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千代の言い付け通り、目印の赤いロープに沿って山を登る。
「くっそ重い・・・・・・」
切れ切れの息とともに、悪態を吐く。そうでもしないと、足が前に進みそうにない。
この道は、どうやら頂上を目指すものではなく、山の裏側へ回る道のようだった。そのため、勾配はほとんどないが、ただ背負っているカゴの重さと夏の暑さが、ひたすらに陸の体力を奪っていく。
喉の渇きに耐えきれず、カゴの中からキュウリを一本取り出し、そのままかじりついた。一本くらいバレないだろう。いや、この際バレたって構うもんか。
「なんだって、こんなことしなくちゃなんねーんだよ。てか、その小屋ってどこだよ」
キュウリをかじりながら、ゆっくりと周囲を見渡す。
木々の間からこぼれてくる日差しが、陸をまだらに照らし出す。わんわんと響き渡る蝉の音や、ひっきりなしに聞こえてる鳥の声や葉ずれの音に耳が慣れてくると、山の中は不思議な静けさで満ちていた。一人きりのようで、常に何かの気配に囲まれてもいる。
最後の一口を口に放り込むと、陸は歩く速度を速めた。
「つ、着いた・・・・・・」
千代の言った通り、その小屋は歩いて三十分(よりちょっと掛かったけれど)のところにあった。
屋根と壁だけの粗末な小屋。建てられてからもうだいぶ時間が経過しているようだが、掃除や手入れはされているらしく、外観はそれほど痛んでいなかった。
誰に言うわけでもないが、黙って入るのもどうかと思い「お邪魔しまーす」と声を掛けて引き戸を引く。ガタガタと音を立てて開けると、驚いたことに小屋の真ん中辺りの床にも赤いロープが貼り付けてあった。
「なんだよ、これ」
薄暗さに目が慣れると、四畳ほどの広さのその小屋は、外観から推測したよりも、しっかりと作られているようだった。
そして、床に貼られたロープの向こう側にはもう一つの入り口があり、そちらの引き戸は上の三分の一が格子戸になっていて、そこからわずかに光が差し込んでいる。
背負ったカゴを下ろし、床に置いた。
この小屋にはそのロープと、陸がたった今置いた野菜の入ったカゴ以外、何もなかった。
まるで捨て置くようで気が引けたが、千代の言い付け通りカゴを置いて小屋を出る。
いったいなぜ、千代はこんなことを頼んだのだろう
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「行ってきたぞ」
台所にいた千代にそう報告する。千代は野菜を刻む手を止めて、ちらと陸に視線を向けた。
「そう、ありがとね」
「それだけかよ」
「他に何か必要かい?」
「説明とかいろいろあるだろ」
「そうだねぇ」
再びトントンというリズミカルな音が響き始める。山登りの疲れもあって、気を抜いたら眠ってしまいそうだ。
「昔、あんたが山に入ろうとして叱られたこと、覚えてるかい?」
「そりゃ覚えてるよ。ばあちゃん、すげー顔して怒ってたし。親父とお袋にも、めっちゃ怒られたもんな」
「もちろん危ないからってのが一番の理由さ。でも、何よりこの山には掟があるんだよ」
「掟?」
「そう。この山にはね、オニが住んでいるのさ」
一瞬、トントンという音だけが台所に残った。
「……はぁ? そんな子供だましみてーな話を信じるわけないだろ。もう十七だぞ、俺は」
「どうしてだい?」
「どうしてって……オニなんているわけないだろ」
「おや。あんたは自分の目で見たものしか信じられないのかい? それはずいぶんと狭量なことだねぇ」
刻んだ野菜をまな板からフライパンへと滑らせる。ジュウっという音と立ち上る油のにおい。由梨子はオリーブオイルとかグレープシードオイルなんかをいろいろと使い分けていたけれど、千代が使うのはサラダ油のみだ。
フライパンになみなみと油を注いで勢いよく炒める。そして塩か醤油で味をつける。そんな潔い料理はなぜか驚くほどにうまい。
「あの赤いロープは境界線でね。あれを越えちゃあならない。オニとヒトは接触しちゃならない。それがこの山の掟なのさ。あの野菜も、取り決めの一つ。これからは夕方の手伝いはいらないから、陸、あんたに運んでもらうよ」
「毎日やんのかよ」
「そう、働かざる者食うべからず、さ」
千代特製の野菜炒めが出来上がり、皿の上に移された。食欲をそそる香りが台所に立ちこめる。
「オニに見つからないように気を付けるんだよ」
つまみ食いをしようとした陸の手をはたいて、千代は意味ありげに笑った。




