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小屋の中でハナを待ちながら、陸は何度も紙袋を持ち直した。
ハナが来た瞬間に渡すべきか、それとも帰るときにさり気なく渡すべきか。だとしたら、その間コレはどこに隠しておけばいいんだろう。
境界線の赤いロープと野菜の詰まったカゴ以外存在しないこの場所で、陸はうろうろと落ち着かない。
そもそもこの袋に入れてこなければよかったんだ、と思い当たる。あのおばさんには悪いが、ここで中身を取り出して、このややこしい袋はジーンズのポケットにでもねじ込んでおけば解決だ。
「そうだ、そうしよう」
しかし、陸が紙袋の口を開けた瞬間、境界線の向こうで扉が開いた。
「うぉわ!」
「どうしたの?」
ハナが小首を傾げると、さらりと黒髪が揺れた。袋の中身のせいか、いつもよりその艶やかさを意識してしまう。
「い、いや、別に」
陸は紙袋を後ろ手に隠し、壁に背中を預けて座り込んだ。
「まあ、その、座れよ」
「うん」
ハナは促されるままに、陸の隣に腰掛けた。その距離は以前より少し近くなっている。けれど、二人の間には今も赤い境界線があった。
「今日も暑いね」
薄暗い小屋の中でも、ハナの瞳はわずかに光を宿していた。その光の中に、自分はどんな風に映っているのだろう。その答えを知りたくて、陸はその瞳をじっと見つめた。
――やめてよ、鬼沢くん。
今も聞こえてくるあの声に、陸の胸がチリっと焼けるように痛んだ。でも、いつもと少し違う。それはまるで、羽化するさなぎの背に走る亀裂のようだった。
「俺さ」
陸の意識とは違うものが、陸の唇を動かす。
「俺、みんなにオニって呼ばれてるんだ」
あの日のこと。助けようと思ったこと。それなのに悪役にされたこと。それからずっと誰かを傷付けて生きてきたこと。
ぽつり、ぽつりとこぼれ落ちる陸の言葉を、ハナはじっと聞いていた。
「あのとき、どうしたらよかったのか、今も分かんねーんだ。誰かを殴りたかったとか傷付けたかったわけじゃないのに。なのに――」
ぎゅっと握りしめた拳が震えた。あの日、『オニ』という言葉をぶつけられながら、先生の後をついていく幼い陸がそうだったように。
――やめてよ、鬼沢くん。
助けたはずの委員長にまで、自分はただの『オニ』だと思われてしまった。みんなとは違うもの。『オニ』だって、そう思われたんだ。
その拳に、ふっと温かいものが触れた。見ると、境界線の向こうから伸びたハナの手が重ねられている。
「頑張ったんだね、陸」
触れられたところから、じんわりと熱が広がっていく。
「その子、助けられて嬉しかったと思う。だから止めたんだよ。陸に悪い人になってほしくなかったから。きっと、助けてくれてありがとうって言いたかったはずだよ」
――先生、鬼沢くんは……――私を助けてくれたんです。
あの日、陸が押しとどめてしまった言葉の続きが、いまやっと届いた気がした。
「そっか」
――やめてよ、鬼沢くん。
あの震えた手の先にいた委員長も、自分と同じように勇気を振り絞って俺を助けようとしてくれたんだ。あの日、俺が委員長に飲み込ませてしまった言葉だって、きっと彼女を傷付けた。それなのに、と陸の喉の奥がぐっと詰まった。
「情けねーよな、俺」
あの日、みんなと違うものになることを選んだのは自分だった。口を閉ざして、他人の言葉と気持ちに耳を塞いで、目を逸らして。
握りしめた拳に触れるハナの体温に導かれるように、陸の目から一つ、雫が落ちた。
「ごめんな」
目の前のハナに、そしてこの世界のどこかにいる委員長に向かって、陸はそう口にした。
どうか、届きますようにと願いながら。
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どれくらい時間がたったのか。重ねられたハナの手がそろりと離れる気配を感じた陸は、その手を捕まえて、ぐいと引き寄せた。
「え」
バランスを崩したハナが、もう片方の手を床について、驚いたように陸を見る。心臓の音さえも聞こえてしまうような、いつもよりずっと近い距離で見つめ合う。
ハナの瞳に映る光が揺らめいている。その光になりたい、なんて、ガラにもないことを思った。
後ろに隠していたあの「LOVE」の紙袋を、握っていた手に押しつける。
「やるよ」
「これ、なに?」
「開ければ分かる」
ハナはおそるおそる袋の中から取り出した髪留めは、宝石を模したプラスチック製のカラフルな飾りがたくさん付いたものだった。
「わ……きれい」
その偽物の宝石は、この薄暗がりの中で柔らかく光り、ハナの瞳にまた新しい光を映し出した。
「お前に似合うと思って。俺、センスねーけど」
「――長に、見つからないようにしなきゃ」
光で遊ぶように、ハナは髪留めをあちらこちらへと動かしている。今度こそ成功したサプライズに、陸はホッと胸を撫で下ろした。
「長ってオニの偉いやつのことか」
ハナがこくりと肯いた。
「私たちの中で一番長く生きてる。何歳かなんて誰も分からない」
「へぇ」
ハナから聞いたところによると、この山に暮らすオニは二十人ほどだという。その長というのがそれをまとめているのだろう。
「見つかったら、やっぱりヤベーの?」
「うん……たぶん」
ハナは髪留めをそっと紙袋にしまった。揺れた「LOVE」の文字が、陸に最後の一押しをする。
ハナが好きだ。
その想いは陸の胸にすっと降りてきて、まるで生まれたときからずっとそこにあったみたいに、陸の心の一部になった。




