5
足を進めるにつれ、暗闇が薄くなる。木々を抜けると、見たこともないくらい広い空。星の多さに息が詰まりそうだ。
少し先から砂利を踏みしめる音がした。目をこらすと、二つの影が揺れている。
「まず口を押さえろ。騒がれたら厄介だ」
「なあジン。もうここで食っちまおうぜ。そのほうが早いだろ」
「少しは我慢しろ。バカが」
ひそひそ交わされる声は、私とは違う、本当のオニのもの。
じゃらりと鎖の鳴る音、そして、小さなうなり声がその奥から聞こえる。ソラが二人の気配に気付いたようだった。ジンの舌打ちが響く。
「おい、急げ」
「おう」
その瞬間、私は地面を蹴って、影のひとつに全力で突っ込んだ。柔らかい肉の感触と体温に総毛立つ。
「うぉっ!」
不意を突かれて漏れた声は、セキのものだった。ぶつかった勢いのまましがみつく。
「ハナ、てめぇ!」
「させない」
私の声はひどく小さくて震えていた。この後に及んでも、私はこんなにも臆病だ。だけど――。しがみつく腕に力を込める。
「おい、セキ」
ジンが顎をしゃくったかと思ったら、セキがもの凄い力で私を引きはがした。まるで木の葉をちぎるみたいに。
地面に押し倒され、うつぶせになった私の背中をセキの膝が踏みつける。息が止まりそうだった。乱暴に頭を押さえつけられ、砂利の鋭さが頬に刺さる。
「お前はやっぱりオニじゃねぇんだな、ハナ」
しゃがみ込んだジンが、私を見下ろしている。浮かんでいるその表情は、ニヤニヤのもっとずっと奥にある、嫌悪と憎しみ。
「そこで見てろ」
ジンが立ち上がり、私に背を向ける。その奥からまた鎖の鳴る音がした。闇の奥に目をこらすと、ソラが戸惑ったようにうろうろと動き回っているのが見えた。
「いい子だ。そのまま大人しくしてろよ。さもないと、この場で食ってやる」
うわべだけの私の脅し文句とは違う、真実を含んだジンの言葉が、ソラの戦意を奪ってしまう。尻尾は後ろ足の間でだらりと垂れ下がり、助けを求めるような高くて細い声で、弱々しく鳴き続けている。
「ソラ!」
押さえつける力に抗って叫んだ私の声に、ソラの耳がぴくりと動いた。
「黙ってろ」
私を制圧するセキの力は、まるで世界のすべてがのし掛かってくるみたいだった。アマネが結ってくれた髪なんて、きっともうぐちゃぐちゃだ。
「なあ、ハナ」
ジンが振り返った。暗闇に溶けたその顔はよく見えない。
「お前、オニになりたいんじゃねぇのか。俺たちと同じ、ちゃんとしたオニに」
少し寂しげな口調に、一瞬抵抗するのを忘れてしまう。ジンがそんな話し方をするなんて知らなかった。ニヤニヤのもっとずっと奥にある嫌悪と憎しみ。そのほんの少し先にはまだ別の何かがあるんだろうか。
痛みと焦り、それに疑問が入り込んで、髪の毛以上にぐちゃぐちゃに絡まった私の心は、私から言葉を奪ってしまう。
「だったらもうあのヒトには会うな。それができるなら今までのことは黙っててやる。お前のこともオニだって認めてやるよ。その犬は契約の証だ」
ジンの言葉に、また私の世界がわずかに揺れる。情けない。でも、それが私。弱くて情けない戦うことから逃げ続けただけの私。――でも、陸とあんたは違うでしょ?
私とソラの視線がぶつかる。
あんた、陸の弟なんでしょ?
あんたがいなくなったら陸が悲しむの。
だからお願い。戦ってよ。
お願い。
陸を守って。
あたしも――戦うから!
