第一話「俺の財布返せよ」1
うっすら白んだ朝靄の彼方に青みがかった層が幾重にも重なった淡い空が見える朝。両隣に石造りの白い家が立ち並ぶ街道では、今日も各方面の都市に向けて行商人が馬車を走らせている。
ここはグラスフェリア王国の西方、国境近くに点在するカルミールと呼ばれる町である。
馬車を引いて歩く者、馬や驢馬に荷を背負わせて歩く者、老若男女を問わず旅商と見られる人々が行き来する往来では、行商人目当ての屋台が立ち並ぶ。固めのパンと薄く削ぎ落とされた肉、そしてトマトベースのスープ。香ばしい香りが漂う町並みには、早朝とは言え既に人々の活気に満ちあふれていた。
しかし、その中でも日の上りきらない未だひんやりとした空気の中で一人だけうんざりとした顔で肩を落とす男がいた。
「あぁ……。人里までやって来たと思ったら、最後にとんだ拷問を受ける羽目になっちまった」
カルミールの入り口にぼんやりと立ち尽くすばかりの彼、レナードはやや青年じみた一人の少年であった。都会風という表現が正しいのだろうか、一目見て小綺麗な紳士を思わせる。
薄い灰色のスリーピースのスーツに身を包み、引き締まった長身が背広のシルエットがその大人びた印象を裏付ける。肩まで伸びるアッシュブロンドの髪はさらりとしながら日に照らされ、彼の白い肌に透明感をもたらす。しかしその淡い印象の中にもきらりと切れ長の蒼い瞳が涼しげに輝くと、子供のような印象が一変して引き締まったかのように思えた。
しかし、それも見た目の話で、眉を垂れて自身の腹をさすりながら肩を落とす様はやはり子供の様だった。余程空腹に耐えているのか、大きなため息と共に路上に並ぶ屋台を恨めしそうに眺めていた。
「なんでエルト界まで来て給料日前のリーマンみたいな思いをしなくちゃいけないんだ……。それもこれもあのクソ野盗ども……ったく……」
華やかな見た目からは予想もしないほどの言葉遣いの悪さを露呈しつつ、レナードはこの賑やかな雑踏を浮浪者の様に歩き続ける。
「仕方ねぇ。こうなったら日雇い労働でも探して今日の食い扶持を探すしかない。くそっ、服装がこんななのがマジで腹立つぜ」
ぶつぶつと独り言を続ける様は浮浪者どころか不審者と言われるのが似つかわしいだろう。
見た目からは周囲の視線を引きつけていたが、空腹に耐えかねてぼやく様を晒した今では、人々は幻滅したのか再び興味を無くしていた。
「作業着でも持って来れば良かったかな。でも、俺たちの場合作業着って言うよりは……ん?」
顔を上げると、少し先の屋台で喧騒が起きている事に気が付く。
声の主は商人と思しき格好の男二人だった。二人は大柄で人を威圧せんばかりの形相でがなり立て、屋台の家主に罵声を浴びせている。会話の内容から察するに、どうやら買った肉の串焼きに虫が付着していたとのことだった。その虫も肉にかかったソースに絡みついて後から飛んできたのではなく、店で手渡した時点で混入していたと言うのが男たちの言い分だった。
しかし、その言い分も屋台の店主を必要以上に罵倒し、人格を否定する言葉を何度も投げかけている様を見て、周りの人間たちは男達よりも店主に同情の視線を向けていた。
「やりすぎだよ、かわいそうに……」
少年の真横で経緯を眺めていた子供連れの父親が呟く。それは自分の子やレナードを含めた周りの人に同意を求めんばかりの声量だったが、残念ながら父親が期待するような答えは返ってこなかった。
「自分で注意出来ねぇなら他人事みたいにブツブツ言ってんじゃねぇよ。仕方ないな……」
ぶっきらぼうに吐き捨てるとフラフラとした足取りを止める。背筋をピンと伸ばし、ずれた背広を整えると先程までの重い足取りは何処へやら、つかつかと軽快な音を立てて男たちへ歩み寄っていく。
その姿に気付いた観衆からは制止するような声が上がるが、レナードが耳を貸すことはない。
轟々と罵声を浴びせる客の背後を取ると、レナードはにやりと笑って見せた。
「おにーさん達。そろそろいい加減に許してやんなよ」
やや呆れと嘲笑が入り混じった声だった。
男達は振り向くや否や彼に対してありったけの憎悪を向けて睨みつけた。
「コラっ、坊主……。オレたちが被害者って認識持って言ってんのか? オウ?」
「コナマイキな事言ってんネ。チーといい気になり過ぎてんじゃねぇのか……」
睨みを効かせる二人に、視線を向けられた訳でもないのに周りの人々は顔を背ける。一方で見つめ合う形で顔色一つ変えずに飄々としたままレナードは言葉を投げ返す。
