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「最近ちゃんと散歩してなかったから、今日は連れてけってせがまれてさ」
私たちは、いつものように境界線を挟んで隣同士に座っていた。床に伏せたソラは、陸に背中を撫でられて、気持ちよさそうに目を閉じている。
「陸、言葉が分かるの?」
いくらオニでも動物の言葉が分かるやつなんていないのに。私の驚いた顔を見て、陸は吹き出した。
「分かるわけないだろ。でも、ソラは特別。こいつは俺の弟みたいなもんだから」
「犬なのに?」
「身も蓋もないこと言うなよ」
陸に同調するように、ソラが小さく唸り声を上げる。二対一みたいで何だかすごくやりづらい。
「ソラはさ、俺が小六……あ、十二歳のときに拾ったんだ。そのときはもう、オニって呼ばれて、みんなから浮いてた」
陸の「浮いてた」は、たぶん私が知っている意味――川に落ちた葉っぱとか、空の雲とか――とは違う気がした。でも、なんとなく分かる。私もきっとみんなから「浮いている」んだ。
「道端に捨てられてたこいつが、なんだか自分に似てる気がしてさ。そんで、俺が近寄っていったらクンクン鳴いて、尻尾振りながら俺の手を必死に舐めるわけ。あー、こいつも俺のこと仲間だって思ってんのかなって」
自分のことが話題になっていると気付いたのか、ソラは上半身を起こして、ゆるゆると尻尾を振った。
「だから家に連れて帰ろうと思って抱き上げたとき、たまたま通りかかったクラスのやつらが「オニが子犬を襲ってる」とか「食うつもりなんだ」とか騒ぎ始めたんだよ。イラッとしたから殴って黙らせてやろうと思ってソラを離したんだ。そしたらさ」
陸がくっくっと笑いを漏らす。おかしくって仕方ない、みたいに。
「こいつ、そいつらに向かってめちゃくちゃ吠え始めたんだ。ひでーもんだったぜ。近所のおっさんが何事だって飛び出してきたくらいの大騒ぎ。向こうもビビっちゃってさ、「あの犬はオニの手下だー」って捨て台詞吐いて逃げてった。そんで、ソラは俺のほう見て「どうだ」みたいな顔してた」
陸はすごく嬉しそうだった。ソラとのその思い出は、きっととても大切なものなんだって、私にも分かった。
「だから、弟なんだ」
「そう。でも家じゃ飼えないって言われて、こっちのばあちゃんの家で飼うことになった」
「ばあちゃんって、陸と一緒に野菜を作ってるっていう……」
「おう。俺が来るまで一人でやってたって言うんだから、我が祖母ながら大したばあさんだぜ。そういや、お前の家族は?」
そう聞かれて言葉に詰まってしまう。私は陸のことをほんの少しだけ知っているけど、陸は私のことを何も知らない。
私の母は掟破りのオニで、ヒトである父はそんな母を見捨てて逃げた。そんな二人の間に生まれたオニでもヒトでもない、ぐらぐらした存在が私。そんなこと、陸に言いたくなかった。私が口ごもっていると、陸はなんだかハッとしたように視線をそらした。
「俺、なんか変なこと聞いたな。今の、なし」
背を撫でる陸の手が止まって、ソラは不満そうに鼻を鳴らした。捨てられたとき、ソラも不安だったのかな。寂しくて、泣きたくなったりしたのかな。自分には何の価値もないんだって、思ったりしたのかな。
「お前も触ってみろよ」
「え、でも……あたし、たぶん嫌われてる」
吠え掛かられた記憶が甦る。今だって大人しくしているけれど、向けられた背中からは警戒がにじんでいる。
「大丈夫だって、ほら」
陸が私の手を握って、ソラの背中へと導く。いつの間にか、境界線を越えたやり取りが当たり前になっていく。陸と私の体温が混じり合うことに慣れていく。
薄茶色の毛は固くて少しチクチクしていた。なんだかくすぐったい。そろりと手を滑らせると、柔らかい熱と呼吸が伝わってくる。繰り返しているうちに、ソラがまとっていた警戒がゆっくりと薄れていくのが分かった。
「な? 大丈夫だろ?」
こくりとうなずいて、私はソラの背中を撫で続けた。その感触は、また少し陸に近づけた証のような気がして、とても心地よかった。
差し込む橙色がめいっぱいに濃くなってから、それが弱まり始めたころに、陸はいつも立ち上がる。それは夜がくる合図だから。もし、私が光に色をつけることができたら、もっともっと橙色に染めてやるのに、なんてことを考えてしまう。
「じゃあ、またな」
「うん」
小屋を出ていく陸とソラを見送る。どうせ見えないのだから、今日はアマネみたいに大きく手を振ってみようか。そうすれば、胸がきゅっと詰まるようなこの感じが消えてくれるかもしれない。
「ハナ」
扉を閉める直前、陸がくるりと振り返った。夕陽のせいだろうか、その顔は赤味を帯びて見えた。
「それ、似合ってる。つけてきてくれてサンキュー」
サンキュー。
陸が教えてくれた、私たちがいる場所じゃないところの不思議な言葉。ありがとう、だっけ。馴染みのないそれは、不思議な合い言葉みたいに、私をくすぐったくさせる。
「じゃあ、またな」
もう一度そう言って、陸は今度こそ扉を閉めた。遮られた視線の先にいる陸とソラに、私は小さく手を振った。
似合ってる、だって。
ありがと、だって。
肩に食い込むほどのカゴの重さも、髪の毛があちこち引っ張られる違和感もちっとも気にならない。うきうきとした気分で山道を歩いていく。
私ははしゃいでいた。それはもう、どうしようもないくらい。
だから気付かなかった。
私と、陸と、ソラを見ていた二つの影に。




