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「ハナ、か。いい名前じゃん」
「そんなことない」
どうせ誰かが適当に付けた名前だ。名前がなければ呼ぶこともできない。それで便宜上付けられた記号。私の名前なんてそんなものでしかない。
「そうか? まあ、自分じゃ分かんねぇよな、そういうの」
犬を撫でる陸の手は、今日も土で汚れていた。その手が、私の中に残った罪悪感をくすぐる。
「それより、あの……」
ぐらぐらが止まった私は、いつもよりほんの少し軽やかだった。けれど、私をにらみつける犬の存在が気になって仕方がない。
その様子に気付いたのか、陸が小屋の扉を閉めた。この小屋は、こんなに静かだったっけ。そばに立った陸の体温が、私の周りの空気の温度を少し上げる。
「なんだよ」
頭一つぶん背の高い陸を見上げることができずに、うつむいたまま言葉を紡いだ。
「き、昨日は、その……悪かった」
「昨日? ああ、トマトのことか」
「……ちゃんと、食べたから」
「え?」
陸はとても驚いたみたいだった。それに驚いて私はつい顔を上げてしまう。
「お前、あれ食ったのか!?」
「え?」
「あんなの食ったら、腹壊すかもしれねーだろ。やめとけよ」
どうしてトマトを食べただけでお腹を壊すんだろう。心の中で首を傾げる。
「大丈夫だった。その、美味しかった」
「そっか。あー……俺も、その、怒鳴ったりして悪かったな」
「別に、いい」
私の中のぐらぐらは、なんだか今日はとてもふわふわ、ゆらゆらして、まるでいつもの自分じゃないみたいだった。
「でも、あのトマトを食ったってことは、お前、境界線越えたってことじゃん」
陸にそう言われて少し焦った。小屋の中とはいえ、ヒトからすれば、おいそれと越えていいものではないのかもしれない。
「それは、そうだけど……でも、この小屋の中では、ある程度は許容されてるでしょ」
このお役目を言いつかったときに、私は長にそう言われた。だから、この小屋ではどこか気楽だ。
どっちでもない。そんな不安定さが許された場所。
「知らねーよ。だいたい俺は、この山にオニがいるってことも、ちゃんと教えてもらってねーし」
「それなのに、ここに野菜運んでたの?」
そう言うと、陸は言葉に詰まったみたいだった。
「この小屋は境界線の狭間みたいなもので、どっちでもない場所。これが床に引かれているのは、ここに来るオニとヒトに見せつけるため、だと思う。私が初めてこの小屋に来たときにはもうあったから、本当の理由は知らないけど」
長に聞いた話と、私の推測。
けれど、よく考えたら、私も陸と同じで何も知らないんだ。ただ行けと言われたから来ているだけ。
「お前以外にも、この小屋に来るやつがいんの?」
その問いに、首を横に振って答える。
ここは私たちが住んでいる場所から一番遠い場所にある小屋。私たちから遠いということは、ヒトとの距離が近いということでもある。
ヒトとオニがやり取りをしている小屋はいくつかあるけれど、ここまでは誰も来たがらない。
「いまここに来るのは私だけ。そう、決まってるから」
誰も行きたがらない場所へ行かされる。それが、オニとして許された私の唯一の役目。
「じゃあ、明日も会えるかもな」
「え?」
「なんか、変なこと言ったか?」
「だって、ヒトと会うのは禁止されてる。そっちだってそうじゃないの?」
オニとヒトは関わりを持たない。それが掟だとずっと言われていた。当たり前のことで、誰もそれに異議を唱えたことなんかなかった。
ヒトに会いたいオニなんかいない。
だから、オニに会いたいヒトなんかいるはずもない。なのに、陸はどうしてそんなこと言うんだろう。
「でも、この小屋に来るのはお前だけなんだろ? じゃあ、偶然会うこともあるだろ」
ぶっきらぼうな口調の中に、どこか弾んでいるような雰囲気があるように思えるのは気のせいだろうか。その雰囲気に釣られて笑みがこぼれてしまう。こんな風に笑ったのはずいぶんと久し振りだ。
「そんなの、屁理屈だ」
ふわふわ、ゆらゆら。
相変わらず、私の中は不安定で。それなのに、今日はその不安定さがどこか心地よくて。
どうしてだろう。どうしてだろう。
答えは出ないまま、私はその揺らめきに心を委ねてしまう。
薄暗い小屋の中で、陸のいたずらっぽい笑顔が私の目にはっきりと映った。