一瞬の間をおいて、ソラの目が光を取り戻す。弱々しく垂れ下がっていた尻尾がゆらりと揺れ、耳が天を突くようにピンと上を向いた。ウウ……と低いうなり声がした。
「ジン、気を付けろ」
セキが注意を促した時にはもう遅かった。暗闇と静けさを粉々に打ち壊すソラの鳴き声が響き渡る。まるで壊れた楽器みたいに音量も音程もめちゃくちゃで、狂ったように吠え、暴れ回る。
――そいつらに向かってめちゃくちゃ吠え始めたんだ。ひでーもんだったぜ。
ソラと陸が出会ったとき、陸をオニと呼んだやつらに吠え掛かったときも、きっとこうだったんだろう。
その激しさにジンが思わず後ずさり、私を押さえつけるセキの手が緩んだ。私は、全身の力を込めて身をよじり、セキの支配下から抜け出す。そして、セキの腕に思い切り噛み付いた。口の中に広がる血の味に、むせかえりそうになる。
「――っ!」
声にならぬ叫びを上げたセキを突き飛ばし、ジンとソラの間に滑り込んだ。私が両手を広げて立ち塞がると、ソラの咆哮がぴたりとやんだ。けれど、
「させない」
真っ直ぐに二人を見据えて、はっきりと口に出す。もう声は震えない。
「ハナ、お前は……っ!
ジンの声が怒りで詰まる。私のほうへ一歩踏み出した瞬間、家の中から「ソラ?」と声がした。陸の声だ。こんなときなのに心臓が跳ねる自分は、本当にどうしようもない。
「やべぇ、逃げねぇとまずいぜ」
「――分かってる」
私たちのすぐそばで、雨戸がガタガタと揺れている。焦るセキに対して、ジンの声はやけに落ち着いていた。けれど、向けられた背中には怒りが満ちていた。
「ハナ」
肩越しに振り返ったジンの目は、まるで燃えているようだった。
「今夜のことは全部なしにしてやる。でも、お前のことは許さねぇからな」
吐き捨てるように言って、二人は山へと消えていった。とにかく、なんとか助かった。ホッと胸を撫で下ろす。全身の力が抜けて、今にも座り込んでしまいそうなくらいだ。
でも、私も早く逃げなくちゃ。私が境界線のこちら側にいるのを、陸に見られるのは都合が悪い。
ソラは、陸が言っていたみたいに「どうだ」という顔でこちらを見ていた。
「ありがと」
頭を撫でてやると、その手をぺろりと舐められた。くすぐったくてちょっと笑ってしまう。遠くから砂利の鳴る音が聞こえた。陸だ。
「じゃあね」
ソラに小さく手を振って、私は山の暗闇に飛び込んだ。
再び境界線を越え、山道を駆け上がる。二人の姿はもうどこにも見つけられなかった。いつもの小屋を越え、さんざん走って、気が付けばあの川縁にたどり着いていた。私だけの秘密の場所。
手ですくうのももどかしく、私は顔を突っ込んで水を飲んだ。その冷たさと水音が、荒れに荒れた心を落ち着かせてくれる。
顔を上げて一息つくと、今さらながら身体のあちこちが痛んだ。さっきまでずっと気持ちが張り詰めていたから気が付かなかった。見れば、手が小さく震えていた。
戦ったんだ。私は、戦ったんだ。
セキに噛み付いたときの、肉の感触と血の味を思い出す。
勝ちや負けがあるわけではないけれど、私は私の居場所を守るために戦った。今はそれだけでいい。
ぽつり、と頬に弾けるような感覚。見上げれば、さっきまで見えていた星は黒く塗りつぶされていた。四方八方から、ぽつ、ぽつ、と弾ける音がした。
雨か。頭に手をかざした瞬間、ハッとした。
髪留めがない。
振り返っても、辺りを見回しても、川の中にも、広がっているのは暗闇だけ。あの光はどこにも見つけられなかった。
降り出した雨が私を濡らして、体温を奪っていく。
「陸……」
呟いた大切な名前も、雨音にかき消されてしまった。




