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「オレ」と「キミ」のボーダーライン  作者: 清谷ロジィ
たたかう ~ハナside~
33/65

 足を進めるにつれ、暗闇が薄くなる。木々を抜けると、見たこともないくらい広い空。星の多さに息が詰まりそうだ。

 少し先から砂利を踏みしめる音がした。目をこらすと、二つの影が揺れている。


「まず口を押さえろ。騒がれたら厄介だ」

「なあジン。もうここで食っちまおうぜ。そのほうが早いだろ」

「少しは我慢しろ。バカが」


 ひそひそ交わされる声は、私とは違う、本当のオニのもの。

 じゃらりと鎖の鳴る音、そして、小さなうなり声がその奥から聞こえる。ソラが二人の気配に気付いたようだった。ジンの舌打ちが響く。


「おい、急げ」

「おう」


 その瞬間、私は地面を蹴って、影のひとつに全力で突っ込んだ。柔らかい肉の感触と体温に総毛立つ。


「うぉっ!」


 不意を突かれて漏れた声は、セキのものだった。ぶつかった勢いのまましがみつく。


「ハナ、てめぇ!」

「させない」


 私の声はひどく小さくて震えていた。この後に及んでも、私はこんなにも臆病だ。だけど――。しがみつく腕に力を込める。


「おい、セキ」


 ジンが顎をしゃくったかと思ったら、セキがもの凄い力で私を引きはがした。まるで木の葉をちぎるみたいに。

 地面に押し倒され、うつぶせになった私の背中をセキの膝が踏みつける。息が止まりそうだった。乱暴に頭を押さえつけられ、砂利の鋭さが頬に刺さる。


「お前はやっぱりオニじゃねぇんだな、ハナ」


 しゃがみ込んだジンが、私を見下ろしている。浮かんでいるその表情は、ニヤニヤのもっとずっと奥にある、嫌悪と憎しみ。


「そこで見てろ」


 ジンが立ち上がり、私に背を向ける。その奥からまた鎖の鳴る音がした。闇の奥に目をこらすと、ソラが戸惑ったようにうろうろと動き回っているのが見えた。


「いい子だ。そのまま大人しくしてろよ。さもないと、この場で食ってやる」


 うわべだけの私の脅し文句とは違う、真実を含んだジンの言葉が、ソラの戦意を奪ってしまう。尻尾は後ろ足の間でだらりと垂れ下がり、助けを求めるような高くて細い声で、弱々しく鳴き続けている。


「ソラ!」


 押さえつける力に抗って叫んだ私の声に、ソラの耳がぴくりと動いた。


「黙ってろ」


 私を制圧するセキの力は、まるで世界のすべてがのし掛かってくるみたいだった。アマネが結ってくれた髪なんて、きっともうぐちゃぐちゃだ。


「なあ、ハナ」


 ジンが振り返った。暗闇に溶けたその顔はよく見えない。


「お前、オニになりたいんじゃねぇのか。俺たちと同じ、ちゃんとしたオニに」


 少し寂しげな口調に、一瞬抵抗するのを忘れてしまう。ジンがそんな話し方をするなんて知らなかった。ニヤニヤのもっとずっと奥にある嫌悪と憎しみ。そのほんの少し先にはまだ別の何かがあるんだろうか。

 痛みと焦り、それに疑問が入り込んで、髪の毛以上にぐちゃぐちゃに絡まった私の心は、私から言葉を奪ってしまう。


「だったらもうあのヒトには会うな。それができるなら今までのことは黙っててやる。お前のこともオニだって認めてやるよ。その犬は契約の証だ」


 ジンの言葉に、また私の世界がわずかに揺れる。情けない。でも、それが私。弱くて情けない戦うことから逃げ続けただけの私。――でも、陸とあんたは違うでしょ?

 私とソラの視線がぶつかる。

 あんた、陸の弟なんでしょ?

 あんたがいなくなったら陸が悲しむの。

 だからお願い。戦ってよ。

 お願い。

 陸を守って。

 あたしも――戦うから!

