあるから。それに、由梨子さんも行ったほうがいいって勧めてくれたんだよ』
「はぁ?」
親父は当てにならないけど、お袋がそう判断したというのなら、なにか思惑があったのかもしれない。陸にとって、両親に対する評価はそれほどに差があった。
『僕も、てっきり力仕事をさせられるのかと思ったんだけど、頼まれたのは、ある人の家庭教師なんだ。その人は昔グレてたからあんまり学校に行ってなくて。今は結婚して、最近子どもが生まれたんだけど、このままじゃその子が大きくなったとき、勉強を教えてあげられない、でもどうしたらいいか分からないって、孝男さんに相談したんだって』
話の着地点がどこにあるのか想像もできず、陸はただ相槌を打って先を促した。
『仕事の合間とか休憩時間、それとお休みの日に一緒に勉強してたら、その人楽しくなっちゃったみたいでね。通信制の学校に通い直そうかな、みたいな話もしてるんだよ。僕ね、その人に「先生」なんて呼ばれてるんだ』
――僕ね、教師になりたいんだ。僕が母さんや鬼沢くんに助けてもらったみたいに、誰かを助けられたらいいなって。
岡嶋が陸に語ってくれた夢。いま、その夢が少し叶ったということか。
スマホの向こうから届く声には、以前の岡嶋にはない、自信のようなものがあった。
『それにね、その人この辺じゃ「デビル」って恐れられた伝説のヤンキーだったんだ』
「なんだそれ」
ちょっと感動していたところにぶち込まれた物騒なワードに、陸は思わず突っ込んでしまう。
『僕だってよく知らないけどさ。でも、小野寺くんがそう言ってた』
「いや、小野寺って誰だよ」
物騒なワードの次は聞いたことのない名前。岡嶋の口から語られるのは、陸が知っていた世界であるはずなのに、今や遠い外国の話を聞いているようだった。
『小野寺くんは僕らと同じクラスだよ。ほら、鬼沢くんの退学が決まった日にケンカした人たちの中にいたでしょ。金髪の』
「ああ、あいつか」
同じクラスだというのに、さらに殴って鼻血を流させたあげく、最後には蹴り飛ばした相手だというのに、名前も覚えていないなんてのも不思議だな、と陸は他人事のように思った。
『僕とデビルさんが一緒にいるとこ見て、びっくりしてた。それで、一緒にご飯食べたんだけど、お前もいつまでも悪ぶってないで少しは真面目にやらないと、将来後悔するぞって言われて、小野寺くんもいろいろ考えたみたい』
「まあ、伝説のデビルが言ってんだからな」
『そしたら、次の日あの集団が鬼沢くんの家に集って』
「……俺んちに?」
『鬼沢さんのとこなら間違いないってデビルさんに言われたんだって。俺たちもっと真っ当に生きたいんですってみんなの言葉に孝男さんが感動しちゃって、みんなまとめて面倒見てやる、これからは俺の息子だと思っていいぞ!……って』
自分がいない間に生まれたという新しいコミュニティーに、自分は入っているんだろうか。いや、別に入りたいわけじゃねーけど。その疎外感になんとなく寂しさを感じる自分が悔しい。
『でも、みんなは由梨子さんに懐いちゃって、孝男さんは部屋の隅っこで拗ねてるよ』
その図が容易に想像できて、不覚にも少し笑ってしまう。
「なんか、俺がいないほうがうまくいってる気がする」
『そうかな。鬼沢くんがいなかったら僕らが集ることなんか絶対なかったと思うけど』
「お前はもう許してんの? あいつらにされたこと、全部」
『許すっていうか……もういいやって感じかな。話してみると、みんな意外といい人たちだし』
「……お前、すげーな」
陸から漏れた言葉は本心からのものだった。
『あはは、変な話だよねぇ。じゃあ、そっちに行くの、楽しみにしてるね』
電話が切れた。スマホの黒い画面に映り込む自分の顔は、なんだか知らない人のように思える。
岡嶋に対する苛立ちの正体が、少し分かった気がした。
ずっとヘラヘラして、誰にでもいい顔をして、どんなことがあっても恨み言一つ言わない。それは弱さだと思っていたけれど、あいつは自分が本当に大切なものを知っているんだ。心の中の、譲れないもの、守らなくちゃいけないものを知っているから、ああやって笑っていられるんだ。
陸にとっての強さとは、弾き返すこと。でも、岡嶋の強さは、受け入れること。
――鬼沢くんは、僕のことを助けてくれたじゃない。
あの日、委員長が言えなかった――いや、陸が言わせなかったあの言葉を、岡嶋はいとも簡単に口にした。
もしも、自分が岡嶋のようだったら。
委員長は言葉を飲み込むことはなかった。自分も『オニ』と呼ばれることはなかった。たとえ『オニ』と呼ばれることになったとしても、この手が誰かを殴り続けるようなことにはならなかったはずだ。
そう思ってしまうのが悔しかった。情けなかった。恥ずかしくてたまらなくなった。そのしなやかな強さが羨ましくて仕方なかった。
陸のよく知っている場所で生まれた、陸の知らないコミュニティー。それは、岡嶋がいたから生まれたものだ。
引出しから髪留めを取り出した。
ハナと今まで過ごした短い時間が、自分の心を導いたというのなら、それを信じたい。けれど――。
――あたしは、オニだ!
偽物の宝石についた小さな傷を指でなぞると、光が揺れた。
それはまるで陸の心のよう。
気が付けば、雨音はもう聞こえなくなっていた。




