第二話「記憶にございません」1
『亮哉! よせ! お前が戦ってはいけない!』
『これじゃまるで……織部を見殺しに……』
『小僧……。この借り、いずれ返す』
『誰かいませんか! この人を助けて……』
少女の哀願に応えるように亮哉は手を伸ばそうとした。
(助けないと……それが俺たち部隊の使命……あれ?)
何やら鈍い音と共に目を覚ますと、亮哉は直方体の箱のような枕に顔を埋めていた。部屋の左手には四角い窓が開かれているのが見える。その桟には小鳥が停まり、さえずりを上げている。
よく見ると、ここは病室の中であった。
「ここは……一体……?」
呟きながら自身が横たわるベッドから体を起こすと、その足元では少女がうたた寝を取っていた。銀色の髪が垂れ下がる中に、抜けた顔でうつらうつらと寝息を立てる姿を覗かせていた。
彼女は先程の音に気がついたのか、目を覚まして顔を向ける。
「ふぁ……あ、びっくりした」
亮哉の右手は頭上にある壁を叩いていた。夢の中とは違い、どうやら現実では拳を振り上げていたようだ。
それに気がつくと急に右手がひりついてくる。少し気まずかったのか、手をさすって笑ってみせた。
「起こしちゃった? ごめんね」
「いえ、貴方が起きるのを待っていたらついつい眠っちゃいました」
しっとりした微笑みを浮かべる彼女に思わず胸を高鳴らせる。
「えと、君は……後ここは一体どこなんだ?」
「ここはさっきの林道の近くの農村にある診療所です。昨日たまたま林道でお会いしたこの村の人に連れてきてもらったんです」
小さく頷く亮哉だが、かえってその様子に少女はむっとした表情を見せる。
「私のこと覚えてくださっていないんですか?」
少女に顔を詰め寄られ、赤面するものの、亮哉は彼女のことを思い出せずにいた。
「ご、ごめんね。君のような子なら大体覚えているはずなんだけどさ……」
「もう……。まだきちんとお礼をしていなかったのに。昨日は助けてくださり、ありがとうございました。改めまして、私は美咲・S・デリンジャー。貴方は確か織部亮哉さんでしたよね」
深々とお辞儀をしながら改めて名前を聞く美咲だったが、肝心の亮哉が釈然としない様子を見せていた。
「よね、って言われても……。オリベ……うん? 僕ってオリベ、リョウヤって名前?」
「僕?」
亮哉と一緒に美咲も首を傾げた。
(昨日はもっと冷たいイメージでしたが……それに、ご自身のこと俺と仰っていたような)
「怪我のショックで忘れちゃったんでしょうか」
心配そうに顔を覗かせる美咲だが、亮哉は目を白黒させるばかりだ。
「そうなのかも、しれない。ごめん、自分が誰なのか……名前すら覚えてないみたい」
表情を陰らせるが、美咲は亮哉の手を握り微笑んだ。
「落ち着いたらきっと思い出せますよ。何か困ったら言ってくださいね。私も貴方に助けていただいたのですから」
「あ、あぁ。ありがとう」
こんな子と関わりがあったにも関わらず、全て忘れてしまったのか。
亮哉は口の中で自身の不甲斐なさを呪わずにはいられなかった。
「ありがとう。美咲さん、だっけ。優しいんだね」
「いえ、そんな……」
美咲は照れ臭そうに俯く。
「本当だよ。記憶がなくって頼りにならないのに、それでも励ましてくれる」
「だって、私にとっては恩人なんです。見ず知らずの私を助けてくださった……」
「不安になっている人を助けないわけにはいかないでしょ? 多分、記憶を無くす前の僕も同じことを考えていたはずだよ」
「それでも、ラースレイムに立ち向かえるなんて、本当に勇気ある行動だと思います」
「そういえばさ、その、ラースレイムって何? 何処かの軍団か何か?」
「ご存知ないんですか?」
美咲は素っ頓狂な声を上げた。
「ラースレイムというのは、エルト界っていう世界を征服し、私たちのいるアエリア界という世界に侵略を行った帝国のことです」
「その割には、この村はのどかなようだけど……」
「どうやらここはエルト界らしいですから、統治が終わっているでしょうから私たちの世界と比べて治安が大分安定しているんでしょうね。聞いた話によるとこちらの世界のほぼ全域が帝国領土のようですから」
表情に陰りが見えた。自分が今こうして身を置いている場所が敵地かもしれない。
その疑念は少女に不安を抱かせるには十分であった。
「今の情勢はそうなっているのか……」
「はい。亮哉さんは覚えてらっしゃらないようですが、昨日私を助けてくださった時のあの兵士たちもラースレイムの者です」
「こちらの世界ならどこにいてもおかしくない、か」
「そういうことです」
少し考え込むと、亮哉は美咲の手を握り返した。
「気休めかもしれないけど、だったら僕が美咲さんを守るよ」
「えっ」
「こうして怪我して記憶すら失った根無し草を助けてくれたんだ。その恩には報いたい」
「でも、帝国に歯向かえば何処にいようとも四面楚歌も同然ですよ。どうやって……」
美咲が言い終わる前に病室のドアが力強く開かれた。
その大きな音に二人は肩をびくりと振るわせてお互いの手を振り払う。亮哉は頰を赤らめるが、美咲は耳を真っ赤に染め上げる。瞬間、互いにさっきまでずっと手を握り合っていたことにどこか気恥ずかしいのか、更に互いの視線を明後日の方向へ逸らした。
「おい、起きたのなら教えに来てくれんか」
扉の向こうから現れたのは、しわがれた小柄の老人であった。薄くなった白髪を名残惜しげに肩まで伸ばし、その顔の中央には頭部や自身を包む白衣とは対照的に赤らんだ鼻がこぶのように膨らんでいた。
「この村のお医者さんです。貴方を助けてくれた人です」
「おはようございます。全く覚えていないんですが、昨日はありがとうございました」
「礼はいいから金よこせ。って言いたいくらいの大仕事だったわい」
「それはどうも」
「礼はともかく、アンタよく生きていたね」
亮哉はその言葉の真意を飲み込めていないのか首を傾げる。その様子に、老人は溜息を一つ、己の体の状態を理解していない少年に呆れ顔を向けて吐いた。
「驚いたね。骨折箇所が多く、更に失血の量も多い。昨日ここに運ばれた時、そこのお嬢さんにはもう無理って言ってしまった程に君は危ない状況だったんだ」
「全く覚えてないです」
「その様子じゃついでに頭も打ったか? まぁ安心しぃ。わしが手当てをして、聖職者を連れてきて回復魔法をかけてもらったけ。今しっかり生きとる」
「本当に感謝してます」
「ありがとうございました」
二人の若者が深々と頭を下げた姿に、老人はよせと言わんばかりに手を扇ぐ用に振る。
「上級聖職者の治癒でも間に合うかわからんほどの怪我じゃった。わしらが頑張ったのもあるが、それ以上にアンタがしぶとすぎた」
それだけ。と呟くと、老人は部屋を出ようと振り返る。
「しばらくゆっくりしときなさい。まだ痛みはするじゃろうし」
「どうも」
不意に、後ろ手にドアを閉めようとした手が止まった。
「若いの。いい彼女さんで良かったの」
「一体どういう意味ですか」
老人は喉を鳴らすように肩を揺さぶって笑った。
「いやの、ここに来た時に彼女さんがの、泣きながら『彼を助けて!』って……」
「い、言ってません!」
美咲はそっぽを向くと、しばらく亮哉に振り向くことは無かった。