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陸がたどりついた小屋には、空のカゴもハナの姿もなかった。
「なんだよ、のんびりしてんな」
肩に食い込んだカゴを下ろして一息ついた。
セミの声がわんわんと響いている。まるで、太陽が夕陽に変わり、地球の裏側へと向かっていくのを押しとどめようとしているみたいに。
格子戸のすき間から漏れ入るオレンジ色の光の中でも、境界線の赤は強烈な存在感を示している。
陸からすればただのロープでしかない。これを越えることが重要な意味を持つなんて、なんだかひどく馬鹿らしい気がした。
ガタリと音がして、境界線の向こうの扉が開く。
「おう」
「う、うん」
陸が軽く右手を挙げて声を掛けると、ハナはそろりと小屋の中に入ってきた。警戒したように視線を巡らせている。
「今日はソラ、いねーから」
「べ、別に気にしてない」
沈黙が落ち、小屋の中にはセミの声と、何か言わなくてはというお互いの焦燥感が満ちる。
二人の間には、赤い境界線。
何だか無性に腹が立って、陸は一歩踏み出してそれを思い切り踏みつけた。まるで自分が踏みつけられたように、ハナが「あっ」と小さく声を上げる。
「おい、ハナ。いいもんやるから、ちょっと待ってろ」
そう言って、陸がカゴの奥底から取り出したのは小玉のスイカだった。
朝の農作業中、千代が「そろそろ食べ頃かねぇ」と口にしたのを聞いて、こっそりと収穫し、見つからないように忍ばせたサプライズ。
「これは、スイカっていって――」
「それくらい知ってる」
ハナがムッとしたように陸の説明を遮った。
なんだ、知ってんのかよ。食べたことねーだろうなと思って持ってきてやったのに。サプライズが不発に終わって、陸はちょっと唇をとがらせた。
「まあいいか。さっさと食おうぜ」
「分かった」
陸の手からスイカを奪い取ると、ハナはそれを両手で持った。そして、指先に力を込めた瞬間、ハナの白い指がスイカの緑色に沈み込んだ。めり、と音がして、果汁が滴り始める。
唖然としている陸の前で、スイカはどんどんと小分けにされていく。
「割ったよ」
指先から滴る果汁を舐め取るハナの姿を見て、千代の言葉が甦る。ヒトと同じかたちをした、ヒトとは違う生き物。指先のあの力は、間違いなくヒトにはないものだ。――それにしても。
「ワイルドすぎるだろ」
陸は思わずそう呟いていた。ハナは、頭の上にクエスチョンマークを浮かべたような顔をしながら、また指先をペロリと舐めた。
「甘い」
「そりゃな」
腰を下ろして、歪なかたちのスイカを二つ拾い上げる。そして、一つをハナに差し出した。それを受け取ると、ハナは陸から少し離れた場所に座った。
一口かじるとみるみる水分があふれ出す。山の中の湿った暑さにさらされた身体に、そのみずみずしさが心地よくて、気付けば二人とも夢中でスイカを口に運んでいた。
「うまいな。あー、でも冷やしときゃよかった」
「そうだね。川の水につけておけば――でも、ここからちょっと遠いから」
「へー。この山、川なんて流れてんのか」
「うん。この小屋の向こう」
セミの声、オレンジ色の光、スイカをかじる、しゃり、という音。そして、境界線を挟んだ二人のそんな普通の会話。いま小屋に満ちているものが、さっき陸をイラつかせた赤を薄めてくれた。
床の上のスイカはあっという間に皮だけを残し消えていき、最後のひとつになる。
「これ、陸が食べていいよ」
「お、サンキュー」
「さんきゅー?」
ハナが首を傾げた。頭の上にはまたクエスチョンマークが浮かんでいる。
「英語で、ありがとうって意味」
「えいご?」
ハナの頭の上のクエスチョンマークがまた一つ増える。ええい、くそ。
「俺たちが話すときにつかう言葉が日本語で。英語は他の国のやつらが話すときに使う言葉で。例えば、アメリカとかイギリスとか……」
尻すぼみになっていく説明を誤魔化すように、陸はスイカにかじりついた。
岡嶋ならもっとうまく説明できるんだろうな。あいつ、教師になりたいとか言ってたし。俺は、ハナの頭の上のクエスチョンマークを増やすばっかりで、一つも減らしてやることができない。
「陸は行ったことあるの? 英語を使う国」
「いや、それはないけど。それに、英語以外を使う国だっていっぱいあるし。めちゃくちゃ暑い砂漠とか、デカい山とか滝とか、一年中冬みたいに寒い国だって――」
「ふぅん。この山の外ってそんなに広いんだ。じゃあ、陸はこれからいろんなとこに行くんだね」
ハナの口にした「これから」という言葉が、驚くほどの鮮やかさで陸の胸に飛び込んできた。世界の広さも「今」に先があることも確かに知っていたはずなのに、いつの間にか忘れていた気がする。
「そうだな。これから、なんだよな」
最後の一口を飲み下すと、甘さと水分とは違う何かが、じわりと陸の身体に広がっていくのが分かった。
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食べ終わって後片付けを済ませると、ハナは野菜の詰まったカゴを背負い、陸は空のカゴを背負う。
「スイカ、美味しかった。ごちそうさま」
「おう、今度はメロン持ってきてやるから楽しみにしてろよ」
「めろん?」
「それは知らねーのかよ」
陸が笑うのにつられて、ハナも笑った。いつの間にかセミの声はしなくなって、オレンジ色の光もずいぶんと弱々しくなっていた。夜が近い。
「つーか、俺でもけっこー重いのに、お前よく背負えるな、それ」
「だってあたし、オニだから」
「言うじゃん。――じゃあ、またな」
「うん。またね」
背を向ける瞬間、陸の胸にきゅっと小さく締め付けられるような痛みが走った。それは、ずいぶんと懐かしい痛み――「ともだち」と別れるときの名残惜しさだった。




