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再び戸を叩く音に、意識が引き戻された。いつの間にか、うつらうつらしていたらしい。扉を叩く音はさっきとは違い、軽やかで弾むようだった。その音に思い当たるのは一人だけ。
「アマネ?」
「お久し振りです。姉さま」
これまた弾むような声が返ってきた。戸を開けて顔を合わせると、アマネはにこりと笑ったが、すぐに心配そうな表情に変わる。
「さっき、ジンとセキがこちらから戻ってきたのが見えたので。もしかしたらまた、姉さまに嫌がらせに行ったんじゃないかと思って」
頭の両脇で結ばれた栗色の髪は、アマネが動くたびに揺れ動く。着ている着物にはたくさんの色が散りばめられていて鮮やかだ。よく動く表情は、まるで小鳥のように忙しない。
「あんたの想像どおり。あんたも、あたしに関わるとロクなことがないよ」
「そんなことより、ジンたちはまた姉さまにひどいこと言ったんでしょう? 私が長にお伝えしておきますから」
「いいよ、わざわざ長の手を煩わせることじゃない」
「姉さまがそうやってなぁなぁにするから、あいつらだって調子に乗るんですよ。一発ガツンと言ってやれば、あんなヤツら、すーぐ大人しくなるんですから」
「あんた、意外と過激なこと言うんだね」
姉さま、なんて呼んでいるが、私とアマネは姉妹でも何でもない。どういうわけか、私を慕ってそう呼んでいるのだ。
「だいたい、どうして姉さまだけこんな外れの小さい小屋に住まなくちゃいけないんです? みんなと同じ場所で暮らしたっていいじゃないですか」
「そしたらジンやセキみたいなヤツが増えるだけ。あたしは今のままでいい。一人の方が気楽だしね」
「姉さま……」
アマネが私のことを心配してくれているのは分かっている。けれど、心のどこかで苛立ちを覚えてもいた。だって、アマネは私と違ってちゃんとしたオニだから。
嘲りと同情は、かたちが違うだけで中身は同じだ。
「そろそろ行かなくちゃ」
「今日も、あの小屋へ?」
「そうだよ。お役目だから」
「姉さまにあんな遠くまで行かせるなんて、長は何を考えてるんでしょう」
アマネがぷぅっと頬を膨らませる。なんだか今日は、色んなことに不満ばかり言うんだな、と少しおかしかった。
「たまには私もご一緒しましょうか?」
「ダメ。あんたを連れて行ったってバレたら、あとで面倒なことになるでしょ」
そう言って、セキが投げつけたあのカゴを背負う。気を付けてくださいね、というアマネの言葉が空っぽのカゴに滑り込んだ。
しばらく歩いて振り返ると、アマネはまだ私を見送っていた。手を振ってやると、ぴょんぴょんと跳びはねながら大きく手を振り返してくる。
変なやつ。
思わず笑いが漏れた。
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小屋にはいつものように野菜の詰まったカゴが置いてある。
最近、野菜の量が増えたみたいでカゴが重くなった。夏だからかな。
ふと、床に張られた境界線が目に入った。
ほの暗い小屋の中でも、その赤はくっきりと浮かび上がっている。引き寄せられるように近付いて、その赤いロープを踏みつけた。足裏に感じる異物感。
ぐらぐら、ぐらぐら。
私がいる場所は、きっとこんな不安定な場所だ。
ぐらぐら、ぐらぐら。
そして、きっとこの異物感こそが私なんだ、と思う。
突然、何かが落ちる音がした。境界線から足をどけて、ぱっと後ろに下がる。
「誰か」いる。扉の向こうに「誰か」が。たぶん――ヒトだ。
扉の向こうの見えない「誰か」から視線を外さないよう、カゴの中の赤い実に手にそろりと手を伸ばす。
ヒトとは面倒ごとを起こすなと言われているが、もし向こうが掟を破るつもりなら――仕方ない。
どれくらい時間が経ったのか。扉の向こうからはこそりとも音がしない。
もしかしたら、「誰か」はもういないのかもしれない。そう思って、緊張で強ばった体の力を少し緩めたとき、いきなり扉が開いた。
「あ、どうも、俺――」
その瞬間、私は反射的に手の中のトマトを投げつけていた。
「な――っ」
現れたのは赤い髪の男。なぜか脇にカボチャを抱えている。驚いたような顔で、私と、私が投げつけたトマトとを交互に見た。
「何すんだよ!」
「う、うるさい! ヒトが! こっちに来るな!」
「はぁ? なんだよ、お前」
「あ、あたしは……」
そう問われて、言葉に詰まった。私自身が何かなんて、私が一番知りたいのに。
それでも――。
こいつの目は、今まで私を取り囲んでいたものとは違う。
私の世界になかったもの。
私のことを知らない、まっさらなその目に強烈に引きつけられる。
気付けば、叫んでいた。
「あたしは、オニだ!」
その瞬間、私の中のぐらぐらが止まった、気がした。
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あいつがいなくなって、小屋には私と野菜の詰まったカゴと境界線だけが残った。
いや、壁にへばりついている二つのトマトも、だ。
怒鳴りつけられた私の中にはまた、ぐらぐらが戻ってきていた。
「なによ……」
いなくなってしまったあいつの代わりに、カゴの野菜をにらみつける。
野菜たちはつやつやと、わずかな光を反射してほの暗い小屋の中でもぴかぴか光を放っていた。
私の腕をつかんだあいつの指先は土で汚れていた。たぶん、一緒に野菜を作ってるんだろう。朝から晩まで働いて。そして、カゴを背負ってここまで運んでくる。そんなこと、あいつに言われるまで今まで思いもしなかった。
この野菜の出所なんて知らされていなかった。知る必要もなかった。取りに行けと言われたから来ているだけだ。
ここに来れば野菜の詰まったカゴがあった。それは、何もないところからポンと突然現れるのと同じだった。
でも――。
――もらった食いモンを粗末にすんな!
耳の奥にあいつの声が残っていた。
「変なやつ」
境界線を踏み越える。そして、壁にへばりついたトマトを取って口に入れた。酸っぱくてほんのり甘い(そしてうっすら土の味がする)実を喉に滑らせた。
「美味しい」
悪いこと、したんだろうな、あたし。
ぐらぐら、ぐらぐら。
だけど、いつもの気持ちが悪くなるようなぐらぐらじゃなくて、ほんの少しふわふわしている気がした。




