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「オレ」と「キミ」のボーダーライン  作者: 清谷ロジィ
ぐらぐら ~ハナside~
19/65

 昨日のことは、誰にも言えなかった。だから、今日もいつもどおり私は空のカゴを背負ってあの小屋にやって来た。

 扉に手を掛けると、中から気配がした。きっと、あいつだ。

 そろりと、扉の上の格子部分から中をのぞく。薄暗さに目が慣れると、境界線をじっと見下ろす姿が見えた。何してるんだろう。さっさと帰ればいいのに。すると、あいつは爪先で境界線を突いた。


「あっ」


 思わず声が漏れてしまう。そこは、私の居場所なのに。


「誰だよ」


 気付かれた。逃げようか。

 けれど、そのとき舌の上に昨日のトマトの味が甦る。その爽やかな酸味に後押しされるように、私は扉を開けていた。 


「なんだ、お前か」

「……っ、あんたに、お前って呼ばれる筋合いなんかない」


 あいつは、私を見るとどこかほっとしたように言った。その声に、いつもと違うぐらぐらが訪れる。なんで、なんだろう。

 私の胸によぎる疑問に気付かれないよう、表情を引き締めた。


「俺だって、お前にあんた呼ばわりされる筋合いはねーよ」

「し、仕方ないでしょ。名前も知らないんだから!」

「じゃあお前の名前は?」

「……そっちは」

「お前が名乗ったら教えてやるよ」


 沈黙が訪れた。

 アマネだったら、にこりと笑うだろう。そして名乗ったあとにこいつの名前を問うのだろう。そうすれば、きっとこいつも笑って名乗ってくれる。

 分かっているのに。でも、自分の中の何かがそれを許さない。

 私はただ、境界線の向こうをにらみつけることしかできなかった。


「あんた、馬鹿にしてるのか。言っただろう、あたしはオニだって」


 こいつには、私がちゃんとしたオニじゃないって知らない。だから、そう言ったって構わない。なのに、あいつの口からぽろりとこぼれた言葉が、私の心の一番ぐらついているところを突いた。


「そんなの、本当かどうか分かんねーし」


 その瞬間、体が勝手に動いていた。境界線を飛び越えると、胸ぐらをつかんで迫り、そして叫ぶ。


「馬鹿にするな! さっさと名乗れ! さもないと、あんたを食ってやる!」


 ――嘘だ。私はこいつを食うことなんかできない。

 私は、私の身体は、血を受け付けない。

 私たちは、山の動物に無闇に手を出してはいけないと長からきつく言い渡されていた。それでも、ジンやセキなんかは、ときどきこっそり野鳥なんかを取って食っていた。

 幼いころ、まだ私が自分の存在の不安定さに気付いていなかったあのころ、私はよく二人の背中を追いかけていた。ある日、ジンが、


「食うか?」


 と、差し出した鳥の肉。横から手を伸ばしたセキが、それを口に運んで顔をほころばせる。

 そんなに美味しいのかな。

 好奇心と期待。けれど、セキを真似て口に入れた瞬間、その血生臭さにぞくりとした。身体が、それを受け入れることを拒絶している。まるで裏と表がひっくり返るみたいな激しい抵抗。鼻の奥から酸っぱいにおいがした。

 盛大に吐き散らした私を目の当たりにして、二人はただ唖然としていた。

 その日から、私はみんなから遠ざけられた。

 『ヒト』という嘲りとともに。

 こいつを食うなんてできない。けれど、せめて一噛みくらいしてやろうか。そう思って口を開いたとき、ワン! という声が飛び込んできた。


「わっ!」


 反射的に飛び退いて、距離を取る。

 見ると、入り口には犬がいた。繋がれているらしく、私に飛びかかろうと前足を上げてもがいている。


「ソラ、大丈夫だ。ありがとな」


 あいつが頭を撫でてやると、ソラと呼ばれたその犬は声を上げるのをやめ、「どうだ」というように得意気に尻尾を揺らしながら、ぺろりと鼻先を舐めた。


「ひ、卑怯だぞ! 一人じゃないなんて」

「卑怯ってなんだよ。お前、犬、苦手なのか?」

「そんなことあるわけ……」


 再び、ワン! という声が響き、びくりと身体が強ばる。

 犬は苦手だった。

 あの小屋に一人で住み始めたころ、夜に野犬がやって来た。中に入ってくることなんてできない、大丈夫だと何度も自分に言い聞かせたけれど、身体の震えは治まらなかった。唸り声とこちらを探るような気配が充満した狭い小屋の中で、ただひたすらに朝を待った。

 あの夜の恐怖を思い出して、私の背中にじわりと汗がにじんだ。


「大丈夫だって、ソラ。こいつは悪いことなんかしないから。なぁ?」


 促されるような視線に、私は仕方なくうなずいた。犬は「まあ、それなら」とでも言うように臨戦態勢を解く。けれど、私を見る目にはまだ警戒が残っている。


「で、お前の名前は?」

「う……」


 この後に及んでも、私の口はひどく重かった。どうして、私はこうなんだろう。悔しさと情けなさが足下に渦巻いて、世界が揺れる。

 ぐらぐら、ぐらぐら。


「俺は、陸。んで、こっちはソラ」


 りく、陸――。

 不意に名乗られたその名前が、私の目の前でくるりと回って、胸に滑り込んできた。


「こっちは名乗ったぞ。ほら、お前の名前は?」

「……ナ」


 鉛のように重い唇を引きはがして、声を発する。


「あ?」

「ハナ。あたしの名前は、ハナだ」


 陸に自分の名前を告げたとき、私の中のぐらぐらがまた止まった。

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