「文句も度が過ぎたらイチャモンだよな。いい気になって注意したら何かあるのか?」
「あ……?」
二人の男のうち、中年で小太りな方が間髪入れずに少年の胸ぐらを掴むと、彼は無言でレナードの顔めがけて拳を振り抜く。
観衆からはどよめきと悲鳴が起きる。しかし、その中で人の顔を殴りつけた時の、鈍い音は響いてこない。
彼はわずかに首を傾け、中年の拳が頰に掠れる程度にかわしていた。
虚しく空を切る拳を肩と首で挟むと、肘を下から掌底で突き上げる。関節が軋む音が微かに響くと中年は苦悶の表情を浮かべた。その姿に容赦することもなく、立て続けにレナードはもう片方の腕で中年の顔を殴りつけた。
鼻から血を吹き出して昏倒する姿を背に、もう一人の髪を無造作に伸ばした若い男へ肉薄する。男が慌てて腰の短刀を引き抜くが、レナードにその手を蹴り飛ばされ、短刀は宙を虚しく舞う。すかさずそれを逆手に握ると、男の背後へ回り込み、顎を引き上げて露わになった喉元に切っ先をぴたりと引きつけた。
わずか数回瞬きをする間の出来事であった。喉に当たる冷ややかな感触を感じた時、ようやく男もたった今起こった状況を理解したのだった。
「なっ、な……」
「ダメじゃないか。喧嘩の真っ最中なんだからもっと集中しないと」
若者は腕を引き剥がそうとするが、喉にチリチリした痛みが走った。もがいた反動で首に短刀が触れたのだ。
「ひっ……!」
「喧嘩を売る相手を間違えたらどうなるか、命そのもので教えてやるよ」
「ま、待ってくれ。俺達が悪かった。相方を殺さないでくれ!」
鼻から止めどなく溢れる血を抑えながら、中年はレナードに懇願する。しかし、レナードはその態度にやや不機嫌そうな表情を浮かべる。
「あのさ、違うんじゃないのそれ?」
「はっ……?」
「謝る相手が違うんじゃねぇのかって言ってんだよ」
冷たい目を向けてレナードが吐き捨てると中年は何かを察したのか、はっとした顔で店主に向かって大声で謝罪の言葉を叫ぶ。
「す、すみませんでしたぁ!」
その言葉と同時にレナードは若者の顎から手を離して中年に向けて突き飛ばした。それを受け止めた中年は、首にうっすらと血が滲んでいるのを目のあたりにし、息も絶え絶えに若者の腕を掴んでその場から走り去る。
その背中を一瞥すると、レナードは店主へ向き直った。
「すみません、事を荒げるつもりはなかったんですが。どうも口下手で」
肩を竦めるレナードに対して、店主を含め周りの観衆は乾いた笑いを上げる。
笑い声を上げる人々の目からはそういう問題じゃないという意志がひしひしと伝わってくる。しかし、そういったものにレナード自身が鈍感なのか、あっけらかんとした態度のままでいた。
「はは。いえ、お蔭様で助かりました」
店主は頭をかきながら深々と会釈した。痩せこけた体がぽきりと折れた枝のように曲がると、彼の貧相な薄い頭部がレナードに向く。
苦労しているのだろうと悟ったのか、店主に顔を上げるようにと焦った様子で促した。
「まぁ、大したことは出来ないんですが、何かお礼でも……」
自嘲気味に笑いながら店主は顔を上げた。一文無しと化したレナードにとってはその申し出は大層ありがたかったが、その厚意に甘えると何か集っているような気がして、どこかばつの悪い思いがした。
「いえ、お気になさらず。俺もそんな見返りなんて何も考えずに動いていたものですから……。あ……?」
手を振りながら丁重に断ろうとした途端、レナードの腹が大きく鳴った。他人に聞こえるほどの大きさだったか、店主が物悲しそうな瞳を彼に向ける。先程とは比べものにならないほどの気まずさである。
「食べて、いらっしゃらないんですか?」
「そうですね、財布を落として今はお金がなくて……」
「お礼と言ってはなんですが、よかったらうちの料理ご馳走させてくださいよ」
「えっ。そんな、いいんですか?」
「構いませんよ。あのまま脅かされていたら店の売上全て持っていかれていたかもしれないんですから。それと比べたら屁でもないです」
角ばった顔をくしゃと潰れた笑顔を店主は浮かべた。
しばらく熟考したのち、レナードも先程の店主と同じように深々と頭を垂れる。
「すみません、久々のご飯なので是非ご馳走になりたいです」
その途端、店主は満面の笑みで焼けた肉に包丁を叩き込んだ。
また明日にでも続き載せます。