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陸が山を下りると、庭先に自転車が止まっていた。あれは確か……隼とかいうやつの、だっけ。
「おかえりー。遅かったね」
そう言って居間で陸を迎えたのは隼だった。リビングでテレビを見ながら自宅さながらにくつろいでいる。
「ばあちゃんは?」
「千代さんならお出掛けの真っ最中。出がけに来たから、陸が戻るまで留守番頼まれちゃってさ。こういうことよくあるんだよ。都会育ちの陸は知らないでしょ」
「ふーん。そういうもんか」
腰を下ろして、テーブルの上の煎餅に手を伸ばす。スイカを食べて腹はいっぱいだったが、塩気のあるものが欲しかった。
テレビでは地元のローカル番組が流れていた。グルメコーナーらしく、地方タレントが「なんと! この小さな喫茶店が、いま話題なんです!」と大声でレポートしている。隼が鼻を鳴らすようにして笑った。
「あの店、めちゃめちゃ有名なのに」
「知ってんの?」
「老舗の喫茶店で、俺が小さいときからずーっと有名。県内で知らないやつなんかいないんじゃない? ま、こんな田舎じゃ数も少ないし、同じとこをぐるぐる回るしかないよね」
「へぇ」
「今日、小屋に行ってたんでしょ」
ああ、とうなずきかけて固まった。喉に詰まりかけた煎餅をなんとか飲み込む。
静まり返った居間に「この店はどれくらいやってるんですか?」「もう三十年以上ですかねぇ」「うわぁーそんなに!」とタレントとマスターの空々しいやり取りが響く。
「もう知ってるんでしょ。この山にいるオニのこと」
隼の視線が画面から陸に移る。その顔に浮かんでいるのは、誰もが引きつけられる、まるでお手本のような笑顔。
「うちもさ、小屋を持ってるんだ」
ということは、隼も千代の言っていた「オニのことを知っている限られた人間」の一人なんだろうか。テレビには、店で一番人気のハンバーグが映し出されている。
「この店に肉を卸してるの、俺の親父の会社なんだ」
隼の話によれば、もともと吉田家は畜産農家だったのを隼の父親の代で廃業し、精肉加工の会社を立ち上げたらしい。グルメコーナーはとっくに終わっていて、女性アナウンサーが週末の天気予報を伝えている。
「んで、あの店に卸すみたいに、小屋にも肉を置いてくるってわけ。親父もなかなかやり手でさ。このままいけば、将来は俺が社長。どう? 俺たちいい友達になれると思わない?」
「なんで」
「あれ、冷たいなぁ。少子化の波ってのはさ、都会じゃなくて、こういう地方のほうがひどいんだよ。同じ歳同士なんてもう奇跡的な存在。それに、あの小屋のこと知ってるやつなんて数えるくらいしかいないんだから。つまり、俺と陸は親友になるって運命づけられてるの」
陸は、リモコンを取ってテレビを消した。ずらりと並んでいた太陽のマークが消えて、真っ暗になった画面に二人の姿が映る。
少し間を置いて、陸が口を開いた。それは、秘密の共有を許した合図でもあった。
「お前も、小屋に行ったりすんのか」
「うちはじいちゃんが行ってる。場所は知ってるけど、俺は行ったことないよ」
陸がここに来てからも、会うたびに「大きくなったなぁ」と目を細める吉田のじいさんからは、肉を担いで山道を登る姿なんて想像できなかった。でも、あの人はオニのことを知っていたんだ。千代と同じように。
鬼沢家と吉田家の深い付き合いは田舎特有なものだと思っていたが、もしかしたらそんな秘められた繋がり――運命共同体とでもいうような――のせいなのかもしれない。
「でも、たぶん一回だけ見たことがあるよ」
「え?」
「八歳くらいだったかなー。山に行くじいちゃんの後をつけたことがあってさ。でも、気付いたときには迷子。ガキが山の中で迷子ってヤバいでしょ? もう泣きながら歩き回って、そんであの境界線が見えたんだ。あれが山の入り口に繋がってるってことは知ってたから、助かったーと思って駆け寄ったとき、その向こうに人影が見えたんだ。そいつは、じいちゃんが持ってたクーラーボックスを抱えてた。白と水色のやつ」