 一瞬の間をおいて、ソラの目が光を取り戻す。弱々しく垂れ下がっていた尻尾がゆらりと揺れ、耳が天を突くようにピンと上を向いた。ウウ……と低いうなり声がした。


「ジン、気を付けろ」


 セキが注意を促した時にはもう遅かった。暗闇と静けさを粉々に打ち壊すソラの鳴き声が響き渡る。まるで壊れた楽器みたいに音量も音程もめちゃくちゃで、狂ったように吠え、暴れ回る。


 ――そいつらに向かってめちゃくちゃ吠え始めたんだ。ひでーもんだったぜ。


 ソラと陸が出会ったとき、陸をオニと呼んだやつらに吠え掛かったときも、きっとこうだったんだろう。

 その激しさにジンが思わず後ずさり、私を押さえつけるセキの手が緩んだ。私は、全身の力を込めて身をよじり、セキの支配下から抜け出す。そして、セキの腕に思い切り噛み付いた。口の中に広がる血の味に、むせかえりそうになる。


「――っ!」


 声にならぬ叫びを上げたセキを突き飛ばし、ジンとソラの間に滑り込んだ。私が両手を広げて立ち塞がると、ソラの咆哮がぴたりとやんだ。けれど、


「させない」


 真っ直ぐに二人を見据えて、はっきりと口に出す。もう声は震えない。


「ハナ、お前は……っ!


 ジンの声が怒りで詰まる。私のほうへ一歩踏み出した瞬間、家の中から「ソラ?」と声がした。陸の声だ。こんなときなのに心臓が跳ねる自分は、本当にどうしようもない。


「やべぇ、逃げねぇとまずいぜ」

「――分かってる」


 私たちのすぐそばで、雨戸がガタガタと揺れている。焦るセキに対して、ジンの声はやけに落ち着いていた。けれど、向けられた背中には怒りが満ちていた。


「ハナ」


 肩越しに振り返ったジンの目は、まるで燃えているようだった。


「今夜のことは全部なしにしてやる。でも、お前のことは許さねぇからな」


 吐き捨てるように言って、二人は山へと消えていった。とにかく、なんとか助かった。ホッと胸を撫で下ろす。全身の力が抜けて、今にも座り込んでしまいそうなくらいだ。

 でも、私も早く逃げなくちゃ。私が境界線のこちら側にいるのを、陸に見られるのは都合が悪い。

 ソラは、陸が言っていたみたいに「どうだ」という顔でこちらを見ていた。


「ありがと」


 頭を撫でてやると、その手をぺろりと舐められた。くすぐったくてちょっと笑ってしまう。遠くから砂利の鳴る音が聞こえた。陸だ。


「じゃあね」


 ソラに小さく手を振って、私は山の暗闇に飛び込んだ。

 再び境界線を越え、山道を駆け上がる。二人の姿はもうどこにも見つけられなかった。いつもの小屋を越え、さんざん走って、気が付けばあの川縁にたどり着いていた。私だけの秘密の場所。

 手ですくうのももどかしく、私は顔を突っ込んで水を飲んだ。その冷たさと水音が、荒れに荒れた心を落ち着かせてくれる。

 顔を上げて一息つくと、今さらながら身体のあちこちが痛んだ。さっきまでずっと気持ちが張り詰めていたから気が付かなかった。見れば、手が小さく震えていた。

 戦ったんだ。私は、戦ったんだ。

 セキに噛み付いたときの、肉の感触と血の味を思い出す。

 勝ちや負けがあるわけではないけれど、私は私の居場所を守るために戦った。今はそれだけでいい。

 ぽつり、と頬に弾けるような感覚。見上げれば、さっきまで見えていた星は黒く塗りつぶされていた。四方八方から、ぽつ、ぽつ、と弾ける音がした。

 雨か。頭に手をかざした瞬間、ハッとした。

 髪留めがない。

 振り返っても、辺りを見回しても、川の中にも、広がっているのは暗闇だけ。あの光はどこにも見つけられなかった。

 降り出した雨が私を濡らして、体温を奪っていく。


「陸……」


 呟いた大切な名前も、雨音にかき消されてしまった。


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