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夜が更けると、山は静けさの中に気配を秘めて眠りにつく。私も、床に寝転がってとろとろとまどろんでいた。板の冷たさと硬さを背中に感じながら、今日の出来事が夢のように、暗闇の中に浮かんでは消えるのを眺めていた。
私の帰りを待っていたアマネは、それはそれは心配そうな顔をしていたっけ。
「陸、褒めてくれたよ」
と言うと、アマネは飛び上がらんばかりにして喜んだ。
「ああよかった! もうずっと気になって何も手につかなかったんです」
「別にあんたが気にする必要なんかないじゃない」
「何をおっしゃるんですか! 姉さまが私に頼んでくれたことですもの。結果が気になるのは当然です」
少し乱れていた私の髪の毛をさり気なく整えるアマネは、本当に嬉しそうだった。どうして、そんなふうに笑うんだろう。ジンやセキが浮かべるニヤニヤとは全然違うアマネの笑顔に、どうして私は嬉しくなってしまうんだろう。
ぐらぐら、ぐらぐら。
今も世界は揺れているけれど、少しだけ足を踏みしめられるようになった気がする。
指先で髪留めに触れる。
髪の毛は、アマネが結ってくれたままにしていた。解いてしまうのが惜しくて。それに、陸がくれた髪留めをまだつけていたかったから。
「変なの」
なんだか変だ。いろんなものが、どんどん変になっていく。でも、悪くない。
くすりとこぼれた笑いが闇に小さく響く。
「姉さま!」
夜を鋭く裂くような声がした。私が飛び起きると同時に扉が開いてアマネが飛び込んでくる。
「どうしたの?」
「ジンとセキがいないんです」
「あの二人なら別に珍しいことじゃないでしょ」
掟を破りさえしなければいいだろう、とあの兄弟はいつもやりたい放題で、お役目を放り出して姿を消すことなんかしょっちゅうだ。
「それが……ちょっと妙なんです。セキが調理場にいた者に「もし犬を連れてきたら、ここでやってくれるか」とか聞いたらしくて。――姉さま?」
たぶん私は青ざめていた。身体が冷たくなって痛いくらい。
「あたし、行かなきゃ」
「だったら私も一緒に」
「ダメ、あんたは関わらないって約束でしょ」
「でも……」
「知らせてくれてありがと」
駆け出した私の後ろでアマネが何か叫んだが、その声が届くより早く、私は闇に飛び込んだ。
さっきまで浮かれていた気持ちがそのまま後悔になる。
うかつだった。私はなんて、うかつだったのか。あの二人が簡単に引き下がるわけがない。どうにかして私たちのことを知ったんだ。たとえば、私のあとをつけるとか――。
そして、セキが口にした「犬」とはきっとソラのこと。その目的なんて考えたくもない。
「ダメ……そんなこと、させない」
走って走って、やっと小屋までたどり着いた。ここから先へは行ったことがないけれど、境界線をたどって下れば、陸の家があるはずだ。陸がそんな話をしていた。
ぐるりと小屋を回ると、境界線の赤が闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。弾む息をわずかに整えて、私はまた駆け出した。
ぶかぶかのスニーカーは走りづらくて、何度も転びそうになる。でも、立ち止まってなんかいられない。暗闇の中を必死に走る。
さっきまで見ていた夢のような現実がいま、悪夢になって襲いかかってくる。暗闇に見ていた光は、絶望に変わろうとしていた。光が差すなんて想像もできないほどの純粋な黒が、目の前に広がっている。
それでも私は走った。そのたびに揺れる髪留めの感触だけが、たった一つ私に残った確かな光。
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境界線をたどって走り続けた。心臓は間断なく鳴って、喉も裂けそうなくらい痛い。何度も最悪な状況が頭をよぎって、足が止まりそうになった。そんな思いも痛みも振り切るように、転がるようにして山を下る。
それでも、二人の姿はまだ見えてこない。この道は、いったいどこまで続くんだろう。
この山はよく知っているけれど、こんなにヒトが住む場所に近付いたことはなかった。頼りは、闇に浮かぶ境界線の赤だけだった。
踏み出した足が滑って、転びそうになるのをなんとか堪える。
「大丈夫、まだ間に合う。絶対、大丈夫だから」
自分にそう言い聞かせて、足を踏み出す。
――でも、行ってどうなるの?
ぐらぐらした私の世界から声がした。誰とも戦えない私が、ちゃんとしたオニじゃない私が、ジンとセキ、二人のオニを相手に何ができるっていうんだ。
「うるさい!」
叫んでも、その声は消えてくれない。顔を上げた瞬間、ふっと暗闇が開けた。二つの影が見える。あれだ!
けれど、私の足が止まってしまう。二人がいるのは境界線の向こう。足音が聞こえたのか、二つの影が振り向いた。
「あれぇ? もしかしてハナちゃんかな?」
私が嫌いなあのニヤニヤが浮かび上がって見えるようだった。
「なに……してるの。境界線を越えるなんて許されないって知ってるでしょ。早く戻って。今なら見なかったことにしてあげる」
焦りと怯えに気付かれないように、必死で平静を装う。
「俺たちはこっから先に用があるんだよ」
「あんたたちが犬を襲おうとしてるのは知ってる」
ジンは舌打ちをすると、咎めるような視線をセキに向けた。悪かったよ、と言いながら、セキが肩をすくめる。
「お前こそ自分の立場分かってんのか? ヒトと仲良くしてるって知られたくなけりゃ黙って見てろよ。あの犬一匹で見逃してやるって言ってんだ。寛大すぎる俺たちに礼くらい言ってもいいと思うけどな」
ぐらぐら、ぐらぐら。
ジンの言葉に、私の世界がまた揺れ始める。
このまま二人を見逃せば、私と陸の時間は守れるかもしれない。いつもみたいに、しゃがみ込んで顔を埋めて耳を塞いでさえいれば――。早鐘のように打っていた心臓の音が、少しずつ静かになっていく。
「お前はオニか? それともヒトか? いい加減はっきりしろよ。ややこしいんだよ、お前は!」
ぐらぐら、ぐらぐら。
ジンに返す言葉が、遠ざかっていく二人の足を止めさせる言葉が、どうしても出てこない。
揺れ続ける世界に吐き気がする。こんなところにいたくない。でも、世界はどんどん私の居場所を奪っていく。私がいてもいい場所はどこにあるの?
うつむいた視線の先には赤い境界線。こちらとあちらを分けるもの。その赤をぎゅっと握りしめた。縄目がちくちくと手のひらに刺さる。それは、ソラの毛の感触に少し似ていた。
もし、私がこのまま目を閉じてしまえば、私はきっともう陸の隣には行けない。この境界線よりもっともっと強くて抗えないものが、私たちを隔ててしまう。
この世界に私の居場所がないのなら、どこへ行ったって同じこと。だったら――。
戦うんだ。
私が、いたいと思う場所を守るために。
大きく息を吸うと、私は境界線の赤を飛び越えた。