そのときのことを思い出したのか、隼は自分を抱きしめるようにして二の腕をさすった。
「もうションベンちびるかと思った。いやちびってたかも。そんで慌てて逃げ出したってわけ。あとでじいちゃんと親父に死ぬほど怒られたっけな」
めっちゃ怖かったんだぞー、とけらけらと笑いながら陸の肩をばしばし叩く。
「お前、聞いたことあるか? その、オニとヒトが関わっちゃいけないっていう掟のこと」
「んー、まあ、あると言えばあるね」
「それって破ったらどうなんの?」
「知らない」
ふっと隼の顔から表情が消える。陸が隼の笑顔に覚えていた違和感の正体を垣間見た気がした。
「どうでもいいよ。俺がもうあいつらに会うことなんか一生ない。でも、あいつらはずっとあそこにいるんだよな」
窓の外はすっかり暗くなっていた。その闇の向こうにある山を、隼の目は捉えているようだった。
ふっと息を吐くと、隼は畳の上に寝転がった。Yシャツの襟元からのぞくネックレスには羽根のモチーフがぶら下がっていた。陸の視線に気付いた隼がそれを持ち上げて、ニッと笑う。
「これね、彼女からのプレゼントなんだー」
「あっそ。仲良さそうでなにより」
「もう別れちゃったんだけどね」
「じゃあそんなもん着けてんじゃねーよ」
「だよねー」
その羽根を照明の光にかざす隼の顔はわずかに笑っていた。いつものお手本みたいな笑顔でも、さっきの感情を消し去ったような顔とも違う顔。いったいどれが本当の隼の顔なのか、陸には分からなかった。
「おや、ずいぶん仲良くなったみたいだね」
千代がくわえ煙草で居間に入ってくる。
「そうなんですよ、俺と陸ってめちゃくちゃ相性いいみたいで」
起き上がった隼の顔にあるのはいつもの爽やかな笑顔だ。
「おい、変な言い方すんな」
「やっぱり仲良くなるには同じ秘密を持つのが一番ですよね」
隼の言葉に、千代は含みのある視線を陸に向けた。
「それより、千代さん。どうでした?」
「ああ、留守番してもらって悪かったね。無事に買えたよ。陸、表に出てみな」
二人の会話の意味も分からず、促されるままに外へ出た陸を待っていたのは、真新しい赤いママチャリだった。
「……なんだ、これ」
「この前、このへんじゃ自転車がないと不便だって隼くんが言ってたから、買ってきてやったんだよ。感謝しな」
だからって、なぜこの色の、しかもママチャリをチョイスしたんだ。隼のスポーツタイプの自転車の横に置いてあるせいか、より生活感があふれ出している。
「ま、まあいいじゃない。ママチャリって丈夫だし。荷物もいっぱい積めるよ」
隼は吹き出すのを堪えるように、陸の肩に手を置いた。
「うるせぇ、お前のチャリと交換すんぞ」
「あー、俺もう帰んなきゃ! 千代さん、陸、またねー!」
陸の口調に潜む本気に気付いたのか、隼は慌てて自転車に飛び乗ると、矢のような速さで帰っていった。
「あの子から何を聞いた?」
「あいつの家も小屋を持ってるとか、吉田のじいさんがそこに肉を運んでるとか。大したことは話してねーけど」
「そうかい。まぁ、あの子もなかなか複雑さ。気を付けな」
「複雑って?」
陸が聞き返すと、千代はふぅっと煙草の煙を吐き出した。白い煙が藍色の夜空に登っていく。
「いつだって聞けば答えが返ってくると思うんじゃないよ。あんたがその手で触れて、頭で考えて、心で感じなきゃ意味がないんだ。他人の答えをあてにする前に、せいぜい頭と心くらい使ってやりな。ずいぶんと鈍ってるみたいだからね、このクソガキ」
千代はそう言って、家の中に入っていった。
陸は家の前で赤いママチャリにまたがってぽつぽつと星が灯り始めた夜空を眺めた。クソガキなりに考えてみたけれど、色んなことが起こりすぎて頭は痺れたようにぼうっとしていた。半分より少し太った月がそんな陸を見下ろしていた。
こっち見んなよ。陸は小さくそう呟いた。




