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「オレ」と「キミ」のボーダーライン  作者: 清谷ロジィ
たたかう ~ハナside~
32/65

 夜が更けると、山は静けさの中に気配を秘めて眠りにつく。私も、床に寝転がってとろとろとまどろんでいた。板の冷たさと硬さを背中に感じながら、今日の出来事が夢のように、暗闇の中に浮かんでは消えるのを眺めていた。

 私の帰りを待っていたアマネは、それはそれは心配そうな顔をしていたっけ。


「陸、褒めてくれたよ」


 と言うと、アマネは飛び上がらんばかりにして喜んだ。


「ああよかった! もうずっと気になって何も手につかなかったんです」

「別にあんたが気にする必要なんかないじゃない」

「何をおっしゃるんですか! 姉さまが私に頼んでくれたことですもの。結果が気になるのは当然です」


 少し乱れていた私の髪の毛をさり気なく整えるアマネは、本当に嬉しそうだった。どうして、そんなふうに笑うんだろう。ジンやセキが浮かべるニヤニヤとは全然違うアマネの笑顔に、どうして私は嬉しくなってしまうんだろう。

 ぐらぐら、ぐらぐら。

 今も世界は揺れているけれど、少しだけ足を踏みしめられるようになった気がする。

 指先で髪留めに触れる。

 髪の毛は、アマネが結ってくれたままにしていた。解いてしまうのが惜しくて。それに、陸がくれた髪留めをまだつけていたかったから。


「変なの」


 なんだか変だ。いろんなものが、どんどん変になっていく。でも、悪くない。

 くすりとこぼれた笑いが闇に小さく響く。


「姉さま!」


 夜を鋭く裂くような声がした。私が飛び起きると同時に扉が開いてアマネが飛び込んでくる。


「どうしたの?」

「ジンとセキがいないんです」

「あの二人なら別に珍しいことじゃないでしょ」


 掟を破りさえしなければいいだろう、とあの兄弟はいつもやりたい放題で、お役目を放り出して姿を消すことなんかしょっちゅうだ。


「それが……ちょっと妙なんです。セキが調理場にいた者に「もし犬を連れてきたら、ここでやってくれるか」とか聞いたらしくて。――姉さま?」


 たぶん私は青ざめていた。身体が冷たくなって痛いくらい。


「あたし、行かなきゃ」

「だったら私も一緒に」

「ダメ、あんたは関わらないって約束でしょ」

「でも……」

「知らせてくれてありがと」


 駆け出した私の後ろでアマネが何か叫んだが、その声が届くより早く、私は闇に飛び込んだ。

 さっきまで浮かれていた気持ちがそのまま後悔になる。

 うかつだった。私はなんて、うかつだったのか。あの二人が簡単に引き下がるわけがない。どうにかして私たちのことを知ったんだ。たとえば、私のあとをつけるとか――。

 そして、セキが口にした「犬」とはきっとソラのこと。その目的なんて考えたくもない。


「ダメ……そんなこと、させない」


 走って走って、やっと小屋までたどり着いた。ここから先へは行ったことがないけれど、境界線をたどって下れば、陸の家があるはずだ。陸がそんな話をしていた。

 ぐるりと小屋を回ると、境界線の赤が闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。弾む息をわずかに整えて、私はまた駆け出した。

 ぶかぶかのスニーカーは走りづらくて、何度も転びそうになる。でも、立ち止まってなんかいられない。暗闇の中を必死に走る。

 さっきまで見ていた夢のような現実がいま、悪夢になって襲いかかってくる。暗闇に見ていた光は、絶望に変わろうとしていた。光が差すなんて想像もできないほどの純粋な黒が、目の前に広がっている。

 それでも私は走った。そのたびに揺れる髪留めの感触だけが、たった一つ私に残った確かな光。


****


 境界線をたどって走り続けた。心臓は間断なく鳴って、喉も裂けそうなくらい痛い。何度も最悪な状況が頭をよぎって、足が止まりそうになった。そんな思いも痛みも振り切るように、転がるようにして山を下る。

 それでも、二人の姿はまだ見えてこない。この道は、いったいどこまで続くんだろう。

 この山はよく知っているけれど、こんなにヒトが住む場所に近付いたことはなかった。頼りは、闇に浮かぶ境界線の赤だけだった。

 踏み出した足が滑って、転びそうになるのをなんとか堪える。


「大丈夫、まだ間に合う。絶対、大丈夫だから」


 自分にそう言い聞かせて、足を踏み出す。


 ――でも、行ってどうなるの?


 ぐらぐらした私の世界から声がした。誰とも戦えない私が、ちゃんとしたオニじゃない私が、ジンとセキ、二人のオニを相手に何ができるっていうんだ。


「うるさい!」


 叫んでも、その声は消えてくれない。顔を上げた瞬間、ふっと暗闇が開けた。二つの影が見える。あれだ!

 けれど、私の足が止まってしまう。二人がいるのは境界線の向こう(・・・・・・・)。足音が聞こえたのか、二つの影が振り向いた。


「あれぇ? もしかしてハナちゃんかな?」


 私が嫌いなあのニヤニヤが浮かび上がって見えるようだった。


「なに……してるの。境界線を越えるなんて許されないって知ってるでしょ。早く戻って。今なら見なかったことにしてあげる」


 焦りと怯えに気付かれないように、必死で平静を装う。


「俺たちはこっから先に用があるんだよ」

「あんたたちが犬を襲おうとしてるのは知ってる」


 ジンは舌打ちをすると、咎めるような視線をセキに向けた。悪かったよ、と言いながら、セキが肩をすくめる。


「お前こそ自分の立場分かってんのか? ヒトと仲良くしてるって知られたくなけりゃ黙って見てろよ。あの犬一匹で見逃してやるって言ってんだ。寛大すぎる俺たちに礼くらい言ってもいいと思うけどな」


 ぐらぐら、ぐらぐら。

 ジンの言葉に、私の世界がまた揺れ始める。

 このまま二人を見逃せば、私と陸の時間は守れるかもしれない。いつもみたいに、しゃがみ込んで顔を埋めて耳を塞いでさえいれば――。早鐘のように打っていた心臓の音が、少しずつ静かになっていく。


「お前はオニか? それともヒトか? いい加減はっきりしろよ。ややこしいんだよ、お前は!」


 ぐらぐら、ぐらぐら。

 ジンに返す言葉が、遠ざかっていく二人の足を止めさせる言葉が、どうしても出てこない。

 揺れ続ける世界に吐き気がする。こんなところにいたくない。でも、世界はどんどん私の居場所を奪っていく。私がいてもいい場所はどこにあるの?

 うつむいた視線の先には赤い境界線。こちらとあちらを分けるもの。その赤をぎゅっと握りしめた。縄目がちくちくと手のひらに刺さる。それは、ソラの毛の感触に少し似ていた。

 もし、私がこのまま目を閉じてしまえば、私はきっともう陸の隣には行けない。この境界線よりもっともっと強くて抗えないものが、私たちを隔ててしまう。

 この世界に私の居場所がないのなら、どこへ行ったって同じこと。だったら――。

 戦うんだ。

 私が、いたいと思う場所を守るために。

 大きく息を吸うと、私は境界線の赤を飛び越えた。

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